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1339年、天龍寺が建てられたのとちょうど同じとき、夢窓疎石は京都の西端にある西芳寺の作庭も依頼される。ここは、元々は浄土宗の寺であったが、長らく廃墟となっていた。それを、室町幕府の重臣である摂津親秀が再興することになり、同時に臨済宗に改宗された。
夢窓疎石は、ここでも枯山水を試している。
ところで、「枯山水」は水がないお寺の庭として重宝され、広まったという経緯がある。ただ、それより以前は「涸山水」と呼ばれ、元々は水があった寺の庭が、なんらかの理由で水が涸れてしまった状態のことを指した。そうした庭が、思わぬ趣を醸し出していたので、面白がられたのが始まりである。そうして後には、はじめから水がない寺にも作られるようになったのだ。
夢窓疎石は、そんな枯山水を世に広めた一番の功労者である。彼は、元々は後醍醐天皇をパトロンとしており、そのときは公家好みの水のある庭を作っていた。
しかし時代が武家社会
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