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クラシックなファイトスタイルで己の道を突き進むHEAT-UP所属のプロレスラー、渡辺宏志インタビュー第3弾。今回はPWC衝撃伝説!(聞き手/ジャン斉藤)



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──
デビューしてからは、しばらくフリーで活動されていたんですか?

渡辺 そうですね。かたちのうえでは長瀬館長が当時主催されていたTAMA(トータルアスレチックマーシャルアーツ)のほうで下駄を預けるようなかたちにはなっていましたが、まぁ実質フリーでしたね。

──
TAMAってどこがメイン会場だったんですか?

渡辺
 いろいろやってましたけど、ボクがデビューしたのは千葉ポートアリーナのサブアリーナでした。

──
インディの会場というと、インディーズアリーナの印象が強いですけど。

渡辺
 インディーズアリーナは春日部物件の契約が切れて浅草に越したんですけど、まぁどっちも不便っちゃ不便と思いましたね(笑)。春日部のときは私の足で駅から歩いて25分くらいかかったんですよ。しかもバスを使っても結局はそれくら時間がかかってしまうという(笑)。

──
めちゃくちゃ不便ですね(笑)。週どれくらい試合はされてたんですか?

渡辺
 いやいや週どころか、月間で試合があるかないかっていうような。94年の9月にデビューしまして、それから12月まで試合がなかったですからね。しかもボクの2試合目がメキシコだったんです(笑)。というか、もうボクがTAMAでデビューするにあたって、もう暮れにはメキシコ行きがすでに決まっていて。TAMAに来日したフライ・トルメンタの私設孤児院に居候させていただきながら、試合に出させていただくというような。

──
孤児院に居候ってすごい経験ですね。

渡辺
 しかも孤児院の中に道場がちゃんとあるんですよ。孤児院からも何人かのレスラーを輩出してますし、孤児院に住みこんでいる大人のレスラーだけじゃなくて近所からもレスリングの練習のために通ってくる若い子たちが何人かいましてね。

──孤児院って何人くらいいたんですか?

渡辺
 ボクがいた当時で100人前後くらいでした。

──
というと、けっこう大きい施設なんでしょうね。

渡辺
 廃校になった小学校を買い取ってそこを孤児院にしていたという。運営費はファイトマネー、寄付、あと自治体からの助成金もあったと思います。

──何か孤児院の仕事をお手伝いされたんですか?

渡辺
 まぁ手伝いといっても、洗濯物をしたり、あとは子供たちの遊び相手になるくらいで。子供たちの遊び相手っていったって私自身が遊び呆けてたようなものですから(笑)。結句1ヶ月半くらいいて、3試合ほどでしたから。12月の10日に向こうに渡ったんですよ。そこからしばらく練習を経て初試合がクリスマス・イブだったんです。そのあいだはずっと練習してました。フライ・トルメンタのトレーナーを務めていたリデルっていう悪役レスラーがいたんですけど、彼が近所に住んでいて自動車の修理工を営んでまして。そのリデルが教えにきてくれたり、あとソラール2号やブラックシャドーの息子さんが来てくださったり。

──じゃあ練習には事欠かなかったんですね。試合というのはどういった大会なんですか?

渡辺
 ボクが最初に出た試合っていうのは、カスカラって街の神学校で行われたお祭りだったんです。だからちょっと離れたところではロデオやってたりとかいろいろ。

──
ちゃんとしたリングが用意されてるんですか?

渡辺
 まぁリングはリングなんですけどね。ただ「おいおい大丈夫かよ」っていう作りのものでしたけど(苦笑)。

──
メキシコって地方の大会は粗末なリングが多いらしいですね。

渡辺
 初めて試合をしたときは比較的受け身は取りやすかったですけど、中には恐ろしく固いマットもありました(笑)。

──ルチャって飛んだりはねたりのイメージがあるけど、リングも固いし、場外にはマットが敷いてないから、じつはあまり飛ばないという話はよく聞きますね。

渡辺
 やたら飛んだりはねたりのイメージが強いですけど、それは日本のお客さん向けとして見ていいんじゃないでしょうかね。やっぱり日本のファンがイメージするほど、飛んだり跳ねたりはそんなには多くないですし。まったく飛ばないわけではないですけど。

──
日本向けに輸出されたルチャってことですね。

渡辺
 そうですね。だからミル・マスカラス以来そういうイメージが。初めて日本に来たルチャドールはラウル・ロメロでしたけど、おそらくラウル・ロメロもそんな派手な試合はしなかったと思います。

──
メキシコの生活はいかがでした?

渡辺
 同じ孤児院にボクらより半年くらい前から、いま大阪プロレスにいるツバサ選手がいて。ボクら滞在中は本当にツバサ選手にお世話になったというか、もう本当に大阪に足向けて寝られないくらい。やっぱり言葉の壁ってあるじゃないですか。身振り手振りである程度伝わるところはありますけど、細かいニュアンスが伝わらず困ったようなときには彼があいだに入ってくれて細かいところを伝えてくれたりだとか。あとは「この時間こういうところには日本人だけでは行かないほうがいい」とか教えてくださったり(笑)。

――メキシコはデンジャラスですもんね(笑)。

渡辺 2月に日本での試合が予定されていたものですから、1ヶ月半で日本に戻ってきました。で、レフェリーのアイアンマン西田さんと知り合いまして。当時西田レフェリーは屋台村プロレスでもやってましたから、それで「もしよかったら屋台村プロレス出ない?」ってことで連絡をいただいたんですよ。それから毎週金・土・日と屋台村さんに出場することになりまして。

──
屋台村ってどんな雰囲気だったんですか?  ついに行ったことがなかったもので……。

渡辺
 大きな倉庫の中にいくつも屋台があり、そのど真ん中にリングがあったんですよね。その周りにテーブルがいくつもあって、それぞれのお店から気に入ったものを買ってきて飲食しながらプロレスの試合を見る。

──
チケット制なんですか?

渡辺
 チケット制ではないですね。どれくらい入ったんだろう……まぁ200人以上は入ったと思います。ボクが出てた頃で札止めっていう日もありましたし、40~50人程度っていう日もありましたし、一番入らなかった日でお客さん7人っていう日がありました。

──他の団体はその場所を借りて興行をやることもあったり。

渡辺 そうですね。月に1度、鶴見五郎さんがIWA格闘志塾の定期戦をやってまして。鶴見さんがそれをはじめるに伴って屋台村プロレスの顧問もされるようになって。だから週末の屋台村プロレスのときに鶴見さんが月1のその興行の営業も兼ねてボクらの試合を見てくださったりとかはありました。

──
月に1度の鶴見さんのIWAのときはチケットは販売してたんですか?

渡辺
 販売してました。普段の屋台村プロレスは入場無料で、飲食をしつつっていう。

──
屋台村の運営は誰がやっていたんですか?

渡辺
 オーナーの方はいろいろ事業は展開してたみたいですね。八景島の方でボクらが鶴見さんの定期戦の宣伝活動をしたことがあったんですけど、オーナーは八景島にもお店を持ってて。あと桜木町の駅前にもお店がありましたね。屋台村の所属選手もいましたけど、各インディー団体から若い選手たちが集まってきて稽古も兼ねた実践の練習っていう感じだったんでしょうかね、感覚としては。まぁ興行は興行なんですよ。

──
いい経験の場ですよね。

渡辺
 そうですね、試合数も多いですから。しかも1日2試合ですからね(笑)。

──
世間には伝わってないけど、いろんな事件が起きてる印象はあります。

渡辺
 印象に残ってる事件といえば……ある一角をちょっと反社的な人たちが占めていたんですよ。で、誰か酔っ払った客が騒ぎ出したのを反社の人たちが彼にたいして凄みだしたのを鴨居長太郎選手がマイクで一喝したんです(笑)。そしたら場内からものすごい拍手がきたんですけど、「これはマズくねぇか」って。試合が終わるとボクらは食事をご馳走になってから帰っていくんですけど、そのとき鴨居の長さんが「綱島駅まで車で乗っけていってあげるよ」と。車を出そうとしたら反社の人たちに「いたぞー!」って囲まれたんですよ。

──
危ないじゃないですか!

渡辺
 窓ガラスをコンコンコンってノックされますから、長さんが仕方ない感じで窓をあけると「楽しかったよーっ!!」って(笑)。

──
「恥を欠かせやがって!」ではなくて。

渡辺
 じゃなかったんですよ。「おもしろかったよーっ!!」って。ちょっとボクら目が点になったという(笑)。

──
そこまでして感激を伝えたかった(笑)。酔っ払った客は多そうですね。

渡辺
 あー、多いです。やっぱりごくまれにそうやって騒ぎをおこすお客さんもいましたし、あとリングの中になだれ込んでくるお客さんもいましたね。そう何度もはないですけど。

──
高木大社長をはじめ、屋台村があったからデビューできた選手も多いでしょうし。

渡辺
 はじめは高野拳磁さんがPWCをやりだして。だけど結局何かトラブルがあったようで、高野さんが排除されちゃったってかたちになってて。残った若い人たちで屋台村プロレスっていうかたちで始まったんですよね。

──
拳磁さんって日本のインディー団体のはじまりの部分にいろいろと関わってますね。

渡辺
 そうですね。SWSからはじまって、NOW、PWC……と。

──
西日本プロレスもそうですし。

渡辺
 あぁ、絡んでましたね(笑)。その西日本プロレスでも折り合いがつかなくなっちゃって、またPWCでっていう。

──
やっぱり魅力的な人なんでしょうね、高野拳磁さんって。だからスポンサーもつくけど。

渡辺
 でしょうね。いっときにはテレビやメディアの露出も高かった時期もありましたもんね。あれもバブルガムブラザーズのブラザー・コーンさんがいろいろブッキングしたそうなんですけど。

──
ああ、コーンさんと高野拳磁ってすごく話が合いそう!

渡辺
 95年にボクが屋台村プロレスに出ていた時分からPWCさんにも声をかけてっもらえるようになって。PWCに出てたとき、たしか北沢タウンホールで初めてプロレスの興行をやった日でしたかね。

──
北沢タウンホールもPWCが初めてなんですね。

渡辺
 開拓したのはPWCなんですね。その北沢タウンホールで初めてプロレスの興行をやったっていう日にもブラザー・コーンさんが見に来てたようで。高野さんがフィニッシュのニードロップをコーナーポストから決めようとするとき「ブラザー・コーン、見てろよ!!」って叫んでましたから(笑)。「えっ、来てるの?」って。

──お客さんもビックリですよね(笑)。 

渡辺
 どうやらコーンさんが来てたらしくて。ちなみにPWCはけっこうギャラがよかったんですよ。そこにはインディーのお金にまつわる話には必ず絡んでいた森谷(俊之)さんの存在が……。

──
あ、インディ七不思議に数えられる重要人物!ニセ大仁田として活動されていた森谷さん。

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