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青春舞台「1518! イチゴーイチハチ!」公演を終えて20210303
出来ていないことの口惜しさが残るのが、プロデューサーの役どころなんだろう、と、いつもアニメでも舞台でも作品が完成し結果が出てから思う。何も思わないくらい完璧にできたっていう記憶が無い、いや、TVアニメの「タッチ」だけは例外かもしれない。天才演出家の杉井ギサブローさんが僕が気になって仕掛けた議論のすべての事柄に真剣に議論に応じてくれた。それはクリエイター視点と観客視点のぶつかり合いだったのだが結果いつもどこかに落ち着いていたので、もう議論の余地がないくらいにあらゆることに納得のいく作品になった、事ぐらいかな。これって僕のプロデューサー人生45年にたった1回の出来事っていうことになる。青春舞台「1518」も想定の範囲の中ではあるけど、結局できていないことが思い返されそこは残念、ということになってしまった。なにがどうとは言わないけど、気が付く人は気が付いていると思う。芝居見慣れた人の何人かの友人は指摘してくれている。そのくらい明白なもっと良くなる側面がある、って伸びしろがあるっていいことですよね。悔しいことは内容だけではなくビジネス面でも起こる。ただ、今回はビジネスの結果が出きっていないので、この次があるかないかはまだわからない、なのでビジネス面は於いて、内容については次があったら基本のところから細部までのなかに、何が何でもあそことあそこははこうしたいって思う個所いくつもある。でもこの「1518」は、そういう僕の気持ちとは別に、観てくださった方々にはおおよそ好評のように思う。それはそれでありがたいと思うのだけど、でも好評以外の言葉は直接には当事者に聞こえない所でささやかれるのが常なので、好評は心の引き出しの奥にそっとしまっておこうと思う。作りたいものを作りたい方法で作る人が多い作り手の側の人間の中で、唯一、観客目線で作品を客観的にとらえる視点を持つのが僕の役割だと思い長くやってきたプロデューサーという仕事、そこで培った自分の感覚に素直に従っていつか来るかもしれない次の機会に備え、反省点を頭の中に整理しておこうと思う。なにを観客の心に残すのかなにを見せて楽しんでもらうのかこれらが僕がいつも心がけていること。この目標に到達するためにどういう演劇を作るのか、どういう方法を使うのか、★パターン・スタイル・類型の模索★ミュージカル・ストレート・音楽劇・パントマイム・オペラ…★井上ひさし風・平田オリザ風・文学座風・つかこうへい風・野田秀樹風・宝塚歌劇団風•歌舞伎座風…これらだけに特定するわけではないが概ねこのような中からイメージをどのあたりに置くか、をスタッフと共有できれば観客に伝わりやすい演劇が作れる、といつも思いながら仕事している。「1518」では僕は、いのうえひさしさんの戯曲を鵜山仁さんが作るときのように音楽と歌を静かな演劇の中に旨―く取り入れて笑いと涙誘いながら観客の心の奥に語りたい事柄を深く沈みこませる、あのセリフのやり取りの間を大事にして余韻を残すスタイルが似合うのではないかとイメージしたが、そこはうまくいかなかった。
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舞台「まいっちんぐ漫画道」~藤子スタジオアシスタント日記より~
舞台「まいっちんぐ漫画道」を観た。
藤子・F・不二雄先生が登場するということを池袋の劇場でチラシで見つけ、サブタイトルに「藤子スタジオアシスタント日記より」と書かれていたので直感で観たいと思ったし、藤本弘先生が登場するのは確実で役者がどのように藤本先生を演じるのか、と思ったら何が何でも見ておかねばと思いとっても忙しい時期だったのだが池袋まで出かけた。
芝居は、そこそこ観れた。
演者に熱量があり、テンポは早く、シーンの移り変わり、ネタの投入頻度とか、飽きさせない工夫が詰まっていて、あれよあれよと目が楽しんでしまう。
藤本弘先生を演じた俳優さんのなりきり具合に感謝したい、藤本先生があたかもそこにいるかのように見え、久しぶりに藤本先生に会えてうれしさ感じてしまった。
安孫子素雄先生も然りで、見事な形態模写になっていた。松野マネージャーさんを演じた女優さんの、話し方から身のこなし方まで何から何までのそっくり具合にはさらにびっくりした、あまりにそっくりなのでちょっと怖くなった。特に、まいっちんぐマチコ先生のモデルになった藤子スタジオのアシスタントの女性、とチラシに紹介された役の女優さんが素晴らしかった。別にプロポーションは素敵には少し距離があり、首から上も綺麗型の美女ではないのに、艶やかな美女に見えてしまうというマジックを見た、このなりきる鮮やかさと、表情豊かな演技に目くらましに出会ったかのように、目が快感感じて彼女を追いかけてしまう。
なので、芝居そのものには不満はない。
それをこの舞台では、あたかもスポーンサーもテレビ局人間も、ステロタイプなふざけた人間としてしか描かれていない。そんなことは、藤本先生の基本的なお考えに全く反している。先生は、いつも、自分の漫画をアニメにしてくれて、ありがとうとおっしゃっていた、感謝されていることが、僕ら関係者には痛いほど伝わってきて、この方のためなら頑張ろう、といつも思っていた。
もっと言えば、この舞台ではこの種の人たちが登場する場面では、この人たちの職業を馬鹿にした表現で笑いを取ろうとしている、他人を馬鹿にして笑いを取るなんてテレビバラエティ番組のノリは藤本先生は絶対にされなかったし、自分が主役の芝居の中でそのような表現がされてれいることを知ったら、それは許されない、とお叱りになったことは間違いない。それを、この舞台では、放送に関係する人たちを悪人に類するただの間抜けな人たちとして描かれていた。百歩譲ってそのように先生と先生の描かれた漫画に尊敬の念が無くただの仕事して軽く考えて参加しているように見えてしまう人が関係者にいたことを受け入れたとしても、アニメ関係者、放送関係者たちをこの舞台でのようにおふざけの場面にしつらえ、馬鹿にした描き方は、藤本先生の根本的な思想というか表現者としての基本的な考え方には全く反している、ことははっきり言っておきたい。
アニメ&放送関係者のエピソードとして、視聴率が下がったのはその時代の空気に似合わないから、のび太を改造してもっと元気な活発な男の子に性格を変更しよう、という話が出ていて、これは実話です。この舞台ではその話の落着点が示されないまま、単に視聴率が下がったから放送が中止になった、という話になっていた。どの時点での話か定かではないが、僕の記憶とは全く違って番組は中止にはならなかった。
その時、先生は、このようなのび太の性格の変更にはきっぱりと明確に反対された。その時の藤本先生の話に、アニメ&放送関係者は改めて藤本先生の子供を見る目の温かさに触れ、これからも番組は守らなければならないと思いを新たにした、と記憶している。先生がおっしゃったことは、のび太は弱い子でいいのです、子供はみんな誰かを頼りにしたいんです、出来ないことがあると誰かに助けを求めたいんです、だからドラえもんみたいな友達が欲しいんです、この考え方を聞いて、のび太の性格の変更を言い出した人々は、己の浅はかさに気が付き反省し、もっとこの番組を大事にしようと、再度奮い立ったのです。
なんで、そんな藤本先生のお考えの根本にある人間に対するやさしさの目線と、舞台上に繰り広げられたドタバタおふざけの部分の描写が、どれだけ乖離しているかにこの舞台作る人々は気が付かなかったのだろう、劇場を出るときの気持ちはとっても沈んでいた。
この芝居創った人たちの熱意は十分に感じたし、芝居はたくさんの稽古に裏付けられたであろうキチンとした芝居だった、でもこんなの許されない、と思った。
それを伝える元気すらなくなって、僕は黙って劇場を後にした。
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「鬼滅の刃」感想20210104
「鬼滅の刃 無限列車編」の感想を書いてみた。
【印象】
この映画がめったにないくらいアニメ表現の仕上がりが素晴らしいという事は分かった。
アクションシーンのアニメーション、背景含めた画面構成とその繋がりの美しさ、キャラクター表現の派手さ、セリフの決まり具合が、ストーリーの単純さを忘れさせ豪華な映画の印象を残している。
メロディの繊細さが情景を深め感情を増幅させるBGMの心地よさ、画面から来る感覚と聴覚のいずれの効果も目と耳を楽しませてくれることも分かった。どの一つの画面にも作り手の熱と思いが詰まっていて、すばらしい迫力を感じさせてくれる。
なのでなぜヒットしたのか、という理由もよく分かる。
でも感動したとか面白かったとは僕には思えなかった、個人の趣味の問題だろうと思う。【テーマ】
死をテーマにしたかったのだろうが、それはかなり無理があると思った。冒頭の「お館様」が鬼殺隊員の墓標の並ぶ墓場の中で死者の言葉を聞き取ろうとしてる場面、「下弦の壱」の死の場面、最後の「煉獄杏寿郎」の死の場面、彼らのダイイングメッセージに、生きているときに何をしなければならなかったか、何をしたかったか、それが出来たか、人はそれを分かってくれるだろうか、を自問させ答えを語らせようとしている。
これがテーマなのかと思うが、何十人も死んでいることがこの物語の前提なので、何十人分の思いが墓標の羅列の描写だけでなくもう少し何かが出ていればまだしも、たった2人の死の間際の声からではテーマと言うには芯を突いたとはいいがたい。
死を描写して、生を思い返す、というのがテーマ性を語る演出なのだろうと思う。死の淵から生を見るという視点は新しいんですよ、と言いたかったみたいに見える。墓場の場面入れてテーマを暗示することから始めたのは、最後の煉獄の死に繋がるので、工夫とは思うが。
でも、「上弦の参」に逃げられたので一つの映画としては、事件は最終的には解決していない。テーマの死より、逃げたあいつをなんとかしなければいけない、そっちの印象が映画の半分くらいの読後感として残る。【ストーリー評価】
ストーリーは一本道で単純で、単なる鬼退治の話で何か感動を誘う点はないと思った。伏線はほぼ無い。
主人公炭治郎は前半では主人公扱いだが全編を通して活躍するわけでは無い。この映画のストーリーのどこが面白いのか、分からない。だが単純なだけに分かりやすい、だれでも分かる、間口が広い。これはヒットの必要条件かもしれない。
でも、と思う、死を扱えばだれでも悲しくなるのは人情なので簡単に泣きたくなる。そんな安直な方法はその物語を安くする、と思うので、僕は、死を長く緻密に描写してその場面で泣かそうとする作品は、僕の作品感では安物の部類に入れている。
この映画ではそこはやはり冗長で少なくとも面白くはない。【ストーリー】無限列車で40人が行方不明、で鬼殺隊出動。煉獄杏寿郎さんが頭。炭治郎・伊之助・善逸・禰豆子(以下ネズコ)も箱に入って参加。
鬼殺隊が列車に乗り、切符を車掌に切られたところで下弦の壱の夢術にかかり全員が眠る。術にかからなかったネズコが皆を起こそうとするが出来ない。炭治郎は眠って現世とあの世の混ざった夢でいい気持ちになっていて目が覚めない、ネズコは下弦の壱と戦いながら炭治郎を無理やり目を覚まさせる。炭治郎が下弦の壱と戦い勝つが傷つき次の戦いに参加する余力が無い。ボス鬼の上弦の参が表れ煉獄さんが上弦の参と戦うが寸前でヤラレてしまう。炭治郎も上弦の参に一太刀浴びせるが、夜明けの太陽が出てきそうになり、上弦の参は林に逃げ去る。乗客は1人も死ななかった。
派手で際立つ。
ありえないような奇抜さを持つキャラがいる、イノシシの被り物、口にクツワはめた妹、髪の毛が橙色の煉獄さん、みんな奇妙な姿かたちだがスッキリしていてカッコ良い。絵的にも色使いも姿形にも今までには無い独特感が有るキャラクターが出てくる。キャラクターに色数が多いので見ただけで派手に見える、逆にスミ単色のキャラも目立つ。衣装、ヘアスタイル、顔の化粧が派手、何もかも派手で見栄えが良くできている。イケメンだけでは無いキャラクターの独創的なアイディア、目立つすがたかたち、ヘアスタイル、皮膚の模様、目の鋭さ、女目線のスタイリッシュなキャラクターデザイン。随所に出てくる少女漫画風の2頭身デフォルメお茶目キャラでのお遊び、これらのすべてのキャラデザが受けた大きな理由だろう。
★煉獄の死の間際の言葉、ネズコは人間を助けようと鬼と戦ったので、彼女は鬼ではなく、鬼殺隊の一員だと。妹を思う炭治郎の気持ちを楽にする一言が死に際の言葉って、こういうのも家族愛もテーマの一つです、という気配りの演出ですね、ちゃんと抑えるところは押さえている。
★「週刊少年ジャンプ」の王道の少年のアクションヒーロー系漫画なのに、少女漫画の匂いを出していて、そこが、もはや半数が女性となったジャンプの読者に受けた。女性作家が描く男の子の王道アクション漫画、っていうのが新しく、女性受けのキャラクター満載と少女漫画風小ネタで、これは受ける、と思った。それが、「からす」に煉獄の死を伝えさせるというエピローグで、イケメンキャラ総出演のサービスカットにつながったのだと思う。作り手は分かっている。
★素晴らしい映画は認めるけど、これほどの超大ヒットになったのは、どうも岩上敦宏さん、高橋祐馬さんのアニプレックスの緻密な宣伝と言うかどうやったら映画をヒットさせられるかの戦略と戦術に乗せられた感はある。戦略を、コアを腐女子としそこから小さく始めると言う工程表を作り、それに従って戦術を積み重ねた。密かに始めたかの如く見える小メディアでの深夜アニメ、わずかな期間しか公演しなかった2.5舞台で腐女子に自分たちが見つけた、これは育てねばとハートに火をつけ、彼女たちの口コミが最強のプロモ―ションになることを完璧に使いこなした。一旦、評判が流れ始めれば、少年の成長の物語と言うジャンプ王道漫画が力を発揮し少年も少女もやってくる、その計算の通りになっている。結果が300億になる、分かってる、戦略の勝利だ、素晴らしい。
★パンフレット1100円に何で、エピローグに総出演したイケメンキャラの絵柄を一人も出さなかったのだろう、そうすればもっと大勢の腐女子がパンフかっただろうに。
惜しいと思う。完璧に思えるこの映画にたった一つ見つけた針の孔ほどのミスかな。
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