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追憶の三沢光晴――“デンジャラスK”川田利明■小佐野景浩のプロレス歴史発見
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追憶の三沢光晴――“デンジャラスK”川田利明■小佐野景浩のプロレス歴史発見

2015-05-08 10:39
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プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回のテーマは「川田利明」!! 天龍同盟、超世代軍、聖鬼軍、三沢光晴との関係……90年代を代表するプロレスラーが歩んだ王道とは……? プロレスがますます好きになる小佐野節を今回も堪能してください! 

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レイザーラモンRGが芸人として、プロレス者として激語り!
「ラッスンゴレライから考えるスターダム不穏試合」

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「レスラーたちが苦闘したフォックスキャッチャーの時代」――あるいはダンヘンやランディ・クートゥアたちの物語

③「1976年のアントニオ猪木」著者・柳澤健のレスリング講座
「アマチュア・レスリング まだらのルーツ」

④衝撃秘話! ジャイアント馬場・全日本プロレスがよみがえった瞬間――あの日、キャピトル東急で
更級四郎×ターザン山本 
「馬場さんに全日本プロレスの再生計画の小冊子を渡したんです。1ページ目には◯◯が△△に■■することって書いてあって」

⑤あの熱狂はなんだったのか? PRIDEとともに生きた時代
雀鬼・桜井章一×笹原圭一
「ヒクソンはね、自分が息子を殺してしまったんじゃないかという罪の意識に囚われてしまったんです」

小佐野景浩の好評連載「プロレス歴史発見」
三沢光晴物語ー四天王プロレスの光と影
「いまになってあのプロレスはいけませんと言うのは酷でしょ。ありがとう!でしょう、彼らにかける言葉は」

⑦網膜剥離からの再起戦!
川尻達也ロングインタビュー


小原道由のクレイジートーク「海外遠征とは何か?」
「ドイツ遠征のとき試合前に会場に呼ばれたんです。どうも腕試しをしたいレスラーの相手をしてくれってことで……」

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川田さんは現在飲食店『麺ジャラスK』を経営していますが、最近体調を崩したようでお店を休業してるんですよ。

小佐野 あ、そうなの。それは知らなかった。だって6月13日に広島で三沢光晴のメモリアル大会があるんだけど、そのあとにリーガロイヤルホテル広島のトークイベントに川田も出るんですよ。田上(明)、小橋(建太)、天龍現一郎、川田のトークショー。私がMCなんですけど。

――東京でも開催してほしいくらいの豪華なメンツですね(笑)。川田さんは引退表明はしていないですが、リングから離れてから時間が経ってますよね。

小佐野 最後の試合したのが2010年8月15日、G-1最終戦にスペシャルマッチで天龍さんと4代目タイガーマスクと組んだとき。最後に巡業に出たのはその年の4~5月のNOAHのグロバールリーグ戦。『麺ジャラスK』を休んで出たんですよ

――ボクは『麺ジャラスK』の近くに住んでいたことがあるんですけど、あそこは客商売をやるには場所が悪いんですよね。

小佐野 『麺ジャラスK』で3代目のラーメン屋なんでしょ。あそこは駅からも遠いしね。あの地域の常連さんが集まってくれないと厳しいと思いますよ。

――だから当初はラーメン屋だったのに、地域密着型の居酒屋スタイルに変わっていったんですよね。

小佐野 ボクが食べに行ったのは1回しかないんだけど、そのときはもうラーメン屋ではなかった。去年かなんかに取材に行ったときは券売機が置いてあったなあ。

――試行錯誤を重ねているからか、店を訪れるたびにルールが変わってるんですよ。だから足を運ぶたびに新鮮で(笑)。

小佐野 彼はけっこう凝り性だから。料理もいい加減じゃないでしょ。「ステーキは白い皿で出さないといけない」という人ですから。それは馬場さんの教え。ちょうどいい焼き加減で出すのに鉄板で出したらもっと焼けちゃうじゃない。だからちゃんとしたステーキは白い皿に出てくる。

――そういえば、いまはステーキがメイン料理になってますね(笑)。全国津々浦々いろんなものを食べているから拘りが深いんですね。

小佐野 彼は何に対しても凄い真面目でね。どっちかというと暗く見えるタイプ。ホントは寡黙じゃなんだけど、一見おとなしく見える。ボクが親しくなったとき、彼は馬場さんの付き人やっていたんだけど。神経を使いすぎて体重が増えない。胃潰瘍だったんじゃないかなあ。

――川田さんってもともと身体は大きくないですよね。

小佐野 鍛えて大きくしていったから。いまは凄く痩せてるでしょ。リングに上がってないんだからそうなるよね。彼は高校時代にレスリングをやっていたけど、75キロ級だったんじゃないかな。高校のレスリングでは国体優勝とか、いい戦績を残してるんですよ。

――馬場さんの付き人しては優秀だったんですか?

小佐野 聞いた話だと、大浴場で馬場さんの世話をしてて、途中にほかの仕事を済ますためにいったん外に出たら、戻ることを忘れちゃって馬場さんがノボセてしまったとか(笑)。

――ハハハハハハ! 忘れるもんなんですかね?(笑)。

小佐野 だって当時の川田は全日本では一番下なんだもん。そりゃもう忙しいよ。

――ああ、馬場さんの付き人仕事だけじゃないんですね。

小佐野 川田が入ったのは1982年の春でしょ。次の新弟子が小川良成で入ってきたのは84年だから、川田は2年間ひとりで雑用をやっていたんですよ。

――ほかの若手はどんな顔ぶれだったんですか?

小佐野 三沢、越中さんはメキシコ。いたのは冬木(弘道)さん、ターザン後藤。ジャンボの付き人を後藤がやっていて、冬木さんが天龍さんの付き人。馬場さんの付き人だった越中さんがメキシコに行くということで、誰の担当でもなかった川田が引き継いだんじゃないかな。川田はとにかく下積みの時期が長かったから。初勝利までに1年3ヵ月かかってるし。『目指せ1勝!』の横断幕も出たくらいで。

――川田さんはもともと全日本プロレスに入りたかったんですか?

小佐野 彼は中学卒業前に新日本プロレスの入門テストに受かってるんですよね。

――中学生で合格! 船木誠勝コースだったんですね。

小佐野 だけど、母親と担当の先生に「高校だけは出ろ」と反対されて。だから足利工大付属高校というレスリングが強い高校に進んだんです。

――高校卒業後は全日本に入ったわけですね。

小佐野 レスラーになりたかったからどこでもよかったんだと思う。新日本のテストを受けたのも、中学のときに問い合わせのハガキを送ったんだけど、返事があったのは新日本だったから。全日本に入ったのは、高校の先輩の三沢から鶴田さんを紹介してもらって、馬場さんとスタン・ハンセンがシングルをやった82年2月4日の東京体育館大会で馬場さんの面接を受けて「高校を卒業したら来なさい」と。

――面接だけで入門できたんですか?

小佐野 馬場さんは基本的に面接しかしない人だから。入門テストをクリアしたところでダメな奴はダメなんだし。

――たしかに新日本のテストを合格しても、私生活がキツくて逃げる人間はたくさんいますよね。

小佐野 そうそう。川田は高校時代のレスリングの実績は三沢よりよかったらしいし、当時の全日本は新弟子がいないから、三沢や後藤たちにしてみれば雑用をやってくれる新弟子はぜひ入ってきてもらいたかったんじゃない?

――三沢さんからすれば後輩を作りたかった、と(笑)。

小佐野 彼は運動神経がよかったし、いい新人だったと思う。その後、三沢がタイガーマスクになるときに練習パートナーに抜擢されて、それこそ三沢よりタイガー的な動きはできるわけですよ。

――ローリングソバットもできたけど、三沢さんができなかったから川田さんは使っちゃいけなかったんですよね。

小佐野 その頃の川田にはタイガーマスク2号の話もあったくらいだから。

――その計画はどこまで具体的だったんですか?

小佐野 うーん、わからない。でも、そんな計画が浮上するくらい川田の動きはスピーディーだったし、そこそこ人気はあったんじゃないかな。レスリングもできたし、いまどきのジュニアヘビーのような感じで飛べたもんね、彼は。

――体重が増えないだけがウィークポイントで。

小佐野 雑用で忙しいから精神的にまいるんですよ。ガイジンレスラーの世話もしないといけないじゃない。外国人バスに乗っていたんだけど、イスが埋まっていて補助イスに座っていたりとかね。

――それで馬場さんの付き人も兼ねてたんですか?

小佐野 馬場さんの付き人は数カ月だけだったのかな。馬場さんとしてはかわいい付き人じゃなかったと思いますよ。川田は甘えるのが下手。大仁田厚みたいにちょっと抜けていたほうがかわいいはずなんだけど、川田は寡黙で真面目だから。

――ちょっとマヌケなほうが愛せますよね。

小佐野 川田は普通の子だった。プロレスラーっぽくなかった。晩年とは違って酒を飲むわけでもなかったしね。それは海外から帰ってきたときも同じ。8511月にチャボ・ゲレロに誘われてテキサスに行ったんだけど。

――川田さんの海外遠征は全日本がセッティングしたんじゃないんですね。

小佐野 チャボが「川田がほしい」と言ったの。そのときチャボはサンアントニオのブッカーをやっていたから。それで行かせてもらったんだけど、現地に着いたらチャボがブッカーを降りていたという(笑)。その前にダイナマイト・キッドがカナダに連れて行きたという話もあったりして、外国人レスラーは川田のファイトが好きだったんですよ。

――動けてレスリングもできるわけですからね。

小佐野 現地には冬木さんがいてジャパニーズフォースというタッグチームを結成して、ショーン・マイケルズ&ポール・ダイヤモンドのアメリカンフォースと抗争をやって。あとになって冬木さんに現地の様子を聞いたら「川田の野郎、英語をまったくしゃべらないんだよ。人にしゃべらせておいて、あとで単語を間違えてましたよなんて言ってきて!」と(笑)。

――ハハハハハハ! その頃から一言多いイメージはあるんですね(笑)。

小佐野 そのあと川田はカルガリーに行ったのかなあ。86年の最強タッグのときに強制送還というかたちで帰ってきた。ワーキングビザじゃなかったから。

――ムチャなことやってたんですね(笑)。

小佐野 身体は大きくなっていた。ただね、新人の頃もそうだったけど、対戦表のスタンプってあるでしょ。

――パンフレットにその日の対戦カードが押されてるやつですね。

小佐野 一文字一文字、選手の名前を組み合わせてハンコを作るんだけど。川田のハンコはなくて「カワダトシアキ」のままだったんだよ(笑)。

――カルロス・トシキみたい(笑)。

小佐野 「田」のハンコはあるんだよ。「ジャンボ鶴田」がいたから。でも、「川」がつく選手がいなかった(笑)。

――カタカナはガイジンレスラーのために全種類あるんですね。

小佐野 本人がそれを気にしていて。田中のオジサン(パンフレットの印刷・販売を手掛けていた田中印刷の田中護社長)に「いつになったら作ってくれるんですか?」と聞いたりしててね(笑)。帰国のときも急遽帰ってきたから用意できてなかったのかな。川田はなんの前触れもなく会場にいたんだよ。帰国第1戦は地方の会場で馬場さんとのタッグ。休憩明けの試合だったと思うんだけど。

――凱旋帰国っぽい扱いはされたんですね。

小佐野 黒のショートタイツで髪の毛をちょっと伸ばして。でも、そのあとは基本的に休憩前の試合に戻ったね。前座の扱い。動けるんだからもっと上で使ってもいいのになと思ってたけど。川田本人もあの頃はずいぶんと悩んでいた。「いま、こんなに動ける時期に、おもいきりやれる相手と組まれない」と。

――なかなか上のポジションには進めなかったんですね。

小佐野 まだその頃はジャパンプロレスがいたこともあるんだけど。その当時の馬場さんの考えからすると「身体が小さい」という理由はあったのかもしれないね。「身体が大きくなきゃメインは……」という時代だから。

――転機になったのは天龍同盟入りになるんですよね。

小佐野 川田が燻っていた頃、天龍革命が起きた。最初は天龍さんと(阿修羅・)原さんの龍原砲だけだったんだけど。87821に仙台で龍原砲vsジャンボ&カブキがあって。試合前にカブキさんの毒霧で天龍さんが戦闘不能状態に陥ったところで、全日本正規軍のセコンドだった川田が突如として鶴田さんに襲いかかった。そうしたら今度はテネシーから凱旋帰国したばかりの冬木さんが乱入して。冬木さんは若手時代に天龍さんの付き人だったのに、なぜか天龍さんに襲いかかるという、わけのわからない展開になったんです。

――まさにカオスですね!(苦笑)。

小佐野 テレビ解説席にいた馬場さんの裁定で急遽、龍原砲&川田vsジャンボ、カブキ、冬木の6人タッグマッチになって。要するに川田は川田でポジションを変えるべくアクションを起こしたかった。試合が終わったあと天龍さんは川田に「詫びを入れて、今日は正規軍の控室に帰れ」と言ってるんですよ。それで戻ったらカブキさんに殴られて、荷物を放り出されて、涙目で龍原砲の控室に戻るというね。

――そこは全員がフリースタイルだったわけですか?

小佐野 カブキさんにしても普通に殴るでしょ。だって若手が裏切ったんだよ。

――全日本だと新日本と違って自己主張、フリースタイルが許されない世界というイメージがありますが……

小佐野 だからこそ、やるときは凄いことをやるんですよ。

――あー、なるほど。

小佐野 正規軍の川田が天龍さんの助けに入ったら、カブキさんは本気で川田をぶん殴って荷物も放り出す。そこまでやれるからカブキさんはアメリカでトップが取れた。だってそこまでやらないとファンおろか我々マスコミも納得しないじゃない。

――ファンは控室を見ていないし、カメラも回ってないけど、プロレスラーの姿勢を崩さない。細部までに拘るから説得力が生まれるわけですね。

小佐野 細部までに拘るというより、ナマの感情ですよ。本気だから、それが真実になっていくわけじゃない。リングでやりあってるのにリングを降りたら「おつかれさまです」なんて、昔のプロレスはやらない。昔はバスも分かれていたし、抗争する者同士が話をするなんてなかったから。だってジェット・シンが控室で記者をぶん殴るんだから。

――誰も見ていないのに!(笑)。

小佐野 こっちもそういう緊張感を持って取材をしないといけないしね。でも、当時の全日本でも川田の行動は珍しかった。そんな行動を起こしたのは川田だけですよ。天龍さんに襲いかかった冬木さんも凄いんだけど(笑)。

――2人とも這い上がるために必死に仕掛けたんですね。

小佐野 まあ、川田冬木の2人がすんなりと天龍同盟に入ればよかったんだけど、2人のよくわからない行動があったわけ(笑)。そのシリーズを通じて川田と冬木はゴチャゴチャやっていた。それで阿修羅・原が仲介に入って「冬木も目的が同じなんだからこっちに来い」と。のちに冬木さんに聞いたら「全日本は仲の良い者同士を離したがっていた」というから、天龍同盟入りするためのワンアクションだったのかもしれない。

――レールの上を走るだけがプロレスじゃないってことですねぇ。


小佐野 天龍さんは天龍さんで川田のことは買っていたから。あれだけ動けてレスリングもできる。若い人間が燻ってるのは会社のためによくないし、こっちに来て伸び伸びやればいい、と。

――それで天龍さんプロデュースによるフットルースが結成されるわけですね。天龍さんの若者感が体現されたという(笑)。

小佐野 川田本人が嫌がるフットルースね。「やっぱり若者といえばロックンロールエキスプレスだろ」という天龍さんの考えで(笑)。

このインタビューの続きと、金村キンタロー、平田淳嗣、川倉持隆夫、矢野啓太など、8万字オーバーの記事9本が読める「詰め合わせセット」はコチラです

 
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