言うならば、非の打ち所がない作品なのだ。「非の打ち所がない」というと、かえって悪い意味に使われたりする場合もあるが、ここではいい意味で「非の打ち所がない」と言っている。これは完璧な作品なのだ。
完璧な作品というのは、言い方を変えれば、映画としてのある種の「理想型」ということだ。そこには、映画が目指すべき到達点というものがある。さらに言い方を変えると、非常に本質的な映画ということもできる。つまり、この「クレイマー、クレイマー」を見れば、「映画とは何か?」ということの答えさえ見えてくるのだ。
そこで今回は、何がこの作品を完璧にしているのか、詳しく見ていきたい。それと同時に、「映画とは何か?」ということも、併せて考えていく。
まず、「クレイマー、クレイマー」の最も重要なポイントの一つは、当時の風俗を切り取っているという点だ。当時の社会問題を、そのまま取りあげているのである。つまり、時代に即した作品なのだ。この作品は1979年に作られたのだが、今見ると、全く「1979年的」な作品なのである。
そう聞くと、「では、今見ると古くさく感じるのでは?」と思う方がいるかもしれないが、実際は逆である。今見ると、当時の世相を写し取った記録映像のように見え、新鮮だし、貴重に思えるのだ。「1979年当時の風俗ってこういう感じだったのか!」と、好奇心を刺激されるのである。
それは、言うならばタイムマシンに乗ったような感覚だ。「クレイマー、クレイマー」を見ることは、タイムマシンに乗って1979年に行くような行為なのである。このことを、面白いと思わない人はこの世に存在しないだろう。それは、当時すでに生まれていた人はもちろん、生まれていなかった人にさえそうだ。
なぜなら、それは「懐かしさ」という感覚ではないからだ。この映画は、断じて1979年を懐かしむ映画ではない。その逆に、未知なる歴史を知るような感覚だ。だから、当時まだ生まれていたなかった人でさえ、楽しめるようにできている。
そのことが、この映画に永続的な成功をもたらした。すなわち、この先どれほどの歳月が経とうと、「1979年」を知りたければ、この映画にまさる資料はないということになるからだ。そのため、何度となく、興味深く見返されることになるだろう。これは、一種の歴史映画でもあるのだ。それも、その時代に描かれた、第一級史料としての歴史映画なのだ。
このことから分かるのは、映画というのは、その時代の世相を切り取りることが、一つの本質――ということだ。映画ほど、人々に「タイムスリップ感覚」をもたらすものは少ない。当時の人々がどのような空間で、どのような動き、どのように話していたかを、映画以上に伝えてくれるものはなかなかないだろう。
通常、映画に永続的な価値を込めようとすると、時代を切り取るのではなく、時代を超えた、何か普遍的な要素を取り入れようとする。しかし、それだと逆に失敗してしまう可能性が高い。なぜなら、そこで肝心の「普遍的な価値」を見誤ると、かえって飽きられるのも早いからだ。そして、よほど芸術に精通していない限り、「普遍的な価値」を見極めることは、なかなか難しいのである。
だとしたら、逆に開き直って、今この瞬間をあるがままに切り取った方が、よっぽど確率が高いのだ。そこで下手なフィルターを通さない方が、普遍的な価値につながりやすい。
しかしながら、「クレイマー、クレイマー」を完璧にしている理由は、これだけではない。実はもう一つあって、それは
コメント
コメントを書くこの記事を読んで、『パルプフィクション』冒頭の携帯電話についての会話を思い出しました。
最近観たのですが、ケータイの流行り始めはこうだったのかぁ、と不思議な感覚が走りました。
最近読んだ『俺俺』という小説も、風俗の描写がなかなか面白かったです。
現代の事柄であるにも関わらず、何か奇妙な距離感というか、タイムスリップ感覚がありました。
不思議と「爽健美茶」といった固有名詞にさえおかしみが感じられる、独特の文体でした。
>>1
ありがとうございます!
『俺俺』、面白そうですね。
風俗って、無自覚に切り取るといい味出すんですよね。