石原莞爾は1918年(大正7年)、29歳のときに陸軍大学を「次席」で卒業する。「首席」は鈴木卒道であった。

完爾はもともと陸軍大学に興味はなかったのだが、士官学校卒業後に配属された連隊で、連隊長から「絶対に行くべきだ」と強く勧められて入った。

というのも、陸軍大学は誰でも行けるようなところではなかった。陸軍士官学校を卒業したエリートでも、一握りのトップ集団しか行けなかった。連隊長は、部下である完爾の卓抜した才能を見て、行かなければもったいないと思ったのだ。

このように、完爾は上司からも一目置かれるほどの才気煥発とした人物だった。特にそのカリスマ性が際立っていた。陸軍大学の首席は卒道だったが、誰もが完爾の方が能力は上だと思っていた。卒道とて、音に聞こえた秀才だったが、やっぱり「自分が完爾に敵うはずはない」と思っていた。

それで、「完爾が次席になったのは、きっと大学での態度が悪かったからだろう