国際プロレス、全日本プロレス、パイオニア戦志、SWS……昭和から平成にかけて様々なプロレス団体を渡り歩いてきたアポロ菅原インタビュー第4弾。SWS鈴木みのる戦シュートマッチ全真相を1万字で語り尽くします!
【アポロ菅原インタビューシリーズ】
――今回は菅原さんがメガネスーパーのプロレス団体SWSに入団してからのお話を聞かせていただきます。菅原さんがコーチをしていた北尾(光司)さんを通じて天龍(源一郎)さんから入団の許可を得たそうですが、面接なんかはあったんですか?
――若松さんはSWS設立における中心人物で。給料の話もされたんですか?
菅原 給料は話はしたのかなあ。したような記憶もありますね。
――当時のSWS には唸るほど資金があって、破格の契約金をもらった選手もいれば、もらわなかった選手もいたじゃないですか。
菅原 契約金はボクはもらわなかったです。やっぱりそれは早い者勝ちじゃないですか(笑)。
――菅原さんの入団はだいぶ遅かったですもんねぇ。
菅原 まあ、そうですね。契約金をポーンともらった人も多かったと思いますよ。
――ギャラは国際プロレスや全日本プロレス、新日本プロレス時代と比べてどうだったんですか?
菅原 金額的には満足なものでしたね。SWSが一番よかったぐらいです。
――新日本をやめてよかった、じゃないですけど。
菅原 うーん、お金だけを比べると、そうかもしれませんけど。新日本でもああいうことがなければ、残ってたとは思うんでね。そこは金じゃないんですよ。
――SWSは“金権プロレス”と『週刊プロレス』がネガティブキャンペーンを張ってたじゃないですか。『週刊プロレス』の記者もじつはSWSからお金をもらっていたのに。ああいう報道はどう思われていたんですか?
菅原 どう思っていたんだろうなあ。いまだったら企業がプロレス団体を持つのはあたりまえになってきてますよね。でも、当時は馬場さん・猪木さんというかたちがあったから、企業が業界に入ってくるということに対してのアレルギーなんかがあったんじゃないですかね。
――プロレスをわかってないヨソ者が何かやろうとしてるみたいな。
菅原 そうですよね。でも、資本を投入してくれることはありがたいことですし、それがメガネスーパーだったわけですからね。俺のところに挨拶に来なかったから気に食わないじゃなくて、プロレス全体のことを考えればよかったんじゃないですかね。
――メガネスーパーが参入することに反対するレスラーなんてひとりもいなかったわけですからね。
菅原 そうですよね。歓迎する人は多かったんじゃないでしょうか。
――やっぱりプロとして高い給料を払ってくれることに越したことないですもんね。
菅原 プロの評価はやっぱりお金だと思ってるんですよ。そこに義理や人情がついてくれれば最高なんでしょうけど、なかなかそうはいかないので。「お金で動いた」と言われれば、みんなそれはそうですけど。お金で動くのは、あたりまえだと思ってますよ。
――当時はプロ野球史上初の1億円プレイヤーとなった落合博満が異分子扱いされたり、お金で動くことへの嫌悪感ってありましたからね。
菅原 あの当時の日本はまだ堅物なところがあってね、いまだったらあたりまえになってるんじゃないですか。
――そのSWSって部屋別制度だったじゃないですか。天龍さんの「レボリューション」、若松さんの「道場・激」、高野兄弟の「パライストラ」。菅原さんはどこにも所属せずにフリーでしたけど、これはどういうことなんですか。
菅原 別に理由はなくて。 本音で言えばね、横綱(北尾)がね、どこかの部屋に入るとは思ってなかったんですよ。最終的に天龍さんのとこに入りましたよね、レボリューションに。そのときにちょっとだけガッカリしたんですよ。あの中のフリーとしてやってほしかったなあという気持ちがありまして。
――SWSの中でフリーでやっていくことって居心地は悪くないんですかね?
菅原 いや、快適ですよ。フリーだから誰とでも試合はできるだろうしね。
――ああ、どの部屋の選手とも試合ができるわけですね。
――SWSにも派閥はあったじゃないですか。菅原さんの立場は……。
――天龍さんは好きだけど、部屋に入るのとはまた違うんですね。
菅原 横綱がレボリューションに入るとは思ってなかったから。横綱がフリーでいれば自分と新倉さんで3人で、タッグや6人タッグマッチの試合が組まれると思ってたから。プロレスラーとしては横綱より天龍さんのほうが格上なんですけど、生身の凄さというものは横綱にありましたからね。俺は天龍さんと横綱の試合が見たかったんですよね。
――天龍さんに向かっていったほうほうが面白かったかもしれないですね。
菅原 いきなりシングルはないだろうとすれば、フリー軍団として6人タッグあたりからやっていくのがよかったんじゃないかなって当時は思ってたんですよね。お客さんも天龍さんと横綱の一騎打ちが見たかったんじゃないかなって。
――SWSは仮道場が横浜にあって、そのあと新百合ヶ丘の一等地に本道場を作りましたよね。
菅原 新横浜駅から歩いて10分もかかんなかったんじゃないかな。いまだったら考えられないですけど、千葉から新幹線で通ってましたからね(笑)。千葉から快速で東京駅に出て、そこから新幹線ですよ。
――それは交通費が出るんですか?
菅原 いや、自分のお金です。 やっぱり時間を考えれば在来線で行くよりも20~30分近く違うんですよ。
――それだけお金はもらってたということですね。練習時間も部屋ごとに分かれていたんですか?
菅原 そんな感じだったですよね。新横浜のときはノビノビやってたような気がしますけどね。新百合ヶ丘の頃は雰囲気があまり良くなかったですよね。だから、なんとなく時間割をしようとかそういう話もあったみたいで。かといって、若い選手はともかくとして、みんなで合同練習というかたちではなかったんですけど。 新百合ヶ丘のときは俺が行かなかっただけかな(笑)。
菅原 いや、通ってはいましたよ。新宿から小田急線に乗って。新百合ヶ丘の時は本当に大変で。
――SWSは天龍派vs反天龍派の派閥争いが原因で消滅に追い込まれますけど、それは新日本と全日本の出身レスラーが合わないこともあって。
菅原 プロレスはプロレスなんですけども、本当に基本的なところが違うんでしょうね。こことここが違うとは具体的には言えないんですけど。
――関西人は納豆が食べられないみたいな話がありますし、生まれ育ちで違いは出てくるんでしょうね。
菅原 それはね、秋田、千葉を経て、いま熊本にいる俺も口には出さないですけど、違和感は感じますよ(笑)。なんだかんだ日本は広いですよね。プロレスも団体が違うと空気感が違うんですよ、やっぱり。新日本と全日本だと全然違うんですよ。
―― SWSの忘年会も大荒れだったって聞きますもんね。 酒に酔って大暴れしたジョージ高野さんが周囲からボコボコにされたとか。
――菅原さん、独特のポジションを築いてますね。 部屋別制度なのにフリーですし。
菅原 まるで俺が他人との交わりが苦手みたいな感じで言いますね(苦笑)。
――いや、揺るぎない位置を作ってるなって。
――ハメを外した楽しいお酒ではないわけですもんね。
菅原 別の団体同士が忘年会をやって揉めただけですもんね(笑)。昔の言葉でいうと、シャレにならないよっていう。
――そういう大人の菅原さんがいまだに語り継がれる伝説のシュートマッチをやったわけじゃないですか。1991年4月1日、神戸の鈴木みのる戦。
菅原 あー、はいはい。
――いままで菅原さんは、こういう試合を仕掛けたことはあるんですか?
――そんな仕事マジメな菅原さんがなぜ物騒な試合をしたのが気になるんですね。
菅原 あれは試合の3~4日前かな。新横浜の道場で偶然田中(八郎)社長にお目にかかって、ちょっとだけ2人で話をしたんですよ。
――SWSの母体メガネスーパーの社長ですね。
菅原 田中社長からは「菅原くん、今度の試合は楽しみにしてるから」と言われたんですよ。自分が「社長、今度の試合は難しい試合になると思います」と言ったら田中社長は「どうして? おもいきり、やっつければいいんじゃないの?」と。自分は「そうですね……」って答えたのが精一杯ですよ。
――それはつまり田中社長がプロレスというものを……。
――Uスタイルは本物志向だというプロモーションですよね。
菅原 そうなると自分の見立ては間違ってなかったということなんですけど。
1万字インタビューはまだまだ続く!
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最後のジャンさんのエピソードがいいね
素晴らしい記事。
こういうのもっとください(^^)
鈴木みのるさんにもインタビューしてくれよ!ジャンさん!
既読感満載だったが最後まで読んで良かった。唸った。
こういうインタビューは堪らないですね。
これからも、人選の素晴らしいインタビューを期待しています!
新倉の名前が出てたけど、確かここのインタビューでその新倉がアポロのことを強くないって言ってたような記憶があるけど
記憶違いだったらすんません
数ヶ月にわたり、アポロで読者を虜にするジャンさん、まじ半端ないですよ、うん。
アポロが仕掛けたのに、試合後に鈴木は(船木と冨宅に連れられて)控室に謝りに来たのか。
鈴木かわいそ。そりゃ泣くわ。。。
鈴木みのるは、新生U時代のモーリス・スミス戦でガチだったが、格闘能力、技術で未熟だった。 が、それ以上に、恐怖感に負け、試合放棄的負け、試合後に号泣したところに、胆力に欠け、精神力が非力だったことが透けて見え、可哀想に見えた。
その屈辱から格闘アスリートの鍛錬を相当に積んで、アポロ菅原戦で久しぶりのガチに対峙したわけだけど、果たして モーリス戦時と全く変わってなく、事実上、可哀想な惨敗であった。 鈴木は、ガチ(総合的試合)を受けて立ってやっていれば、もしかしたら、勝ったかもしれなかったが、そこに踏み切れる精神力が足りなかった。 即ち、この一戦はアポロ菅原が人間力で圧勝した。 その屈辱を心底、思い知らされたが故の試合後の鈴木の号泣であった。
『プロレス』から派生するガチは、競技としてのガチではなく、『自己存在』を賭けた公衆の面前でのガチであり、その意味で敗者にとっては、ガチ変容した『プロレス日本一決定戦』で力道山に敗れた木村政彦と同様に、暗黒史となってしまう残酷さがある。 故に当時の菅原にも若気の至りが有ったとも言えるかもしれない。
確か、ガチを仕掛けられて対応出来なかったことにゴッチさんに鈴木選手が、こっぴどく怒られたって聞いた事あります。