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張作霖爆殺事件の後、日本陸軍の陰謀だったことが、やがて張作霖陣営はもちろん、満州の一般人にさえ知られるようになった。しかし陸軍及び日本政府は、その事実を最後まで否定した。その一方で、陰謀の首謀者であった河本大作を左遷し、またその責任を取って田中義一内閣が総辞職するなど、ちぐはぐな事後処理となった。
それで、陸軍の仕業だったということはもはや公然の秘密になる。おかげで、満州の日本に対する反発はかつてないほど高まった。すると、その後押しを受けて張作霖の息子である張学良が、父の軍閥を引き継ぐ。
しかも張学良は、中国と協力体制を取り始める。父の張作霖は、中国とも対立し、満州の独立を目指していた。そのため日本にもつけいる隙があったのだが、張学良がその中国と手を結んでしまったため、日本の満州での影響力はさらに低下せざるを得なくなった。これが1928年のことである。
一方その頃、日本では二葉会、木曜会、
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