危ぶまれたこともありましたが、
困難をはねのけ、当日は
「全人格をかけてやる」
との気迫を見せています。
連日投稿されている長文のブログ
からも、その熱気がひしひし
伝わってきます。
ぜひそちらもご一読ください。
本物の改憲論議をぜひ
記入項目は…
タイムシフトや動画で後日
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性別 男
年齢 44歳
お住まい(都道府県)兵庫県
職業 会社員
『第66回ゴー宣道場』ネット参加させていただきました(^_^)
自分自身これまで「憲法改正」の事を筋道を立てて考えるという事をしてこなかったので、議論について行くのに必死でした。(ついて行けてないですが(^_^;))
倉持師範の基調講演を聞かせてもらって、「どういうビジョンを掲げて憲法改正を考えていくか」という、絶対持っていなければならない視点に気づかせていただきました。
そして、リベラルな価値からのアプローチの憲法改正という着眼点は目から鱗でした。
理解が正しいかどうかは分からないんですが「リベラル」とは「さまざまな価値を持った個人が、幸せに暮らすために、どう共生していくか」を考えること。と、解釈しました。
まだまだフワッっとして整理も理解も出来てないので、ぜひ何度も憲法をテーマに道場を開催していただきたいです。
今回を起点に考えを深めていけたらなと思います。
「真の憲法改正」って本当に奥が深いと感じました。
男 42歳 滋賀県在住
倉持師範のお話は、大変熱気を感じる上に、1日も早い実現を願いたくなるものでした。アメリカにおんぶ・抱っこでは、改憲する意味はないし、それとは違う観点から改憲を議論していく必要があると思いました。
近く実施される、衆院選での投票の参考にさせていただきます。あと、倉持師範も、一番苦しい時期を乗り切った様なお顔でした。
倉持師範のお話…、難しかったですね。中々、自分のなかで整理がつかなかったので、またお話しいただきたいですね。
しかし、倉持師範の話はリベラリズムからの憲法改正という新たな視点ですが、一方でオーソドックスな考えでもあると感じました。
僕がもっとも心に残ったのは、憲法改正はテーマから考えていかなければならないということ。考えてみれば当たり前の話ですね。憲法改正が目的化したらいけない。9条3項の加憲なんか意味が分からないし、それで賛成している自称保守っていい加減だなと思います。
そして、リベラルの視点からの憲法改正論ですが、難しいけれども勉強になりました。たしかに、ゴー宣でも憲法は権力者への命令書(だったっけ?)ということを言ってましたが、いかに権力者の暴走を押さえるかが根本のテーマにあるように思えますし、その意味では憲法はもともとリベラルから出発したのでしょう。
僕は憲法の基本は権力へのアンチテーゼだと思うに至りました。権力は常に暴走する怪物のようなもので、抑えても抑えてもなお起き上がってくる、それでも何とか制御しようとする、しかし、僕らが人生において、抑圧から完全に逃れるのは無理であり、でもそのなかでいかに自由を確保するかが憲法の根本的なテーマでしょう。
なので、それは決して共同体であったり、ナショナリズムを否定しうるものではありません。そもそも、共同体への帰属意識もナショナリズムも人間の自然な感情であり、それを認めないというのはやはり、リベラルではないのです。
要は憲法はリベラリズムを基本にしつつ、それぞれの国柄にあった色づけを
していくものではないかとぼくは理解したし、リベラリズムとナショナリズムは決して対立概念ではないというべきでしょう。
女性 46歳 北海道 パート(清掃、ベッドメイク)
倉持師範の基調講演、スーっと心に入ってきました。何条をどう変えるから始めるのではなく、どういう理念を実現させるための憲法改正なのか。リベラル的価値がまず上位にくるという話。国の根幹である憲法はまず理念があるべき。当たり前のことを当たり前に考えていいんだなと素直に感心しました。
高森先生がおっしゃるように、憲法改正を自主独立とは絡めない、今までにはない切り口で、改めて考えてみると斬新です。従来の発想とは異なる、新しい風がふくのを感じました。
ひとつ疑問に思ったのは、「リベラル」の示す意味です。
政治思想としてのリベラルは、ここ10年くらいの間に若手言論人が好んで名乗っているという印象があります。ただよくよくその方々の言説を聞くと、リベラルとは、左翼思想に浸かっているけれど左翼とは言いたくない「なんちゃって左翼」の別名かと感じていました。
でも井上達夫さんが「リベラル」と名乗っていると知り、今またその意味を考え直しているところです。
倉持師範の言う「リベラル的価値」は、基本的人権の尊重や共生の考え方等と言い換えていましたが、私には「リベラル」のカタカナはいまいちしっくりきません。日本語としてしっかり根付いているとは思えないのです。(時代遅れの感覚でしたらすみません)
もう少し普遍的な言葉に置き換えてもらえたら‥と考えました。
それから倉持師範のブログは、いつも楽しみにしていてじっくり読んでいます。憲法について語ればいくら書いても書ききれない分量になるはずで‥確かに難解、とっつきにくい面はあると思いますが、喜んで読んでいるファンもおります。
今回の御話はなかなか難しく、体系的に理解出来るものではなかったです。本来なら、課程を決めて学ぶものです。しかし、庶民的にわかりやすく道場を開催して頂く事は、とても貴重です。
倉持先生の無事の御登壇を嬉しく思います。時間を労して書いてくださったブログは大変参考になりました。体系に到らなくても、俯瞰図にはさせて頂けました。倉持先生は、専門家や法廷に属する人なので、専門的に難しくなるのは仕方が有りません。欲を申せば、文章や御話の公式を庶民に合わせるように工夫して頂ければ有り難いです。
交戦権と自衛権、集団安全保障と集団的自衛権の定義付けの曖昧と乱用が、憲法9条に見られる戦争の違法性を錯誤させ、国の利権と権力者によって、非道な侵略戦争が頻発する事が分かりました。
国際安全保障の仕組みが、完全に働けば国際法的に自衛権は機能するはずなのに、実際は不可能の為に、自衛権を個別的に認めたら、集団的自衛権として拡大歪曲されて、国際法上の自衛権は、侵略戦争として、捻じ曲げられている御話は理解出来ました。
他の俯瞰的で主要な理解を同時並行的に抽出します。従属部分は省略しても長くなりました。毎回そうですが、感想と言えるか分かりません。何だか、自分の話のようになってしまう所は御容赦ください。自分の備忘録のようなものです。
人間が存在して、初めて価値の概念が創出されるので有り、人間の存在無くして価値の概念は存在しないのが、本来、自然の姿です。そこに人間の個人における価値とか、社会における価値とか無いわけです。憲法において人間の価値は、人間が定める事を前提にしています。これを理解しないと、憲法が憲法を価値付ける概念が腑に落ちないと思います。
人間個人、人間社会の価値に形は有りません。それに形を与えて律する一つが憲法という事です。その根本的単位が個人で有り、これを無視して価値は有り得ないのをリベラルと申されておりました。個人に則った人間性の理念こそ、憲法の価値です。言い換えれば、人間の理念、そのものです。
こうなると、保守も革新もリベラルも語句に関係有りません。人間の道理に過ぎません。そうした価値を選び、憲法に定め、この理念に沿う社会を目指すのが立憲主義ならば、これを民主主義としての定義付けを拡散すべきかと思いました。立憲主義と民主主義の足の引っ張り合いは無意味です。
保守と革新とリベラルの語句の定義の曖昧な為に、語句の印象、感覚に負け、実際の政治信条を二の次にして政治手法、所属する党派を選ぶのは情けない限りです。
憲法は、ひとえに個人としての人間性の価値を守る為のものです。これを「人間が共生する為の共通認識」であると申されていました。そして、暴走し利権を独り占めする政治的、経済的権力を封じる為に必要です。公共社会の為に個人の価値を狭めては憲法は用無しです。
文化的人間より発生する全ての事態を法の機密性で網羅する事は出来ません。全てを法律に任せる事は不可能です。やはり、法治社会の中に在って、人間が人間としての価値から離れず、良心に則ろうとしなければ、法の意味は全く無意味です。例えば、憲法行使によって臨時国会を招集し、安倍晋三の疑獄を解明しようとしたら、安倍晋三が、同じ憲法行使によって、解散権を発動する法の矛盾と同じです。
人間には、個人的立場と社会的立場が有ります。人間が、個人の価値と社会の価値を見る時、重なるものも有れば、相反するものも有り、互いに干渉して成立するものも有り、人筋縄で、考えてしまうと混乱すると思います。その時と場合で、柔軟に思慮出来無いと、カルト的原理主義に陥って、一向的となり、人間性を無視する矛盾に陥ります。
憲法の上位概念として、リベラル的価値が存在すると言うより、人間が在って、憲法、その他の文化は存在しています。しかも、時間と空間による歴史、地域、文化、風習にも左右されています。以上を踏まえて、憲法は、如何に人間性に則っているかが問題で有り、憲法の改正は、如何に、その時代の人間性に則った道理を汲んだものに修正すべきかが大事です。
憲法(全ての法律)は条文から成りますけれど、語句よりも、その裏の理念を理解するのが先と思います。これは物事を単純化して、原理主義に陥らないのに必要です。はからいなく、へつらいなく、たかぶらない生き方にこそ、法の理念は有ると思います。
改憲は、体系的にしないと意味を失います。安倍晋三の9条の単純な加憲は、憲法9条を中心とした法体系の矛盾、欺瞞を拡大します。亡国の改憲論です。集団的自衛権にて、戦争の違法性を説く国際法の理念に逆らいます。自衛隊の弱体化、または暴走化が生じ、文民統制を不能にし、残酷な被侵略、侵略戦争を生み出します。
個別的自衛権と、考え抜かれた専守防衛を国際法上における戦争の違法性の理念に則って改憲するのが、平和憲法の性質を守る為に必要です。
現在の国際法上の枠組みの中で、自国の安全保障としての個別的自衛権を考える事だと思います。国際法の改善とは別の話です。
倉持先生の強調されていた憲法裁判所の創設すべきに賛同を追加します。憲法、各種法律の機密性の薄さ、よく言われる法の網をかいくぐる行為が、現官邸をはじめ、地方行政、その出先である学校、各種施設で横行するのは眼に余るほど酷いものです。完全第三者機関としての憲法裁判所と共に『地方自治体にも』同じ機構が必須です。人間性を守るべき行政による、人間性の踏みにじりを絶対に許してはいけません。
こぴゃる 女 京都府 32歳
ついていけない部分はいっぱいありましたが、倉持師範のお話をたくさん聞けてよかったです。
個人それぞれがその人らしく生きて、その結果共に生きることを保障するのがリベラルで、国家権力を縛ること以外に、リベラルな価値というものも、憲法の大前提なのだと感じました。
しかし、私の受け止め方が違うのか、第二部での倉持師範がリベラルについて改めて説明するところで、国家を越えた、世界市民のような意味合いで聞こえてしまい、まだまだリベラルという概念?が腑に落ち切らないのが正直なところです…。
自民党や安倍首相の憲法に対する向き合い方や動機には、いろんな矛盾や欺瞞を感じてしまいました。
憲法改正には、テーマが不可欠であり、どのような未来を描き目指すのかを考えることが重要だというお話も印象に残りました。
多くの庶民は、学校で習ったくらいで、改めて憲法とは何か?と考えることはあまりないだろうし、私もゴー宣やゴー宣道場を通じてなければ、憲法について何の関心もなかったと思います。
しかし、憲法改正となると国民投票ですし、有権者それぞれにどのような国や未来にしたいか、大きな選択を迫られます。
その時に、より良い選択ができるように、憲法とは何か、何が書かれて(描かれて)いるのか、たくさん考えて学んでいきたいと思いました。
道場終了後は頭がフラフラになって疲れましたが、議論について考えていると頭が興奮してなかなか寝つけませんでした。動画で復習したいです。
倉持師範のご活躍を拝見でき、本当によかったです。ありがとうございました!
倉持師範基調講演お疲れ様でした。画期的な改憲論の幕開けとなる講演を聞くことができ、誠にありがたく今後の展開に期待が膨らみます。
よしりん先生、高森先生のお話も参考にしながら、懸命に講演についていくことに努めましたが
とっちらかる思考をまとめるのに足掛け5日考え込んでついに頭がショートしました。
結局自分が何を理解できたのかにも首を傾げる有様ですが、どうにか文章にできる範囲で感想をつづらせていただきます。
私は、リベラルというのはどうも相対主義に陥るような気がしていたんですが、「私」領域には立ち入らない、押し付けないというのがポイントなんですね。「公」的にはアウフヘーベン目指してがっつり議論すると。
リベラル的に、「個人」から考え始めても、保守的に「共同体」ありきで考えても、「個」を尊重しつつ、「公」の範囲を、世界でなく国家大までと設定すれば、議論が見当違いになることもなく、近い結論にもなるのだなあと思いました。
どちらも軽視せず目配りをするから論点も広がり議論もより深まるのでしょう。
倉持師範の、感情的な動機で一回改憲やってそれで終わりにしてはいけないというご指摘に目から鱗が落ちました。まことにごもっともです。
ただ、憲法というものを説明するはじめに、フィクションとして個人を置くところが私にはどうも腑に落ちません。ちゃぶ台をひっくり返すような疑問ですみませんが、個人を置かなきゃ始まらないですかね?(理解できなくてホントすみません)
私は、個人というフィクションは、王政を退けて市民社会を作るにあたり、民主主義に正当性を与えるため、王権神授説の代替としてひねりだされもののように捉えています。
そうでないとしても、個人を前提に語る理論は、民主主義にしろ、資本主義(市場主義)にしろ、理論どおりにうまくいくには、個人が常にそれなりの判断力に基づいた合理的な結論を下すものなら、という条件が必須ではないでしょうか。
「個人の尊重と共生」はもちろん、誰も反対しない価値だと思いますが、
「あなたがあなたでいい」のは「あなたが(相応の資質と能力を持ち個人で生きる責任と覚悟を身につけているなら)あなたでいい」ではないのか、()内についても理解したうえでの話でないとと思いますし、正直私は怖気づいてしまうところです。
私には、個人を置くのがどうも後付け理論に思えてしまい、後付けがだめなわけはないにしても、先に共同体があるのだからそちらから始めた方が話がすんなり受け止められます。
普遍といっても、日本は、欧米のように革命やったわけでも、王朝交代があったわけでもないですし、公の範囲が国家までなら、国家の歴史的経緯で憲法を作った理由等成り立ちを語ればいいように思います。
しかし、個人の尊重という観点を持たないままの改憲論ではいけないことは大変勉強になりました。
日本的な個人像というのがあるのか(個人て、あるというか、育つものじゃないか?すると、日本的に個人としてのあるべき姿、目指す個人像が描けるのか?)、
日本的リベラリズムってどういうんだろう(個人と共同体をどこらでバランスとるかになるのか?)・・・勉強不足で考える手がかりが見当たらない状況ですが、今後も道場に食らいつき引き続き学ばせていただきたいです。
倉持師範の、学識とクラシック愛が怒涛のように炸裂するブログ大好きです。
これからも頑張って読みます。
性別 男
年齢 37
お住まい 神奈川県
職業 建築業・職人
1.参加(視聴)の動機(目的)は何ですか?
公的には、憲法の議論とは、即ち日本国民としての意識と覚悟を議論すること。
こういう議論を継続的にしていかなければ、いつまでも日本列島は臆病者の島のままだと、考えます
。
個人的には、前回のゴー宣道場のお陰で、私の個人的なある研究のうち、『民主主義という病い』から着想を得て、鋭意研究してきたものが、なんと思いがけずに仕上がってしまいました。
ゴー宣道場を応援させて頂きまして感謝です。
しかし、例えば倉持先生が九州道場で語っていた三権分立についての問題提起とか、上手く反映できているのか?
もう少し考察を深めておきたい。また、残る研究にもヒントが得られるかも知れない。
2.今回のゴー宣道場の感想をお聞かせください
① 第1部について
確かに難解でしたが、ブログで予習させて頂いていましたし、先述の自分の研究の考察にも関わるので、
私なりに、倉持式憲法改正チェックポイントみたいなところはメモさせて頂きましたし、
井上達夫氏とも違う、こういう視点からの改憲もあるものなんだなと、
プロの法律家からすれば、いざ憲法改正するならここまで考えるものなのか。頭が下がるなとか、
その淀みない理路整然としたプロの実力に感心していたところに、
自主独立のための改憲とは出発点が異なるというアンチテーゼがバチンと。
深い議論、分厚い議論の予感にアドレナリンがドバドバ!(実際、夜二時間しか眠れませんでした)
映像でも伝わるその緊張感。これぞ議論の醍醐味!
ただその前に、解消されない疑問がありまして、
大東亜論第三部の描きおろしで、百花繚乱の私擬憲法はすべて無視され、
結局お上からの押しつけ憲法だったというのがありました。
憲法とは国家権力に対する国民からの命令書であるのに、実際に憲法作成・改正・成立・施行するのは、権力者である政治家というパラドックス。
基調講演の中でも、当然自分達が自縄自縛にならないようにするだろうと。
ですから、今回だってこのままいけば、結局政治家が一方的にプレゼンしてくるのを、
我々国民は唯々押しつけられるということになるのでは。
今回の折角のゴー宣道場の論議だって、残酷なことにフイになるかもしれない。
熟議などする気もない安倍政権や、リベラルを排除とか公然平然と言ってのける緑のたぬき(確かにたぬき顔ですな)、
そんなのに押しつけられる、開けてみたら化け物だらけの大きなつづらのような改正憲法。
そうなったら泣き叫んでも無駄なこと。その恐怖、無惨…。
今回の倉持先生のリベラル改憲案が、高森先生小林先生をして驚嘆・称賛せしめるほどの価値があるものならなおのこと。
憲法が権力を縛るためのものなら、どのように政治家に国民の側の要望要求に応えさせればいいのか?
今回のゴー宣道場での論議などは、いかに反映・影響させられるのか?
コンビニもない田舎でも、例えば「憲法裁判所?そんなの常識だよ!」という風になるように、世の中をどう変えていけばいいか?
② 第2部について
リベラル改憲案の本質、そのエポックメイキングな重要性について勉強させて頂きました。
我々は憲法論議の歴史における重大な事件の目撃者となったわけですか?
保守思想が歴史とか伝統とか共同体とかの、不文律的な常識的感覚に根ざしているのに対し、
リベラル思想はそういうのから一切解放(レクイエムにもある[リベラ])された上で、とにかく理知的、論理的、近代合理主義的という印象。
デカルトの「我思う、故に我あり。」が起源だったりするのでしょうか?
必要は発明の母。必要とはそれまでの否定。人は前を向いて進むように出来ている。人は進歩しなくても、人間世界は進化できる。
保守はリベラルに否定され、リベラルは保守に否定され、互いに克服しようとする。
そういうメソッドで、私も色々新しいものを研究開発したものです。
そしてこの憲法改正論議は、果たして保守とリベラルの議論、智恵と知恵のぶつかり合いにより、弁証法的により洗練・昇華され、
高度なレベルでの保守とリベラルの調和・融和・共存共栄、或いは保守もリベラルも超越した更なる価値観に止揚統合する可能性もある。
(枝野幸男氏はもうその域に達しているのでしょうか?)
気楽な観客としては、その変容を見ていくのはとても楽しい、心踊ることです。
況んや、勉強意欲の高い人なら、理解できないかもしれなくても一生懸命耳を傾けるでしょう。
③ 全体的な感想
倉持先生については、正直、以前はこりん星からきたゆうこりんみたいな、
価値は高くてもちょっと色々イタい人という印象でしたが、
何があったのやら、一皮剥けたかのように、古い自分に打ち勝ったかのように、
今回の基調講演といい、連日のブログといい、頭の若さというか変なケレン味が後退し、よく整理され洗練されてきたように思いました。
感極まって号泣されたらどうしようかとか思いましたが、終始淡々とクールで良かったと思います。
それで、一体どれだけ研鑽を積み、どれだけ意識高く思考し、求道し続けていれば、ここまでの領域に達することができるのか。
おべんちゃらを書いているわけではなく、このような知性に対する憧憬というか、喜び、愉悦というか、
ゴー宣道場が公論の場としてより注目され、躍進するためのセールスポイントとして、
このイケメンな知性が活用できないものなのかなと思った次第です。
池上彰やら林修やらよりもずっと権威・風格・信頼がある、みたいな。
議論の内容とは全然関係ない、好き勝手な戯れ言ですが、あしからず、失礼しました。
高校生の時、藤沢駅でニアミスしていたかもしれない三浦瑠麗氏以上に、僭越ながら実は親近感を感じる方なので。
それと、語られれば語られるほど、考えれば考えるほど、枝野幸男氏は実は底知れない知性の持ち主なのではと。
安倍政権をどうにかするためにとか、一切掛け値なしに、この人の政党に票を投じるのも面白いのでは、と思います。
④ 今後「道場」や「ネット道場(動画)」で
取り上げて欲しいテーマ(企画)があれば
ビジョンを描くにはテーマが必要ということで、それなら公論の場ゴー宣道場こそが、政治家や日本国民にテーマを呈示するというのはどうでしょうか。
まず、ゴー宣道場がそのテーマについて議論して、
政治家や国民がそこからさらにビジョンを展開したりバリエーションを広げたりし、そして具現実現結実させていく。
倉持先生風に言えば、『ゴー宣道場交響曲』のソナタ楽章みたいな。
それができれば、先述の私の研究の実践に近いことができるのですが、どうでしょうか?
皆が言うように、ちょっとやっぱりまだ先に行き過ぎていますか?