何とまあ、本稿をアップする間もなく、『新潮45』が休刊だそうです。
いよいよフェミニズムやLGBT活動家が民主主義の敵でしかないことが明らかになりつつあります。
まあ、残念だし腹立たしい話ですが、愚痴っていても仕方ありません。ともあれ、先に進みましょう。
当ブログでは以前も杉田水脈氏の記事(『新潮45』8月号)を採り挙げましたが、今月(10月)号では世間のバッシングに対する反論特集とでも言うべきものが組まれ、複数の執筆者による記事を掲載。これが火に油を注ぐ格好になってしまいました。
何しろこの土曜日、神保町まで出て今号を探してみたのですが、大型書店では初日で完売とのお話。近所の町の本屋でも同じく完売という状況で、前回と同じく図書館で読み、本稿もその時のメモを手がかりにしたためることになってしまいました。
というわけなので、以前の記事を読んでいない方はそちらから読んでいただくことを、強く推奨します。また、本稿では以前の記事を以降は「前回」と呼ぶことにします。
さて――リベラル様側がネット上で行っている「反論」についてはまだほとんど目を通しておらず、後々突っ込みを入れてみようと思っているのですが――肝心の今月号の特集、大変残念ですが、やはり大騒ぎするようなものとはとても思えませんでした。もっとも、杉田氏の当初の論文ですらあれだけ怒り狂った人々であれば、ただ「反論された」という事実を持ってなおのこと半狂乱になること自体は、想定の範囲内ではあるよなあ――とも思えるのですが、まあ、それは置いて、まず特集全体を概観してみましょう。
まずは藤岡信勝氏の記事。特集冒頭に掲載された、今回の騒動を俯瞰したような内容で、ぼくの前回のものとほぼ、同じ内容と言ってしまっていいかと思います。
ただ、ここでは竹内久美子師匠の杉田氏批判への反論もなされています。以下はあくまで藤岡氏の記事のみを読んでの解説ですが、竹内師匠の主張は「ホモに生産性がないなら、そもそも子供にホモのDNAが引き継がれず、とっくに絶滅しているはずだが、そうはなっていない。これはホモの母方が子だくさんの傾向にあるからで、ホモは絶滅しない、ご心配なく(大意)」という何だかわけのわからないもの。
「そういうことは言ってないから」以外の感想が思いつきません。そもそもホモが遺伝要素が強いのか(先天的なのか後天的なのか)すらぼくには判断しかねますが、仮にそうだとしてもホモ自身は生産性がないという結論には変わりがないし、「ホモの母方が子だくさん」というのがいかにも胡散臭い話です。何か根拠あるんでしょうかね。
それに、更に言うならば「ホモが絶滅していない」理由は単純に、ひと昔前までは「国民皆婚社会」でホモも女性と結婚していたから、DNAが残されたというのが実情でしょう。この理屈ではやはり、ホモにも生産性を担っていただくため、国民皆婚社会(ただし男女に限る)を復活させるべき、となってしまいます。
また、藤岡氏は「生産性」という言葉が差別的であるとの主張に対して、マルクスやマルクス主義フェミニストの上野千鶴子師匠も「生殖」を「生産」と表現していた、と反論しています。もし杉田氏をレイシストとして糾弾しなければならないのであれば、同様にマルクスも上野師匠も糾弾されなければならない、というわけです(ただ、批判者側は単に「生産性」の文脈を曲解して言いがかりをつけていただけなので、これもツッコミ所はそこじゃない、という気はします)。
もう一つ、アメリカの連邦最高裁が同性婚を禁じる州法を違憲とする判決を下したそうなのですが、LGBTはこれを称賛するどころか批判している。藤岡氏によれば、これは「異性愛者の結びつきを保護することは同性愛者を排除することだ」との主旨によるものらしいのですが(正直、説明不足でここのつながりはよくわからないのですが)、こうなると異性愛やそれにまつわる制度そのものを何でも否定してしまえる。結局、彼ら彼女らの目的は、婚姻制度の否定というものだと藤岡氏は批判します。フェミニズムが婚姻制度に否定的なのは当ブログでも幾度も指摘してきた通りで、LGBTはやはりそれに強い影響を受けているわけです。
本特集には「ゲイ当事者」として松浦大悟氏も寄稿しています。
こうした場合に揉めている両勢力が「当事者様のお声」を恭しく拝聴するスタイル、ぼくは好きになれまぜん。表現の自由クラスタが「女性様のお声」と称してフェミニスト様のお言葉を拝聴するとか、被爆者差別と騒がれた『ウルトラセブン』第12話の擁護論を載せた『朝日新聞』が(作品に肯定的なことを言ってくれる)被爆者の声を聞きに行くとか。そういうのって何だか、母親を自称する二人の女性が小さな子供の手を左右から引っ張っているみたいで嫌らしいと感じてしまうのですが、まあ、だからといって「当事者は発言するな」とも言えません。
それと実はこの松浦、ツイッター上でぼくをブロックしているクソ野郎なのですが(最近、このトピック関連でツイッターを見て回っていて気づいたのですが、ぼく自身はこの人とやりあった記憶が丸っきりありません)、少なくともここで展開された主張は冷静なものであり、頷ける点が多いと感じました。
彼も杉田氏を全面擁護というわけではなく、自治体が実施している同性パートナーシップ証明書にはほとんど予算がかかっていないと反論。ただし、復興庁がやろうとしている「LGBTツーリズム」などは好ましくないと批判しています。
「LGBT差別解消法案」の野党案にはLGBTについてサベツ的なモノは観念すらも除去するとの記述があるそうで、彼はこれに対してまさに人々の内面にまで行政が口を出すことになり、賛成できないと指摘します。これでは『サザエさん』も問題になると。これはまさに正論であり、逆に言うならば「人の内面を改造すること」を主目的とするフェミニストが杉田氏を批判せずにおかないのは当たり前、としか言いようがありません。
もっともこの松浦氏、一方では国際レズビアン・ゲイ協会がNAMBLAを斬り捨てたことを批判しています。NAMBLAというのは北米少年愛者協会という、大人と子供のセックスの合法化を目的とする集団で、こんな連中を仲間にしちゃいけないのは当たり前としか言いようがありません。やっぱ松浦、クソだな!
「かずと」という人は尾辻かな子議員について採り挙げています。尾辻師匠が杉田氏の記事を曲解したことがバッシングのきっかけであったらしく、かずと氏は同性愛者としてかつては尾辻師匠に心酔していたが、今回の件には賛成できないとして、師匠が杉田氏にツイッターで論破されている(質問に答えようとしない)ことを指摘しています。
あなたはLGBTに税金を投入する必要がないことが分かっているからです。LGBTの中でも本当に支援が必要なのはTの中の一部の方だけと分かっている。
そう、このTこそが、言わばLGBTの稼ぎ頭であったのです。
『月刊マガジン』など『進撃』が売れてるので採算が取れるのであって、他の漫画など全然人気がなく、『進撃』が終わればいっぺんでつぶれる……言わばTこそが『進撃』であるとの指摘です。こうなると前回ご紹介した杉田氏の「LGBTの中のTだけは支援が考えられる」という指摘が、いよいよ重要な意味を持って来ますね。
また、尾辻師匠は「LGBT政策情報センター」の代表理事をお務めだそうで、こうなるとやはり、LGBTは結構な利権のタネであることがわかります。
後は潮匡人氏の「ニュースウォッチ9」の報道への批判が目を引くでしょうか。何しろこの番組では、杉田氏を植松聖に準えて糾弾するというすさまじさだったと言います。もし「休刊」にするべきメディアがあるとしたら、どっちかといえばこっちじゃないでしょうかね。
――さて、いよいよ本丸、最後に取っておいたメインディッシュです。
ネットでも悪評紛々の小川榮太郎氏。
氏の記事のタイトルは「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」。リード文は「LGBTの問題など、国家や政治が反応すべき主題ではない。/文学的な、つまりは個人的、人生的な主題なのだ。」というもの。
実のところ、ここでもう、評価は出たようなものです。これは杉田氏の主張の中でもぼくが評価した箇所、つまり前回記事で述べた箇所を極めて的確にまとめていると言えます。ここで「小川は正義、終わり!」でもいいくらいだ……と言いたいところなのですが、ただ、ちょっと表現に棘がありすぎる気はしますし、記事本文を見ると、いよいよその感を強くします。
例えば、彼は「性的なことは公にはつまびらかにするな」と主張するのですが、それはいささかお堅いでしょう。そういうのをつまびらかにすることが必要な局面もあるでしょうし、その上で「しかし政治の問題じゃないよな」と批判することこそが、正しい手続きであるべきです。小川氏の主張はいささか乱暴に表現すれば「LGBTはモノを言うな!」とまとめてしまうことができ、それでは杉田氏をバッシングした連中と同じレベルにまで堕ちてしまいます。
見ていくと彼は「性的嗜好」をLGBTと称すること、その上でそれを前提とした議論をすること自体を否定するとまで言っています。彼は「階級闘争」というロジック自体を否定しており、「知らんけどLGBTもマルクスの手先に決まっているから否定する(大意)」と主張します。
いや、まあ、結論としては間違っていないけど、でもその言い方はどうなんだ、という感じです。
「異性愛から同性愛に、人生のある時期で変わる者もいる。だからこそLGBTなどというカテゴライズ自体が人性への冒涜である(大意)」との主張もあり、まあ、言いたいことはわからないでもないけどちょっと舌足らず、という感です(ちなみに「人性」はママ。「人のセクシュアリティ」の意でしょうか)。
小川氏はご存じないかもしれませんが、近年(って、LGBT自体が近年の造語ですが)、LGBTの後ろにいろんなアルファベットがつく傾向にあることは、前回の記事でも指摘しました。そこにはLGBTが「弱者の王」として不動の地位を誇り、そこにいろんな人たちが「仲間にして」と群がっている切ない光景があまりにも生々しく映し出されていました。小川氏は恐らく、それと同様に「LGBTを特権化すること自体がけしからぬ(そしてまた、逆にLGBTのケツに無限にアルファベットをつなげることをよしとするなら、それこそキリがない)」との、杉田氏もしていた指摘をしようとしているのではないか、と思います。
後は性別と性的指向を混同したりと乱暴さも目立ち、正直、「炎上した事件を丸く収めるために出してきた記事」としてはちょっと、消防車が町に火を放っている感はある。
しかし、それも含めて、敢えて言えば小川氏の記事は「普通の日本人」の感覚をうまい具合にすくい取っていると思うのです。
リベ様は保守派が「普通の日本人」と口にすると、鬼の首を取ったように発狂します。正直、その時の彼ら彼女らの心情、ないし言い分はよくわかりません。想像ですが、「お前たちが普通の日本人などであるものか」「普通の者たちこそが、マイノリティを虐げているのだ」といった心情が、そこには働いているのではないかと思います。
しかし、(この二つが既に矛盾した両立しないものであることはまあ、置くとしても)彼らはことに近年、「日本の右傾化」に心を痛めていらっしゃるのですから、前者は論理的矛盾がありますし、また後者は字面だけを見れば正論ですが、しかしトランプ現象などを見ても、そこには「捨て置かれ続けて来た中間層に対する冷酷さ」が隠れています。
本件に限らず、LGBT関連の騒動ではLGBT当事者、或いはその理解者を自称するリベ様の、「無知蒙昧な大衆」に対する傲慢不遜な「啓蒙」という側面が常々、必ず、絶対、つきまといます。「性的嗜好」と「性的指向」は違うの何のという物言いはその好例ですね。
小川氏の敢えて無知をさらけ出すスタイルは、敢えていえばLGBTが「トリビア棒」でこちらに殴りかかってくることへのカウンターになっているとも言えましょう。いえ、すみません、ちょっとさすがに無理矢理な擁護ですが。
しかし、前回LGBTの「イキり」ぶりを「『仮面ライダー』の怪人の名前を並べてドヤってるみたい」と形容しましたが、本当に(悪い意味で)オタク的なんですね、あの人たちのトリビア。それは「LGBTのケツのアルファベット」問題同様、「普通の日本人」には「キリねーじゃん、そんなの」という感想以外の何物も呼び起こしません。
前回も書いたようにLGBTはある種の暗黒大陸でした。その暗黒大陸を担保に彼ら彼女らは一般ピープルを畏怖させ、そしてまた自分たちだけが暗黒大陸の住民との通訳ができるのだと主張することで、利を得ようとしました。彼ら彼女らは「トリビア棒」をまるで至高の価値を持つかのように振り回します。しかし、特撮オタクが振り回していた「幻の名作」が次々とDVD化されることで「意外にしょぼい」とバレてきたのと全く同じに(評論家などが持ち上げてきた「幻の名作」がソフト化され、いざ観てみると鬼のようにつまらない、というのは一時期の特撮オタクあるあるでした)、暗黒大陸はもはや、価値を持ってはいません。そもそもあくまでマイノリティである以上、数は期待できませんし(だからLGBTは自分たちが隠れたるマジョリティであるかのように自己演出し続けてきました)、今となっては「Xトイレを作れ」といった「キリねーじゃん、そんなの」どころか「勘弁してくれ、俺はパンを買うカネもねーんだ」な要求ばかり。
その意味で、小川氏がホモの芸術家の名前を挙げて、ホモの才能を称揚するのは賛成できません。それこそ前回に指摘した「ホモには才能のあるものが多い(から、生産性があるのだ)」という主張と全く同じだからです。
つまり小川氏の今回の「無知」ぶりに価値があるとすれば、それはまさに「トリビア棒」に対する「キリねーじゃん」との「普通の日本人」の声を放って見せた点にあると言えるのです。
それはみなさんもネットで見聞したであろう、今回一番の突っ込みどころとなった例の箇所についても同じことが言えます。
そう、SMAGについてです。
これ、「スマッグ」っていうんでしょうかね、どうでもいいけど。
要するにサドマゾとアナルマニア、そして痴漢の略だそうです。
「SMAGの人権を守れ、バカにする者はレイシストだ!!」というわけです。これ、ぼくの「スカトロマニアの人権を守れ!」というネタとほぼ同じですよね。そう言ってみせることで、LGBTを「相対化」してみせるという作戦です。ネット上の反応をちらちら見る限り、LGBTやリベ様がこの箇所に狂ったような怒りを炸裂させておりましたが、それは大変に示唆的です。
もっとも、そうは言っても、ここは非常にまずい部分でもあります。何しろ小川氏は「痴漢症候群の者が女を触る権利を認めよ」という言い方をしているのですから。
「犯罪を幇助しやがって」と言われたら、それは反論がしにくい。
「フェミニストだって少年愛者が小学生の子供とセックスすることを肯定しているではないか」との反論も想定し得ますが、そうした指摘する者は恫喝に遭い、事実は隠蔽されているのが現状です。
いえ、更に言うなら、小川氏は彼らに「痴漢症候群」との名前を与えて、「彼らは自分の意志ではどうにもならず、女性のおしりを触ってしまう者である」と規定しています。確かに痴漢症候群(という言葉もないことでしょうが、仮にそれがあるとして)の者が自分の意志ではどうにもならない衝動を抱えているとしたら、それは糾弾ではなく治療の対象です。その意味で犯罪者には違いがないけれど、ニュアンスは異なってくる。
ただ、一方それをLGBTに準えるのは、差別……ではありませんが(仮にLGBT側が差別だと言い募ったとしたら、彼ら彼女らが病者を差別している、という理屈になりましょう)、いずれにせよ「自己の衝動を抑えきれないような病者を持ち出すのは比喩として成り立っていない」との反論は考え得る。
ここは(敢えてギャグに持っていき)国家が痴漢プレイイメクラを経営し、彼らに無償で提供せよ、とでも言うべきであったでしょう。まあ、それだって「ホモも男を世話しろとまでは言っていないぞ」との反論も成り立ち得ますが、突っ込みどころは少なくなる。
或いは、ペドファイルをLGBTに加えLGBTPにしたがっている人たちのロジックを借用する方法もあったことでしょう。「痴漢症候群を差別するのはまかりならぬ、(実際に)痴漢(行為を犯した者)と痴漢症候群患者は別、前者はモレスター(加害者)、後者は清浄で清廉なるセクシャルマイノリティなり」と。
或いはまた、それこそぼくの持ちネタのように「スカトロマニア」を持ち出してもいいかもしれません。事実、これを持ち出されたリベ様は狂ったように発狂します(強調表現)。自分たちは清廉で清浄なセクシャルマイノリティの理解者のふりをしているのに、汚らしい変質者の話を持ち出すとはけしからぬ、と。
小川氏の言は雑に過ぎましたが、LGBTのケツにに痴漢症候群の「G」なり、ペドファイルの「P」なり、スカトロマニアの「S」なりをくっつけると、台なしになるということを示して見せようとはした。そのことの意味を、ぼくたちはもう少し考えなければならないのですね。
……はい、というわけで考えてみました。
ぼくがいつも言う通り、LGBTは「名誉女性」です。
まあ、Lは違いますが(この一番目立たないLが一番頭にあるの、何故なんでしょうね)GBTは「女性ジェンダーを持つが、しかし女性と認められない、二級女性」です。GBが果たして女性ジェンダーの主と言っていいのかはわかりかねますが、実際のところフェミニズムにおける彼らの扱いは「二級女性」とでもいったものです。彼女らが彼らを清浄で清廉なるセクシャルマイノリティであると規定しているのは、彼らが女性に性被害を与えないからであり、男性や児童への被害はどうでもいいのですね。逆に女性に害を与え得る「G」や「P」や「S」がLGBTの仲間入りをすることは未来永劫、ないのです。
そしてこれはまた、頭でっかちなインテリのコンプレックスをいたく刺激します。彼らのGBTへの崇拝ぶりは病的というしかない域ですが、これは逆に言うならばエロゲに登場する男性主人公が基本、草食系なのと同じ、実のところ男性には(ましてやインテリ層やオタク層には)「女性に加害すること」への極度な罪悪感、畏れがそもそも非常に根深く存在している、ということなのです。
小川氏は「性の問題はそもそも後ろめたいものだ」と指摘していますが、LGBTは「後ろめたい兵器」としてフェミニズムに運用されていたのです。更に言えばその意味でLGBTは「(女性に性的加害を行わないので)後ろめたくない」ものであると彼女ら、及びリベラル男性たちには認識されているわけなのです。
LGBTの望みは、「普通の人とは違う後ろめたさを何とかしたい」というものでしたが、それは小川氏の言うように政治で解消できるものではない。しかしそこをヘテロセクシャル男性の「後ろめたさ」を突いて攻撃する兵器として、フェミニズムに利用されてしまったのです。つまり、フェミニズムのLGBTの兵器利用は、そもそもLGBTの心情を最初っから、残忍極まる形で踏みにじっているものだったのですね。
ぼくが(市井の一人ひとりに対してはともかく、運動家としての)LGBTに対して、そして彼ら彼女らに同調的な人たちを全く評価できないと考えるわけは、もうおわかりでしょう。
小川氏の主張はそこを突く、極めて可能性に満ちたものでしたが、その端々がいささか軽率ではあった。
とはいえ、彼の主張は「公私を分けよ」との一点に集約され、そこは頷ける。
――といった辺りがまあ、ぼくの本特集に対する評価になりましょうか。
いずれにせよ気に入らない雑誌を休刊に追い込むというリベ様のやり口は肯定できませんが、こうして見るとむしろこうまで強硬手段に出ざるをえないほど、『新潮45』の特集は彼ら彼女らにとってヤバいものであったのです。
実は本特集への反論に対しても多少、触れておくつもりでしたが、ここまでで結構な文字数になりました。
あまり時間もないのですが、できれば次回、それについて扱ってみたいと思います。