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相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。
すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。軍事クーデターである。時は1936年2月26日。東京に記録的な大雪が降った日であった。
二・二六事件を語るのは難しい。その詳細が微妙で繊細で曖昧だからだ。まず追い詰められた皇道派の青年将校たちは、新たな敵を政府と見定めた。政府が統制派と結託し、天皇をたぶらかして自分たちのいいように世の中を動かしていると考えたからだ。
それで首相をはじめとする時の大臣や昭和天皇の侍従長であった鈴木貫太郎が襲撃の標的となった。この襲撃された鈴木貫太郎は、日本にとって「運命」ともいえる存在だった。鈴木貫太郎の妻
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