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ニコニコ超会議参加レポート:前編(2,073字)
ニコニコ超会議とは何なのか?
それはおそらくドワンゴの提供するインターネットサービスと不可分の関係にあるものだ。
ドワンゴのインターネットサービスは、いずれもネット空間に「祭り」を再現しようとするものだ。「ハレとケ」でいうところの「ハレ」を、日常的に構築・提供していこうというサービスだろう。ニコニコ動画、ニコニコ生放送、ニコニコ静画、ブロマガなど、人と人とが祭り的に交流し、そこで起こるケミストリーを楽しむことを、ニコニコのサービスはおしなべて標榜してきた。「インターネットにお祭りの面白さを!」が、ドワンゴサービスの隠れたコンセプトなのだ。
しかしながら、そういうサービスを突き詰めれば突き詰めるほど、はっきりしてくるのは「インターネットの物足りなさ」だ。インターネットがけっして代替し得ないものは、リアルな空間の空気感だ。
インターネットが普及するようになって、最も伸長したエンターテインメントビジネスはイベントやライブだった。音楽業界では、CDが売れなくなるのと反比例して、ライブやイベントの動員数が右肩上がりを続けている。
それは、インターネットが普及すればするほど、デジタルな情報に価値がなくなるのと同時に、リアルな空間の価値が高まったからである。人は、インターネットに慣れ親しめば親しむほど、そこに「リアルな空間では味わえるはずのものがここでは味わえない」という物足りなさを感じるのだ。
つまりドワンゴのサービスは、インターネット上で祭りを開けば開くほど、そこに「現実の祭りでは味わえるはずのものが味わえない」という物足りなさを募らせる構造になっているのである。そうしてドワンゴのサービスを受けている人たちは、「現実の祭り」を欲するようになるのだ。
そういう欲求が際限なく高まったのをとらまえて始まったのが、この「ニコニコ超会議」だろう。それは、放っておけばユーザー間で自然と始まっていた種類のものだ。オンラインでコミュニティが盛りあがれば盛りあがるほど、オフラインでも交流したくなるのが人情である。実際、ニコニコ超会議が始まる前から、非公式なオフ会は無数に行われていたはずだ。
ニコニコ超会議は、それら非公式のオフ会を一堂に束ねて始まったというのが本質である。いうなれば巨大オフ会なのだ。インターネットでの交流に物足りなさを感じた人々が、その欲求不満をぶつけ合う場所がニコニコ超会議なのである。
そのため、ニコニコ超会議は図らずも「日頃の欲求不満をぶつけ合う場所」という「祭り」そのものの本質にもシンクロした。これは、インターネット空間に日常的に祭りを作ろうとしたことによって、逆にリアルな祭りが日常的に提供されていないという欲求不満を浮き彫りにしたという意味で、なんとも皮肉が効いている。
そう考えると、ニコニコ超会議に蝟集する人々の、独特の鬱屈した雰囲気にも合点がいく。会場である幕張メッセに行くと、そこに抑圧された「気」のようなものを感じるのである。
それもそのはずで、ここに来る人たちは欲求不満の塊のようなものなのだ。それらが一堂に会することで、鬱屈されたムードが醸成されているのである。
この鬱屈されたムードは、祭りを盛り上げる起爆剤として機能する。なぜかといえば、何か禍々しいこと、とんでもないことが起きそうな雰囲気というのは、祭りには欠かせないからだ。
以前、「昭和の事件史」というのを調べていたことがあるのだが、昭和の時代は、祭りやイベントなどでよく人死にが出ていた。一度などは、初詣の人混みで深甚なトラブルが発生し、100人以上が死ぬ「彌彦神社事件」というものまで起きている。
それを見たとき、「どうして祭りでこれだけの人が死んでしまうのか?」と不思議に思ったが、今だったら、祭りに特有のあの鬱屈した雰囲気が、そこに集まった人をしてそうした惨事へと向かわせるのかと、何となく納得できる。祭りには、死のにおいがつきまとっているものなのだ。
ただ、ニコニコ超会議はさすがに私企業の主催するお祭りなので、「死」というものの可能性はなるべく遠くの方へ押しやられていた。それゆえ、そこに蝟集する人々の欲求不満は行き場所をなくして、幕張メッセの中空を彷徨っているようだった。
おかげで、ニコニコ超会議は消化不良の感をぬぐえないところもある。それは、強烈な欲求不満が蝟集しているにもかかわらず、それを完全に解消させる「死」というものの可能性が排除されているからだ。
「ニコニコ超会議では、人は死なない」
そうした雰囲気が伝わるから、そこにどうにも物足りなさが残ってしまうのだ。
ぼくは以前、AKB48の仕事をやっていた関係で、アイドルが歌っている最中にオタクが歌に合わせて踊る「オタ芸」というのをよく見てきた。それを見ると分かるのだが、あれはとても危険なものである。頭を激しく振り回すので、隣の人とぶつかると、深甚な怪我につながりかねないのだ。下手をすると死にかねない。
【ヲタ芸】サンダースネーク、ロマンス - YouTube
だから、今はほとんどのコンサートでオタ芸が禁止されているのだが、以前は「なぜオタクはあんな危険なことをするのか?」というのが皆目見当つかなかった。
しかし、今なら分かる。彼らは、そこに自ら「死」の可能性を持ち込むことで、コンサートを欲求不満をぶつけられる場所に昇華しようとしているのである。その「祭り」としてのグレードを、より高いものにしようとしているのだ。
その意味で、ニコニコ超会議がさらに発展していくためには、そこにどう「死」の雰囲気を持ち込むかということが課題になってくるだろう。そんなことを、会場を回りながら思ったのだった。
ニコニコ超会議参加レポート:前編(2,073字)
ニコニコ超会議とは何なのか?
それはおそらくドワンゴの提供するインターネットサービスと不可分の関係にあるものだ。
ドワンゴのインターネットサービスは、いずれもネット空間に「祭り」を再現しようとするものだ。「ハレとケ」でいうところの「ハレ」を、日常的に構築・提供していこうというサービスだろう。ニコニコ動画、ニコニコ生放送、ニコニコ静画、ブロマガなど、人と人とが祭り的に交流し、そこで起こるケミストリーを楽しむことを、ニコニコのサービスはおしなべて標榜してきた。「インターネットにお祭りの面白さを!」が、ドワンゴサービスの隠れたコンセプトなのだ。
しかしながら、そういうサービスを突き詰めれば突き詰めるほど、はっきりしてくるのは「インターネットの物足りなさ」だ。インターネットがけっして代替し得ないものは、リアルな空間の空気感だ。
インターネットが普及するようになって、最も伸長したエンターテインメントビジネスはイベントやライブだった。音楽業界では、CDが売れなくなるのと反比例して、ライブやイベントの動員数が右肩上がりを続けている。
それは、インターネットが普及すればするほど、デジタルな情報に価値がなくなるのと同時に、リアルな空間の価値が高まったからである。人は、インターネットに慣れ親しめば親しむほど、そこに「リアルな空間では味わえるはずのものがここでは味わえない」という物足りなさを感じるのだ。
つまりドワンゴのサービスは、インターネット上で祭りを開けば開くほど、そこに「現実の祭りでは味わえるはずのものが味わえない」という物足りなさを募らせる構造になっているのである。そうしてドワンゴのサービスを受けている人たちは、「現実の祭り」を欲するようになるのだ。
そういう欲求が際限なく高まったのをとらまえて始まったのが、この「ニコニコ超会議」だろう。それは、放っておけばユーザー間で自然と始まっていた種類のものだ。オンラインでコミュニティが盛りあがれば盛りあがるほど、オフラインでも交流したくなるのが人情である。実際、ニコニコ超会議が始まる前から、非公式なオフ会は無数に行われていたはずだ。
ニコニコ超会議は、それら非公式のオフ会を一堂に束ねて始まったというのが本質である。いうなれば巨大オフ会なのだ。インターネットでの交流に物足りなさを感じた人々が、その欲求不満をぶつけ合う場所がニコニコ超会議なのである。
そのため、ニコニコ超会議は図らずも「日頃の欲求不満をぶつけ合う場所」という「祭り」そのものの本質にもシンクロした。これは、インターネット空間に日常的に祭りを作ろうとしたことによって、逆にリアルな祭りが日常的に提供されていないという欲求不満を浮き彫りにしたという意味で、なんとも皮肉が効いている。
そう考えると、ニコニコ超会議に蝟集する人々の、独特の鬱屈した雰囲気にも合点がいく。会場である幕張メッセに行くと、そこに抑圧された「気」のようなものを感じるのである。
それもそのはずで、ここに来る人たちは欲求不満の塊のようなものなのだ。それらが一堂に会することで、鬱屈されたムードが醸成されているのである。
この鬱屈されたムードは、祭りを盛り上げる起爆剤として機能する。なぜかといえば、何か禍々しいこと、とんでもないことが起きそうな雰囲気というのは、祭りには欠かせないからだ。
以前、「昭和の事件史」というのを調べていたことがあるのだが、昭和の時代は、祭りやイベントなどでよく人死にが出ていた。一度などは、初詣の人混みで深甚なトラブルが発生し、100人以上が死ぬ「彌彦神社事件」というものまで起きている。
それを見たとき、「どうして祭りでこれだけの人が死んでしまうのか?」と不思議に思ったが、今だったら、祭りに特有のあの鬱屈した雰囲気が、そこに集まった人をしてそうした惨事へと向かわせるのかと、何となく納得できる。祭りには、死のにおいがつきまとっているものなのだ。
ただ、ニコニコ超会議はさすがに私企業の主催するお祭りなので、「死」というものの可能性はなるべく遠くの方へ押しやられていた。それゆえ、そこに蝟集する人々の欲求不満は行き場所をなくして、幕張メッセの中空を彷徨っているようだった。
おかげで、ニコニコ超会議は消化不良の感をぬぐえないところもある。それは、強烈な欲求不満が蝟集しているにもかかわらず、それを完全に解消させる「死」というものの可能性が排除されているからだ。
「ニコニコ超会議では、人は死なない」
そうした雰囲気が伝わるから、そこにどうにも物足りなさが残ってしまうのだ。
ぼくは以前、AKB48の仕事をやっていた関係で、アイドルが歌っている最中にオタクが歌に合わせて踊る「オタ芸」というのをよく見てきた。それを見ると分かるのだが、あれはとても危険なものである。頭を激しく振り回すので、隣の人とぶつかると、深甚な怪我につながりかねないのだ。下手をすると死にかねない。
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だから、今はほとんどのコンサートでオタ芸が禁止されているのだが、以前は「なぜオタクはあんな危険なことをするのか?」というのが皆目見当つかなかった。
しかし、今なら分かる。彼らは、そこに自ら「死」の可能性を持ち込むことで、コンサートを欲求不満をぶつけられる場所に昇華しようとしているのである。その「祭り」としてのグレードを、より高いものにしようとしているのだ。
その意味で、ニコニコ超会議がさらに発展していくためには、そこにどう「死」の雰囲気を持ち込むかということが課題になってくるだろう。そんなことを、会場を回りながら思ったのだった。
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