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石原莞爾と東條英機:その108(1,781字)
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ハックルベリーに会いに行く
1週間前
アメリカとの和平交渉にあたっていた日本の外務官がハルノート受け取ったのは1941年11月26日である。東條英機もこのとき第一報を受け取っている。その詳細な内容は、28日になると閣僚全員にも知らされた。これを受け、政府は翌29日に重臣との懇親会を宮中で開く。「重臣」とは、総理経験者を中心に構成された政府のコン...
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石原莞爾と東條英機:その107(1,749字)
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ハックルベリーに会いに行く
2週間前
ハルノートの内容を知った東條英機は、腹の中では開戦を即決したが、一応「開戦を避けるためにハルノートを受諾するとどうなるか」ということも考えてみた。メモ魔の彼は、そのときの思考を文章として残している。それは以下のようなものだ。『帝国は一事の小康を得よう。だがそれは英米に死命を制されることになるだけ...
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石原莞爾と東條英機:その106(2,013字)
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3週間前
「乙案」とは、アメリカとの和平交渉における日本の要求項目のことである。内閣で決まったこの案を、東條英機が天皇に上奏した後、11月20日にアメリカに正式な文書として提出された。そこでアメリカの反応を待っていたのだが、6日後の11月26日に、アメリカのコーデル・ハル長官から返答があった。ただし、それは公文書と...
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石原莞爾と東條英機:その105(1,765字)
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4週間前
東條英機は乙案を奏上するときに昭和天皇の前で申し訳なさから堪えきれずに涙を流した。これに驚いたのが天皇の周囲の人間、及び内閣の人間であった。東條は、天皇に親近感を抱いている。それは裏を返せば、天皇が東條に親近感を抱いているということでもある。普通の首相だったら、天皇の前では恐れ多くて、ちぢりこま...
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石原莞爾と東條英機:その104(1,792字)
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1ヶ月前
東條英機は、日米開戦を回避する気満々で内閣の運営に当たったが、当たり前と言えば当たり前だが、就任早々陸軍の壁紙立ちはだかる。昨日までは頼もしい仲間だった陸軍の執行部が、口々に兵士の、軍の、そして国の窮乏を訴えかける。その手口は「暖簾に腕押し」である。東條が何を言おうとのらりくらりと交わし、ただた...
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石原莞爾と東條英機:その103(2,127字)
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1ヶ月前
東條英機は首相になった。このとき、天皇が出した条件の一つが、陸相を兼ねるということだった。総理にはなるが陸軍大臣の地位にもとどまり、陸軍ににらみをきかせる。そうして、陸軍の開戦派を抑えるというのが、天皇の狙いだった。すると、それに対して東條は、逆に自分からも一つの条件を提案する。それは、大臣をも...
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石原莞爾と東條英機:その102(2,043字)
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1ヶ月前
東條英機は寝返った。内大臣・木戸幸一と昭和天皇の策略で、首相に据えることの交換条件として、開戦派から非開戦派に一瞬にして寝返ったのだ。木戸は、「東條は首相になりたいだろう」と読んでいた。東條は巧妙に隠していたが、そういう出世欲が垣間見得た。木戸はその東條の秘めたる欲を利用した。総理大臣に就ければ...
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石原莞爾と東條英機:その101(1,885字)
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1ヶ月前
本当になぜこうなってしまったのか、歴史の微妙な綾で近衛文麿は総理大臣を辞職した。おかげで昭和天皇はまた新しい総理大臣を決めなければならなくなったが、そこで側近の内大臣(今の宮内庁長官)である木戸幸一が、天皇に候補として東條英機をサジェスチョンした。今陸相の東條を総理にしようというのだ。すると天皇...
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石原莞爾と東條英機:その100(1,842字)
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2ヶ月前
1941年(昭和16年)の日本において、国民の一番の味方は東條英機だった。そして、その東條の一番の敵は石原莞爾だ。そうなると、石原莞爾は国民の敵――という具合になりそうだが、そんな感じは全然なかった。石原を好きな国民もまた多かった。その意味で、戦争直前の日本はまだ、必ずしも一枚岩ではなかったのだ。まだま...
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石原莞爾と東條英機:その99(1,968字)
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2ヶ月前
陸軍をクビになった石原莞爾は、1991年4月から京都に暮らし、積極的に講演活動を行った。6月には立命館大学で授業も始まり、これは市民にも無料開放されたので会場はいつも満席の盛況だった。その一方で、憲兵による締め付けはますます厳しくなった。まず石原の書いた本が憲兵による差し止めで連続して出版禁止となった...
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石原莞爾と東條英機:その98(1,722字)
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2ヶ月前
石原莞爾は1928年、39歳のときにひどい中耳炎を煩い、半年間ほど入院する。これが石原の人生を大きく変えた。中耳炎以前は記憶力が抜群で、それを活かした学問(特に歴史学)が好きだったのだが、以降は記憶力が著しく減退し、学問の道は諦めざるを得なくなった。それで、もう一つの得意である理論構築(あるいは論理)...
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石原莞爾と東條英機:その97(1,743字)
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2ヶ月前
1941年3月に、石原莞爾は陸軍から予備役となった。「予備役」というのは引退というのと同義だが、もっというと体よくクビにされたという感じである。東條がクビにしたのだ。これは誰もが知るところだった。このとき、陸軍内は東條と石原とで二分されていた。これも誰もが知るところであった。一般民衆も知っていたのでは...
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石原莞爾と東條英機:その96(1,791字)
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3ヶ月前
東條英機が示達した戦陣訓は、きわめて速やかに広まり、定着していった。それは陸軍内の臨戦気分を刺激するところがあったので、多くの軍人にとってきわめて好都合だったのだ。この当時の陸軍は、上から下までほとんどの者がアドレナリンが出まくっていたといっていい。出ていないのは本当に上層部の、それも一部の非開...
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石原莞爾と東條英機:その95(1,943字
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3ヶ月前
1941年の1月に、東條英機と石原莞爾を決定的に決裂させる、あるできごとが起こる。それは、東條英機が陸軍大臣の名の下で、兵士たちに「戦陣訓」を示達したことだ。戦陣訓とは何か?簡単に言うと、軍人のあるべき姿をしたためた道徳書だ。今でいう企業の「クレド」である。組織の信念やモットーを、構成員に伝えるための...
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石原莞爾と東條英機:その94(1,864字)
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3ヶ月前
東條英機は最後まで石原莞爾と和解しようとしていた。その三番目の理由は、東條は詰まるところ石原のことが好きだったのではないかということだ。石原に強いシンパシーを感じていた。いや、憧れを抱いていたといっていい。何と言っても東條と石原は同じ東北の「幕府側」の藩の出身である。そして共に、祖父がそれなりに...
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石原莞爾と東條英機:その93(1,884字)
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3ヶ月前
東條英機が陸軍大臣になるのが1940年7月。石原莞爾が予備役送りになるのが1941年3月。この間、およそ8ヶ月。この8ヶ月間に何があったか?まず石原の方だが、この頃は一種の「開き直り状態」にあった。石原の元には、満州における日本陸軍の蛮行が、頻繁に聞こえてきていた。それまでは、なんとか改善するよういろいろ働...
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石原莞爾と東條英機:その92(1,575字)
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4ヶ月前
東條英機が憲兵を上手く使えたもう一つの理由は、彼の中に特殊な「カリスマ性」があったことである。憲兵は俗に「犬」と呼ばれていた。警察官も「犬」に比喩されることがよくあるが、これは「犬のようにボスのいうことに忠実」だからである。また逆に、ボスのいうことしか聞かないという側面もある。これが犬最大の特徴...
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石原莞爾と東條英機:その91(1,689字)
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4ヶ月前
東條英機は、久留米に飛ばされていたとき、師である永田鉄山が皇道派との派閥争いに勝ち、真崎甚三郎を更迭したことによって、中央に戻れることが決まった。元々東條は、真崎と対立したことで久留米に飛ばされていたのだ。しかし飛ばされた久留米でも勤勉実直に職務をこなし、じっと耐えていた。それで再びチャンスが巡...
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石原莞爾と東條英機:その90(1,861字)
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4ヶ月前
1940年、陸相に就任した東條英機は、その辣腕ぶりを発揮する。陸軍からは軍の要求(すなわち日中戦争の継続)を政府に対して強く申し入れる「交渉者」として、また政府にとっては、これまでの陸相とは違った話の通じる「相談者」として、どちらにとっても得がたい「協力者」となった。東條はもともと八方美人の「調整者...
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石原莞爾と東條英機:その89(1,679字)
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4ヶ月前
東條英機が陸軍大臣になるのが1940年7月のことである。石原莞爾がクビになるのが1941年3月なので、およそ9ヶ月、3/4年をかけてじっくりと追い出したことになる。逆にいうと、この間に東條の権力がみるみるうちに拡大したのだ。このことは以前にも述べた。東條の前任の陸相が畑俊六で、これは人格者で海軍出身の首相、米...
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石原莞爾と東條英機:その88(2,007字)
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5ヶ月前
石原莞爾は1939年8月に第16師団長となる。1941年3月にクビになるので、2年弱の期間だった。この間、立命館大学で教え、また東亜連盟を立ち上げたことはこれまでに見てきた。その間、第16師団では何をしていたのか?印象的なエピソードが2つある。石原はとにかく兵が好きだった。それも最下層の二等兵、新米兵こそが軍隊...
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石原莞爾と東條英機:その87(1,861字)
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5ヶ月前
1939年11月、この年の8月に第16師団長になった石原莞爾は「東亜連盟」という組織を主宰する。これは思想団体であるが、もちろん政治的な色彩(思惑)が強かった。その政治的思惑の目指すところは、その名の通り「東亜(東アジア)」の連盟である。東アジアは、最初は日本、満州、そして中国を指していた。朝鮮が入ってい...
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石原莞爾と東條英機:その86(2,036字)
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5ヶ月前
石原莞爾は1939年8月に第16師団長に就任。1年半後の1941年3月に予備役に組み込まれる。つまり陸軍を退職する。表向きは退職だが、実質的にはクビだった。東條英機に追い出されたのだ。では、この師団長時代に石原莞爾に何があったのか?それを見る前に、まずは当時の東條英機の動きを見てみたい。東條英機は1938年5月に...
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石原莞爾と東條英機:その85(1,831字)
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5ヶ月前
1938年12月から1939年8月まで、約9ヶ月間、石原莞爾は舞鶴にいた。この期間、時間の余裕があったので、療養に専念した。同時に、思想を深めるための読書や研究にも当たった。彼の中で、陸軍に対する興味がどうしようもなく薄れていったからだ。しかしそんな石原をなんとか中央に戻そうと、盟友で当時の陸軍大臣でもあっ...
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石原莞爾と東條英機:その84(1,779字)
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6ヶ月前
石原莞爾は1938年12月に舞鶴要塞の司令官に就任する。この頃の日本国内にはいくつかの要塞があったが、それらは名目上作られただけで、誰も本当に使われるとは思っていなかった。日本が戦争をするにしても、日本が戦場になることはないと思っていたからだ。実際、日本は沖縄以外で地上戦は行われなかった。日本は本土そ...
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石原莞爾と東條英機:その83(1,818字)
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6ヶ月前
石原莞爾は1938年6月に、病気を理由に関東軍参謀副長辞任を申し出る。この前月、参謀長だった東條英機は中央への栄転で陸軍次官になっていたが、後任の参謀長には、石原ではなく別の人間が着任した。これはもちろん東條の差し金で、そこには石原は絶対昇進させまいとする強い意思が伺えた。これで石原の気力が萎えたとい...
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石原莞爾と東條英機:その82(1,759字)
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6ヶ月前
ぼく自身はここまで書いてきて第二次大戦のことがようやく分かってきた。連載82回を重ねてようやく見えてくるものがある。これを現代人が理解するのはまず無理だ。到底不可能といっていいだろう。よっぽど近代史に純粋な興味のある人しか理解できない。思想的な思惑が挟まっては全く理解できなくなる。東條英機はこのと...
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石原莞爾と東條英機:その81(1,954字)
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6ヶ月前
1938年12月、東條英機は多田駿を道連れにする形で陸軍次官をクビになり、陸軍航空総監に就任する。再びの閑職であったが、この頃は戦争における飛行機の重要性がにわかに高まっている時期でもあった。つまり未来の成長産業の長に、たまたまこのとき収まるのである。そして1939年になる。太平洋戦争開戦の約3年前だ。この...
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石原莞爾と東條英機:その80(1,880字)
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7ヶ月前
1938年5月、東條英機は陸軍の事務次官に就任した。このとき、最初は就任を渋ったという。理由は、政治の世界に足を踏み入れたくなかったからだ。東條もまた複雑な人物である。ほとんどが俗っぽいが、純粋なところは純粋で、軍人は政治をすべきではないと考えていた。しかし後に豹変し、軍のためという建前こそあったもの...
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石原莞爾と東條英機:その79(2,026字)
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7ヶ月前
1937年に日中戦争が始まり、東條英機は満州から軍を動かして中国に侵略した。その一方で、満州に帰ると直属の部下に石原莞爾が赴任してきて、これと決定的な不仲になる。そんなときに、陸軍中央部、あるいは日本政府の中では新たな動きが起きていた。それは日中戦争を巡るもので、これを止めようとする不拡大派と、進め...
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石原莞爾と東條英機:その78(1,676字)
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7ヶ月前
「出る杭は打たれる」という言葉が昔からある。意味は、日本人は能力の高い人間をよってたかって潰そうとする村社会、という意味だ。従ってイノベーションが生まれにくい。しかし同時に「出過ぎる杭は打たれない」という言葉がいつの頃からかあった。最近ではイチローがこの言葉を使っていたが、日本人というのは不思議...
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石原莞爾と東條英機:その77(1,923字)
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7ヶ月前
石原莞爾は満州の関東軍に転属になって以来、満州国の自主独立を目指して、あるいは始まってしまった日中戦争を早期に終わらせようと、あれこれ働きかけていた。しかしそれを東條英機がことごとく阻止した。東條の立場(意見)は石原と正反対だった。満州は日本が支配しなければならないし、中国との戦争は継続(拡大)...
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石原莞爾と東條英機:その76(1,869字)
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7ヶ月前
石原莞爾はかねてから日本の中国への侵攻に反対していたため、陸軍の中央部から煙たがられた。それで、1937年の10月に東京の参謀本部長から満州の副長官に転属になった。これは、中央から移されたという意味では左遷でもあったが、しかしそれでも満州は日本の要衝だったので、必ずしも悲観するような人事ではなかった。...
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石原莞爾と東條英機:その75(1,752字)
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8ヶ月前
チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。これは関東軍の参謀長である東條自らが指揮して大きな成果を上げた。ところがその直後、東條と、そして石原莞爾の運命を大きく変えるあるできごとが起こる。それは人事である。中央の参謀本部第一部長だった石原莞爾が、異動でなんと関東軍の参謀副長へと配置換えになるのである...