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早田英志のスーパー人生論 第九回    ~幸福論~
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早田英志のスーパー人生論 第九回    ~幸福論~

2016-03-23 17:06

    <幸福とはなにか>

    昨今このての書物が本屋の棚を賑あわせている。
    経済は停滞し世の中に活気がなくなり人生がより内向的になっていく。
    わずか二十数年前には世界中に進出して、世の人々を震撼驚愕せしめた日本人の経済活動はもはやその面影さえもない。
    失われた二十年どころかさらに凋落し、沈没寸前の様相を呈している。
    次世代の課題を負わされたこれからの日本を支える若者達の生活賃金がシンガポールには遥かに及ばず、韓国にも追い抜かれようとしている現状はまことに情けないことである。
    生活保護者が世間に充満し、月額わずか三万円で細々と生活している年金生活者の数倍の額の保護費を受け取って昼間からパチンコ店に浸っているニセうつ病患者がゴマンと現出しているような矛盾した国家になり下がってしまった。
    また多くの元ヤクザがその生活保護者となっている。
    現在の日本の衰退は決して少子化に原因するものではない。
    長い間の生産性の無い国会議員を始めとする国家公務員費用の莫大な歳出や、建築業者潤わせの不必要な公共事業費歳出、はてはてめんっ家の窮状は顧みず世界中にばら撒いてきた巨額のODAこういった膨大な無駄の蓄積が現在の国家財政の破綻を引き起こしているのである。

    こういう世情を背景に幸福論を追求するのは掩うにして経済絡みになると思われるが必ずしもそうではない、むしろ逆の発想が大事だ。
    金持ちの子供にでも生まれてこなければ経済的に恵めまれた若い時代は送れない、今の日本。
    現在の日本にはかっての中産階級なるものは存在しない。大多数が中低層である。
    その責任はすべからず無能な政治家にあり政治の貧困から来ている。
    戦後壊滅的なダメージの中からドイツと並び実にめざましい復興を成し遂げたのにも拘わらず、それをさらに増進するのではなく小成金みたいにその蓄えを気前よく食いものにしてしまったのである。
    田中角榮だの竹下だのその後小泉首相に至るまでの低級学園政治は日本の最も重要な時期を潰してしまったし、以後の現在に至る政治はさらに劣等性を維持している。
    もはや日本に夜明け、栄光は訪れないのかもしれない。
    経済的水準はこのままズルズル国債評価みたいにB級、二等国に落ちぶれていくのではないかと私は懸念する。
    しかし文化、科学、教育、民度の高さは中国人がビックリするような世界中が認める超一流国なのである。
    幸福論とは個々の個性とその環境、時代によりおのずから異なるものであるが基本的には共通する部分もある。
    それはあくまでも精神的なものであるからだ。
    人間が生身の生き物である以上、食欲、性欲、健康欲は最も基本的な本能欲求であるが、それらを容易にするための良き環境、物欲それを得んがための権力、金欲と途方もなく人間の強欲は広がっていく。
    言いかえれば、経済的概念が強く幸福観の根底にあるような者は本能に正直な通俗的な人間で、その幸福度の追求はいたって単純明快である。
    少しばかりの金、富ができればもう有頂天の領域に達する。
    出世欲に幸福感を感じる会社員は骨身を削り会社に奉仕、貢献するが端から見れば所詮他人事で誰も羨ましいとは思わない。せいぜい家庭を犠牲にしないことだ。
    芸能界やスポーツ界あるいは起業して、ときに政治屋(家)で世に出たい人間しかり、世はさまざまで多様であるが、昔から変わらぬ価値ある幸福感というものは恵まれない不幸な人々のために尽くす善行や人間の進歩に尽くす科学に奉仕するというような高邁なもの、これに勝る崇高な幸福観というものはないであろう。
    しかし一般の人間にとってそんなマザー・テレサやノーベル賞科学者の足元にも寄れぬ行為で幸福観を達成するのは難しい。
    人それぞれにその幸福感というものは異なるのである。
    長い人生からすると若い美しい恋人と恋をするのは瞬時の幸福感であり、一生を貫き妻を愛していくの大変な幸福観なのである。
    しかし人間は欲が深いからもっともっと別の幸福感にも浸りたいと望む。
    愛人を抱え人生を挫折する御仁あり、単に若い売春婦にすぎない援助交際の女子高生に憧れ手を出して失脚失業する官僚、公務員、警察官、先生方が後をたたない。
    それはまさに超刹那的幸福感である。
    そういう私も恥ずかしい話し、三度の結婚相手はすべて女子高生か大学生であった。
    若い美しい女性と次から次に恋をしていくのは男にとってたまらぬ幸福感であるが、私の場合い最大の幸福感というのはやはりその冒険人生にあった。波乱万丈の人生は何にも例えられぬ酔狂なものであり、恋はそのための糧であった。
    己の幸福というものは自分自身で探し求め、作り出さなければならない。
    そのためには田舎に行ってみるのもよし、外国に行くのもよし、遠いところの見知らぬ人々がどんな喜びを持って生活しているかがよくわかる。
    ドイツの都市郊外に行った時ドイツ人がどんなに自家菜園を楽しんでいるかがよくわかった。
    私も最近やってるが野菜が日に日に育つのを見るのは実に楽しいことである。
    自分ごとが先になったが、リーマン・ショックで企業経営に行き詰まり千二百人従業員の警備会社を倒産させた後の私の第三人生の生き甲斐、幸福感はもっぱら自己流描画による美の創造である。
    近代浮世絵画家として独特の手法をもって美しく魅力的な絵を描いているが、時に一枚二千ドルで売れてアルバイトにもなる。 
    私の事はさておき、ロスアンゼルスの私の友人は楽しい生業のかたわら幸福感追求のため精神世界に没入し偉大なクリスチャンになっている。
    働く喜びとよく言われるが、仕事だけは徹底的に自分にむいた楽しめる仕事を追求することが肝心である。
    嫌いな仕事を我慢してやるほど時間の無駄はない。人生はそれほど長くはないのだ。
    何事も金のため我慢してなどというのは守銭奴哲学であり、金は自己の幸福感を達成させるための手段であり、費やするためにあって、それを持ち続けることが人生の最終目的ではない。
    金を貯めるのが幸せで使うのが嫌、一生かけてコツコツと貯め込んだ財産を冥土に持っていくのかバカ息子にやるような哀れな守銭奴が世に多いが、何のための人生だったかと聞きたい。
    そんな金をもらった息子は一挙に散在してしまい、少しも彼の人生に役立つことはない。
    結論を先に言えば、人生すべからず金がらみであるが、人間の本当の幸福とは金とは本来無縁のものなのである。
    私が手にした数億円の金、全人生では数十億円の金が私を幸せにしたのは本来の家族の養育費を除けば、宝探しのエメラルド鉱山業への投資、道楽の映画作り、警備会社への投資、またそのほとんどをウオールストリートの先物博打につぎ込んでしまったりと、刹那的な喜びをもたらしてはくれたが、とても真の幸福感の達成には役立っていない。
    とは言うものの、幸せの大部分が金で買えると思っている人が世間には多い。
    それは持たざる者のひがみ、羨望であり、いざ持ってみると容易にそれが間違いであることに気付くのは請け合いだ。
    金を持って幸せになれるのは拝金主義者、守銭奴だけであり、江戸時代には町人と呼ばれそういう人種、観念は蔑まれた。
    武士にはそういう幸福感観念はなかったのだ。
    と言って金を蔑むわけではないが、金は必要なだけあれば十分だいうことである。
    私には金に頓着する精神構造がなかったので財を成した時も、破産した時も、その精神的な落差はあまりなかった。それほど嬉しくもなければ悲しくもなかったものであった。
    幸せの本質は金とはまったく無縁で、それが自覚できなければ本当の幸福は到底つかめない。
    幸福とはどこまでいっても精神的なものであるから、気持ちの持ち方がいかに大事かということに尽きる。
    俗世間の出世や蓄財行為を嫌い仙人郷に引きこもった哲学者(仙人)の話しが漢詩にはよく出てくるが、若い時にそれを読んで少しはひがみがあるのではと疑ったけど、後年それが真実であることに気づいたものである。
    幸福感は全て気持ちの持ち方次第で、ゆめゆめ他人の求めるものを皆と一緒になって追っかける付和雷同だけは慎むことが肝要だ。
    幸福を求める行為は自主的でなければならない。
    幸せとは自分で探し、自分で創造するものだ。それは自分の信じるところに従い新大陸を発見したコロンブスの心境と同じである。
    大仰で特異である達成困難な幸福論を別にすれば、古今東西を問わず万人に共通な幸福の概念というものはいたって一般的であるが、”心身ともに健全で快適な生活をより永く送れる生き方” なのである。
    要は幸福な人生とは、楽しみながら健康にして長生きするということだ。
    まさにこのことに尽きるのであるが、若くして身体的環境の快適さを追求してばかりでは(楽してばかりでは)将来の安泰はおぼつかないので身体的には苦労を体験した方が良い。
    ただし精神的には常に快適さを実感できるような環境と自己の精神統制が必要である。
    要するに満足するように心がけることだ。
    他人と比べて自分はもっと幸せだ、不幸だと感じる比較幸福論はもとよりいただけない。
    自己の幸福は自分独特のものであるからだ。
    生徒の競走を否定した日教組の見解は側面当たっているところもあるが、全面的には妥当ではない。
    競走を一着でゴールインした生徒はとても幸せでその後の生徒たちは悔しがり(不幸)、特にビリになった生徒の不幸感は痛ましい、と昨今日本で大流行りの癒しのパターンであるが、競争がなければ人間(生徒)は進歩しない、と言う競争の大原則を否定してはいけない。
    人間は環境の子であるからどうしても周りの世界に束縛される。
    受験戦争の仲間うちでは他の生徒に打ち勝てればより幸福だろうし、ギャルの仲間うちでは自分が他の子より可愛いければより幸せと感じるだろうが、やがて加齢するとそれが単なる一過性のもので幸せなるものとはほど遠いことを自覚できるであろう。
    しかるにサラリーマンが出世競争に一生をかけ家族のことも顧みず邁進することに幸福感を感じることはそれなりに結構ではあるが達成できなかった時の挫折感や虚脱感を思えば、仕事はそこそこにこなしそのぶん家族への愛情、自分の健康に留意していた方が後々の後悔がない。
    ただし、家族や自分の健康を犠牲にしても出世競争に幸福を見出すと言うことならばそれはそれで一つの幸福論である。
    幸福論とはともすれば独創的で独善的なのである。
    ジキルとハイドではないが一流の企業経営者が意外と変な女装趣味を持ったマリカ(同性愛者)であったり(それが本人にとって最大の幸せ事)、立派な研究者がくだらない悪趣味を持っているなどということは世間によくあることだ。
    他人に迷惑をかけなければ、また法に触れなければどんな行為も許されるのであるからと奇想天外な発想のもとに、公衆の中で奇行パフォーマンスを繰りひろげる知人がコロンビアにいた。
    と言って爆弾を仕掛け人を殺すのが楽しみというのや、銃を乱射して人を殺すのが楽しみというのだけは願い下げである。
     
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