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人に「競争心」を担保するものこそ、「自分を客観的に見る」ということかもしれない。
この連載でもこれまで、マラソンの森下広一選手が「自分は我慢強くない。試合に負けるのが我慢できないから練習する」と話していたことや、世阿弥の「離見の見」について紹介してきた。
自分を客観的――まるで他人のよう――に見ることができれば、勝ちたいという心が「勝たなくてもいい」という心に勝り、勝利への躊躇いがなくなる。文字通り「克己」できるのである。
この連載でもこれまで、マラソンの森下広一選手が「自分は我慢強くない。試合に負けるのが我慢できないから練習する」と話していたことや、世阿弥の「離見の見」について紹介してきた。
自分を客観的――まるで他人のよう――に見ることができれば、勝ちたいという心が「勝たなくてもいい」という心に勝り、勝利への躊躇いがなくなる。文字通り「克己」できるのである。
その「自分を客観的に見る」という境地に至る過程で、必要になってくるのが「自分との対話」である。自分をまるで他者であるかのように見るためには、自分を他者として「対話できること」が前提になってくる。
そこでここでは、「自分との対話はどうやって為されるのか」ということについて考えたい。
まず、自分との対話は、必ずしも「他者と会話するような形式では行われない」ということだ。
ドラマ
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