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山下惣一(農民作家):「誤解」だらけの農業問題
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山下惣一(農民作家):「誤解」だらけの農業問題

2013-08-23 21:12
    風立ちぬ」がヒット中のスタジオジブリが発行する小冊子「熱風」で、今から4年前に、佐賀の農民であり作家でもある山下惣一氏が寄稿をされていました。

    当時転載を依頼した編集部に、「へー、あんた若いのにこんな冊子読んでるんだね」と山下さん。少し嬉しそうな様子でした。

    「誤解」の多い日本の農業。戦後の日本の変化を、農業の立場からジッと見てきた方だからこそ書ける文章なのだと思います。農地に立ち、畑を耕し続けてきた農民からの視点を、ぜひジックリとお読み下さい。

    山下惣一(農民作家):「誤解」だらけの農業問題

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    農業歴57年、私と女房が現役、息子はサラリーマンという立場でがんばる農家

    「農業問題・食糧問題は農家の問題ではありません。これは消費者にとっての問題なのです。」私は40年、それこそ何とかのひとつ覚えのようにそう主張してきた。もちろん世の中からは相手にされず、取り合ってくれる人もごく少数。糠に釘。蟷螂の斧。

    「いまにみていろ、やがて農業をやる人はいなくなる。日本人は農なき国の食なき民になるぞ」
     私はなおもいいつづけた。かのオオカミ少年のように。オオカミ青年からオジサンになり、いまやオオカミ老人となってしまった。そして本当にオオカミは現れた。現下の農業問題は、ま、そんな感じですね。

     農林水産統計によれば、かつて600万戸あった農家はこの半世紀で半減し、とりわけ「販売農家」(耕地が30アール以上か農産物販売額が年間50万円以上)はたったの180万戸。就業者およそ300万人弱でその半数が70歳以上なのだそうです。私にいわせれば、「それみたことか!」ですよ。

     自己紹介をしましょう。私は九州北部、佐賀県唐津市の外れの玄界灘に面した村の農家の長男に生まれ、村の中学校を卆(お)えて以来、ずっと家業の農業をやってきました。今年73歳、農業歴57年。わが家は分業で私で5代目です。

     現代は女房と二人で山の棚田70アール、みかん畑50アール、ぶどう10アールのほか、村の直売所用に梅、レモン、野菜など多品目少量生産をやっており、今年から女房が個人で「漬物工房」を立ち上げました。夫婦ともにすこぶる元気です。

     昭和37年生まれの一人息子の長男は、2年間のアメリカでの農業研修の後7年間、期待の農業後継者として一緒に農業をやりましたが、みかんの規模拡大で失敗し(値段がぜんぜん良くならなかった)30歳で転職していま、わが家から車で1時間余りの稲岡市でサラリーマンをやっており、当人は「仕送りをしない出稼ぎ」といっています。田植えなどの農繁期に帰ってきて農作業をやっています。当面、わが家の目標は、息子が定年、またはそれ以外の事情で家に戻ってくるまでの間、私と女房が現役でがんばって、家業を次世代につなぐということです。ま、そういう立場の農家の主張だと理解してください。

    「農業がなくなったとしても、日本経済には大した問題ではない」という誤解

     さて、それでは「誤解」の代表的なものをいくつかあげていきましょう。

     まず、冒頭の「農業・食料問題は消費者にとっての問題である」はどうでしょうか。

     私はかなり理解されてきたと感じています。消費者は、自分を守るためにこそ身近な農業を食い支えるべきなのに、「生産者」対「消費者」という対立概念で捉え、農業問題は農業団体や農家の問題だと誤解していたのです。しかし、農家にとっての問題は所得であって食料ではありません。どんな時代、どんな状況になっても自給分は作りつづけるわけで、いざというときに飢えるのは、私ではなくアナタです。ここにきて、ようやく「地産地消」「緑提灯」など身近な農業を支援しようという気運が出てきました。

     「日本農業」というのもこれは「誤解」です。「どこどこ、それはどこにあるんですか?」と私はいつもイヤ味をいっています。「日本農業」という現場はありません。「日本の中」にさまざまな農業があるのです。南北に細長い日本列島では北と南で大きな違いがあります。北ではすべての作物が年に一作ですからある程度の規模が必要になります。しかし、南では違います。たとえばジャガイモは北海道では年に一作ですが、九州では春と秋の2回、長崎県の島原半島では同じ畑で年間3回も作っていますよ。そんなわけで面積は北が大きく西日本や南の方は小さいのです。

     そもそも「大規模」「小規模」はどこで線を引くのでしょうか。これは相対比較の問題であって定義などはなく「物差し」にはなり得ません。ところがこれを「物差し」にして耕地面積4ヘクタール以上(都道府県の場合)を農業の担い手と定めるなどとやっているのが農政なのです。これは「日本農業」というトータルとしての数字、つまり、気候風土、地形、地域からも乖離(かいり)した農業となるわけです。

     「農業は過保護」というのは私たち農家が一番アタマにくる「誤解」ですね。くどくどと弁解はいたしません。私の質問にひとつだけ答えてください。「それほど大切に保護されている農業をやる人がいなくなるのはなぜですか。保護される側から保護されない側へ雪崩をうて移っていくのはなぜですか?」さ、答えてください。

     「農業の産出額はGDPの1%程度だから農業が無くなったとしても日本経済からみればたいした問題ではない」こう主張する経済学者がいます。つい数年前、FTA(自由貿易協定)EPA(経済連携協定)推進ムードのころに農業が足枷になっているとして盛んに喧伝された論です。いづれまたむし返されることでしょう。こういう主張をするアホな経済学者が世間に通用し、それを信じて農業を「誤解」する人が多いことが私には信じられませんね。ちなみに同比率の国際比較ではアメリカ・ドイツが0.9%、イギリスは0.8%です。

     まぁ、そんなわけで農業・農村の実態を知らないただの無知からくる誤解なのか、曲解なのか、それとも意図的な攻撃なのかはともかくとして、この国の農業は国民の誤解の大海の中で溺死させられているのです。

    「農業構造改革による零細農業からの脱却」という最大の幻想

     そして、最大の誤解、錯覚、幻想は国の農業政策の方向だと私は考えています。いったい農業をどうしようというのでしょうか。

     「農業構造改革による零細農業からの脱却」というのは日本の農政の長年の悲願です。零細農家が多いために兼業化、高齢化がすすみ自立も産業化もできず国際競争力もなく補助金頼みにならざるを得ないというわけです。

     日本の農業が零細なのは日本の国土のせいであって農家の責任ではありません。飛行機の窓から眼下の風景を見てください。山また山のつらなりで、国土の7割近くが森林、山林です。山と山との間を川が流れ、川沿いに水田と民家が並び、やがて河口の平野と都市につながる。国土に占める耕地面積はわずかに12.5%しかありません。北海道や八郎潟など一部の地域を除けば日本の農業は自給農業だと私は考えています。売るためではなく食うための農業です。

     だから昔から日本の農家は農業生産だけでなく、山仕事、炭焼き、わら細工などもやって、これを「副業」と称したのです。日本の伝統工芸のほとんど は農家の副業から始まったといわれています。このようにカネもうけではなく、暮らしを目的としてそれに必要なことは何でもこなす人のことを、私は自分もそうありたいという願望をこめて「百姓」と呼ぶのです。

     日本の村社会はいまもなお基本的に血縁関係であり、何百年も同じところに住み続ける定住社会です。住んでいるのは「百姓」です。高齢化した百姓衆が村を支え、乏しい年金をつぎ込んで、赤字の農業を守っているのです。農家が農業を守っているのが実感です。その根っこ、核、コアとなっているのは稲作に使う「水」なのです。

     田んぼは個人の所有ですが、水は個人のものはなくみんなの共有財産です。この水の共同利用こそが日本の農村の土台でもあり、畑作農業 地帯とは異なるところでしょう。何よりも公平、平等、和が尊重されないと維持できない社会で個よりも集団が優先します。たとえば溜池の水を落とす、川の井堰で流れをせき止めて田んぼに水を入れるなどの日を決めるのは総意であり、個人の自由は許されません。つまり、一人の百歩ではなく、百人の一歩前進がルールです。
     経営規模の大小というのは個人の立場での話であって、集団でみれば全体のパイには変わりはないわけで大した意味はないのです。

     集団内ではゼロサムゲームですから一方に大きくなる人がいれば他方に小さくなる人が出る。そういう変化は好まないのです。人がいなければシステムそのものが維持できないからです。ですから、農家はやり方が下手だから農業がもうからないのではなく、もともと「もうけ」を目的としていないのです。私が尊敬する百姓の大先輩は、若いころ世襲に際して父親から「いいか、大きくなるな、小さくもなるな」と教わったそうです。これが村の論理なのです。

     長い間農政が進めてきた「構造改革」は「村こわし」「村つぶし」なわけでその結果生まれたのが、「限界集落」です。農家の数が減って、残った人の経営規模が大きくなるどころか、結局みんな滅びるのです。

     つまり、日本人の風土にアメリカ型の単作、単品専業モデルを導入したことが、とりわけ戦後農政の誤りではなかったのでしょうか。

     一例をあげれば畜産です。構造改革が進んだ分野で、小規模農家が淘汰されてどんどん大型化しています。それ単体ではロットが多いことが合理的でしょう。しかし、飼料用のトウモロコシだけで毎年1200万トンも輸入して食糧自給率低下の主因となり、糞尿は産業廃棄物として日本の環境に放出、処理されているのです。地球規模でみれば資源の一方通行であり、輸出国は国力の喪失、輸入国は汚染の輸入という構図で、こんなやり方が何百年も続くのでしょうか。これを逆に小規模にすれば里山や田んぼの稲わら等の地域資源で飼育でき、糞尿は貴重な有機物として活用する循環型社会となるのです。

     いま株式会社の農業参入が注目されており国はその方針のようですが、これはあくまで部分的、限定的と考えるべきでしょう。農林業の本体ともいうべ き全国津々浦々の農山村の家族農業が担っているものをそっくり肩替わりするという話ではないのです。問題の本質は「本体」をどうするのかということです。 「誤解」のないように願いたいものです。
    (「熱風」2009年7月より著者の同意を得て転載)

    <8.24山下さん登壇のシンポ放送>

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    DSC_9965.jpgのサムネール画像【プロフィール】 山下惣一(やました・そういち)
    1936年佐賀県唐津市生まれ。
    農民作家。中学卒業後、家業の農業を継ぐ。
    生活者大学校」教頭、「農民連合九州」共同代表、「アジア農民交流センター」共同代表。1969年「海鳴り」で第13回農民文学賞、1979年「減反神社」で第7回地上文学賞を受賞。著書に『土と日本人』(NHK出版)、『身土不二の探究』『市民皆農』(ともに創森社)ほか。

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