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野上彰として新日本プロレスでデビューしたAKIRAインタビューシリーズ第3弾(聞き手/ジャン斉藤)

AKIRAインタビューシリーズ
①新日本プロレス入門、野上彰だった頃


――
ヨーロッパから凱旋帰国したAKIRAさんはIWGPジュニアのベルトを獲りましたよね。

AKIRA そうでしたっけ? 何か忘れちゃいましたよね。

――
ご本人としてはヘビーとジュニア、どちらでやって行こうと考えていたんですか?

AKIRA
 どうだったかなあ。帰ってきたときはジュニアでしたよね。だからジュニアのベルトを獲ったのか。

――
かなりボンヤリしてるんですね(笑)。

AKIRA
 あの頃のジュニアの体重は幅が広かったですよね。105キロとかがリミットだったはずなので。体重が全然足りなかったので「ジュニアなんだろうなあ」とは思ってましたね。憧れの人がダイナマイト・キッドや藤波(辰爾)さんだったので、そのつもりもありましたけど。

――
それなのにそんなに時間が絶たず、ヘビー級に転向することになるわけですね。

AKIRA
 そこは会社側の意向もあったのかな。それとジュニアはあの頃から上限を知らない技のオンパレードになってきたので「これはちょっと違うな」「あまりやりたくないな」と自分で思ってましたね。 海外で学んだプロレスは、その技にたどり着くまでの過程を見せるというか、そこがプロレスの醍醐味だと。日本に帰ったら、そういうプロレスをやっていきたいなと思っていたので、上限知らずの技のびっくり箱みたいなプロレスとは違うし、身体もしんどいなあと思っていたのかもしれないですね。

――
飯塚高史(当時・飯塚 孝之)、エル・サムライ(松田納)の3人で、闘魂トリオというユニットも結成されましたね。

AKIRA  あれ自体の活動は、ほとんどなかったですよね(笑)。なんとなく括られて、そういう名前が出てきただけで。海外修行に出てるときに松田くんとはイギリスでタッグを組むはずだったんですけど。湾岸戦争が始まったあたりぐらいでセキュリティーが厳しくなって。イギリスのプロモーターから労働ビザじゃなくて観光ビザで入国してくれという手紙をあろうことか空港で係員に見せちゃったらしいんですよね。それで松田くんはイギリスに渡ることができなくなったらしいです(笑)。 

――ハハハハハハ! じゃあ、闘魂トリオには、なんの思い入れもないわけですか。

AKIRA ないですねぇ。トリオってなんだよって、コント集団かなって(苦笑)。

――闘魂トリオとして頑張ろう! と3人で話し合いもなかったんですか?
AKIRA なかったですよねぇ。本当に名前だけで。3人で写真を撮ったのかなあ。6人タッグで試合に出たことすら覚えてないです(苦笑)。 

――闘魂三銃士と6人タッグで試合をしていたことはおぼえてますよ!(笑)。新日本って選手に何かきっかけを与えて、あとは選手に任せっきりみたいなとこもあるじゃないですか。

AKIRA  そこは会社が何かちゃんとしたものを用意するのは怖かったところもあったんじゃないですかね。もしそれでダメだったら、誰かが責任を取らなきゃいけないし。 

――それに、いまみたいに会社がストーリーをガッチリと提示する時代ではなかったですね。

AKIRA そうですね。いまのプロレスみたいにこういう方向性で、キャラ作りがあって……みたいな指示があるわけでもなく。あくまで自然発生的に起きたものを尊重しましたからね。女子プロレスなんかも、そういうことがよくあったらしいですけど。

―― プライベートのトラブルや上下関係をリングに持ち込むわけですよね。 

AKIRA とくに新日本はリアルな路線じゃないと受け入れられないなって選手や会社側もたぶんに思っていたし、だから、そのあとボクがJJジャックスを組んでも周りはうまくいかないことはわかっていたし(苦笑)。
――飯塚選手との伝説のタッグチーム、日本の陽気な奴らこと「ジャパニーズ・ジョウリー・ジャックス」ですね。JJジャックスのことはあとでたっぷり伺うとして……当時は闘魂三銃士に馳浩に佐々木健介、長州さんに藤波さんってかなり層が厚かったですよね。

AKIRA  だからって他の団体に行くっていう考えはなかったんですけどね。

――
入門当初からのお話を聞くかぎり、ぶっちゃけ居心地はあまりよくないように見えるんですね。

AKIRA
 居心地は昔からあんまりいいものではなかったです(苦笑)。だからって他団体に行くって考えは……SWSに行くという手もあったのかもしれないですよね。 実際ドイツにいた頃は若松さん(将軍KYワカマツ)や桜田さん(ケンドー・ナガサキ)が会いに来てくれたことあるんですよ。

――
それはSWS移籍の話をするために?

AKIRA
  一緒にメシを食っただけです。そこで若松さんが「SWSに来い」と誘うと引き抜きになっちゃうから、そういう言葉は出なかったんですけどね。若松さんに恩があったので、何か報いなきゃなんないなあとは思ってたんですけど。

――それは若松さんが「マネージャー若松」として新日本に参戦した時代の話ですか。

AKIRA
 そうですね。ボクがケガをしてて、会場に行っても雑用ばっかりで試合に出られない時期があったんですよね。 ケガがあるので組んでの練習はできないんですけど、若松さんが毎日スクワットを付き合ってくれたり、若松さんを背負って階段を上り下りしたりとか…… 毎日のように付き合ってくださって。 

――
でも、AKIRAさんは「SWSに行きます」と口にはできなかった。

AKIRA
 そうですね。「来い」って言われたら行ったと思いますよ。

――
AKIRAさんが戻ってきた新日本の道場は馳さんと健介さんが仕切るようになってましたけど。 以前とは雰囲気は違いました?

AKIRA だいぶ違いましたねぇ。 その頃は長州さんが現場監督で引き締めなきゃいけないということで必死だったんですよね。馳さんがその意を汲んで、道場の出席簿が作られたりとか。

――
出席簿ですか!

AKIRA
 蝶野(正洋)さん武藤(敬司)さんが道場に全然来なかったこともあって(笑)。

――
ハハハハハハハ!

AKIRA
 そういった出席簿を契約公開のときにチラつかせたかったんですかね。 それまでは練習中に水を飲む機会はアバウトだったんですよ。選手それぞれが練習中に台所のほうで水を飲んで、また戻って練習したりとか。でも、水筒みたいなものを個人で用意するか、ウォーターサーバーを用意するから飲むようにと。休憩時間も決められて、選手が自由に休むことは禁止になったんですよ。

――
長州さんたちからすると、水を飲みに行ってサボるんじゃないかと。

AKIRA
 そうやって締め付けられると空気を悪くなっていきますよね。ちょっと上の先輩なんかはスポンサーさんとの付き合いや営業活動で飲みに行って、翌朝は二日酔いだったりするわけですよ。そういう場合は練習も休んでも大目に見られてたんですけど、 長州さんになってからは許されなくなって。 

――
出席簿が用意されたからって、武藤さんや蝶野さんは道場には来たわけじゃないですよね?

AKIRA
 そうなんですよねぇ(笑)。武藤さんや蝶野さんはリングのパフォーマンスがよかったんでね、手の付けようがないってことですよね。

――
橋本さんは誰よりも道場にいる時間が長かったわけですよね。

AKIRA いや、合同練習のときはあんまり道場にいなかったんですけどね(笑)。練習が終わった昼過ぎに来て遊んでるって感じです。
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