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アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」
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アポロ菅原「国際プロレス最後の夜は、麻雀をやっていました」

2020-08-01 00:00
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国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー。アポロが見た80年代・90年代のプロレス界とは?



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――
アポロ菅原さんのプロレスラー半生を何回かに分けて聞かせていただきたいんですが、菅原さんは現在熊本にお住まいとか。

菅原 そうなんです。今年の4月頃からですね。それまでは関東にいて。

――
まだ現役ということなんですよね。 

菅原
 まあ、まだやめてはないことはたしかですけどね。ちょっとヒザを痛めてまして、リングに上がるということはいまは考えてないですね。

――
菅原さんは高校からレスリングを始めましたよね。 あの頃のレスリングは日の当たるスポーツじゃなかったので、失礼ですけど変わり者がやるものというか……。

菅原
  いや、ホントに変わり者だったと思いますよ(笑)。中学生の頃に読んでいた『プロレス&ボクシング』の裏広告に鉄アレイやバーベルの通販が載ってたんですよ。60キロセットのやつを買って、それから身体作りが始まったんですけどね。 

――
プロレスファンだったんですね。

菅原
 プロレスは大好きでした。プロレスラーになるためではなかったんですけど、身体は作らないといかんだろう。プロレスは無理だとしてもレスリングだったらうまくいくかもしれないなと。それで高校でレスリングを始めたんですが、隙間的なマイナー競技ですよ。 県内でも6つぐらいですよ、レスリング部があった高校は。

――
プロレスとレスリングってまったく違いますよね。

菅原
 もう別物ですよね。 毎日練習練習で家に帰ってからもウエイトトレーニングは欠かしませんでした。 高校の練習だけでは他人より抜け出すことができなかったと思いますよ。 ボクは大学でレスリングをやったことがないからわからないですけど、高校に関しては力があったほうが絶対に有利です。 もちろん技術は必要なんですけども。 

――
レスリングで大学に進む考えはなかったんですか?

菅原
 ウチの家は金銭的に余裕がなかったので、大学から誘いはけっこうあったんですけども。レスリングは3年間で充分だと。それで秋田から出て千葉の三井造船という造船所で働くようになったんですね。プロレスラーになろうなんて考えもなかった。

――
転機となったのはボディビルダーの遠藤光男さんのジムに通うことになったからなんですよね。

菅原
 その前からジムで身体は鍛えていたんですよ。自分が住んでる場所から歩いて5分のところにボディビルジムがあったんですけど、それはもう身体を鍛えることが趣味みたいなもんで。当時ジムに通っていた方は人間的に迫力のある方が多くて。土建屋の社長とかね、ちゃんとネクタイを締めてるような人は少なくて。

――
いまのようなアスリートっぽいボディビルダーはいなかったってことですね(笑)。

菅原
 だからなかなかの雰囲気でしたよ(笑)。練習が終わったらプロテインよりもビール。そういう世界ですよ。

――
当時のプロレス界って10代でデビューするような世界ですけど、 菅原さんは25歳と遅咲きですよね。

菅原
 最初はプロレスラーになるつもりはなかったんですけどね。仕事が終わったあとによく麻雀をやったんですよ。だいたい3回ぐらいやって、誰かが泣きの1回を頼んで4回ぐらいやって。こういう生活も悪くはないけど……そういえばプロレスは好きだったけど、会場で見たことないんだよなと思って。新日本、全日本、国際を会場まで見に行ったんですよ。

――
それで火がついちゃったって感じですか?

菅原
 自分がプロレス界に入ってからの印象はちょっと違うんですけど、お客さんとして見ている感じだと、前座だったらなんとかなるんじゃないのかなと思ったんですよ。

――メインクラスはともかく。

菅原
 そうなんですよね。それで25歳のときにプロレスをやってみようかと。遠藤会長に「プロレスをやってみたいんですけど」って相談したら「いいんじゃないか」と。会長は「どこの団体でも紹介できる」ってことなんですけど、会長は当時で国際でレフェリーをやってましたから。

――
国際プロレスにしようと。入門テストはあったんですか?

菅原
 これがテストだというものはなくて、冬木(弘道)選手と一緒に入るかたちになって。冬木も何もなかったんじゃないのかな。 国際としてはとりあえず人数が多くなればいいんじゃないかっていう感じだったんじゃないですか。それでも道場ではかなり厳しかったですよ。「プロレスをやりたいんだけど」って入ってきても、1日シゴかれると翌日にはいなくなってますからね。

―― 菅原さんもキツかったですか?

菅原
 キツかった、と言わないといけないでしょう(笑)。

――
ハハハハハハハハ。

菅原
 冬木のほうがガッツはあったのかもしれないね。 常に受身の練習。何十回どころか何百回も受け身を取るし、俺と冬木の2人で交互にボディスラムで投げあってね。若松(市政)さんが腕組みしながら「やれ」と。

――
身体に染み込ませる。当時のリングってめちゃくちゃ固いですよね。

菅原
 練習のときはそうは感じなかったんですけど、国際プロレスのリングはいままで試合をした中では一番固かったですね。マットの下のスプリングが全然効かないから受け身をちゃんと取らないと本当に痛い。だから新日本や全日本でやったときは国際の経験があったので、まあ大丈夫だったんですよ。

――
道場ではスパーリングもやるんですよね?

菅原
 やりましたよ。 普通に組んでもやったし、アマチュアのパーテールポジション(四つん這いの形)からもやったし。

――
国際プロレスの経営ってかなり不安定でしたよね。

菅原
 金銭的にはキツかったですけどね。国際は本当にお金がなかったですからね。

――
給料はどういう話だったんですか? 

菅原
 給料はなかったですよね。

――
給料なし!?(笑)。

菅原
 はい(笑)。

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