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フェミニズムとは『チャージマン研!』である(再)
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フェミニズムとは『チャージマン研!』である(再)

2020-05-15 20:27
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     ※この記事は、およそ9分で読めます※

     ――さて、相変わらずOCNブログ時代の、九年前の記事の再掲となります。
     前回記事との直接の関連性はないのですが、前回記事に言及され、まあ、価値観のパラダイムシフトがどうのこうのといった話題であり、ご興味がありましたら、ということで。
    『パーマン』動画でも本作について言及されており、正義というもの(これは実のところ「男性」と同義なのですが)に対する価値観の移り変わりを考える上では、結構重要な作品だと思うのですね。
     再掲に当たり、理解しにくい時事ネタなどリライトを行っておりますが、基本は元の記事と同じです。
     では、そういうことで……。

    *     *     *

     ぼくは時々、「オタク差別/男性差別」という言葉があまり好きではない、といった主旨のことを言うかと思います。ちょっとこの辺りのぼくの考えを、まとめておきたいと思います(ちなみにぼくは「男性差別」≒「オタク差別」と考えるので、本稿においては専ら「男性差別」を論考の対象とします)。
     ここしばらく、少なくともネットの世界では「男性差別」という表現がよく聞かれるようになってきました。しかし拙著において、当ブログにおいてぼくはその言葉をほとんど使用せず、代わるタームとして「女性災害/女災」という造語をでっち上げ、それを人口に膾炙させようとしました。「男性差別」という言葉がある程度普及したものである以上、それを戦略的にうまく利用するという選択もあったのですが、やはりそうしたくはなかったのです。
     それは、何故か。

     単純に感情的な反発があったことも、事実です。「差別」という言葉にはあまりにも手垢がつきすぎて、何だか薄汚いものに見えることは確かですから。
     要は今の社会において「差別」とは俗に、どう把握されているか、です。ぼくたちが現代の日本で「差別」と聞いた時、何を真っ先に思い出すでしょう。
     人によっても違いましょうが、「何でもかんでも『差別』扱いする小うるさい人たち」を連想し、あまりいい印象を持てない人たちも多いのではないでしょうか。つまり、『オバケのQ太郎』で黒人問題に抵触したとされる「国際オバケ連合」や『怪奇大作戦』で精神障害者犯罪を扱った「狂鬼人間」などを封印した悪者たちの使う「攻撃呪文」といったイメージですね。ここでは「差別」という言葉を用いる人たちは「表現の自由」という絶対正義に刃向かう悪者でしかありません。
     ただ、この種の問題では「差別」という盲目的な攻撃呪文に「表現の自由」というこれも盲目的な攻撃呪文をただ場当たり的にぶつけているだけで、有益な議論というのはいまだかつて一度もなされていないような気もするのですが。お互いにお互いの「正義」をぶつけあい、お互いにお互いを「対話が成り立たない病者だ」と言い立てあうという、例のおなじみの図式ですね。しかし、そもそも「では彼らの言う『差別』という言葉のどこに欺瞞があるのか」といった問題に足を踏み入れた人は、今までほとんどいないように思えます。

     身体障害者差別という時、「身体障害者は弱者である」という価値観が、あらかじめその言葉に織り込まれています。
     身体障害者でも、ものすごい金持ちで権力を持っている人だっているはずだけれども、「身体障害者差別」といった時、即座に「障害」という(それ自体は確かに自明であり否定できない)弱者性のみがその個人の全属性からすくい取られ、それだけが前面に出てきてしまうことになるのです。ひょっとするとその障害者は、「金持ち」という「障害」以外の属性をもって相手に権力を振るった「加害者」かも知れないのに。或いは逆に、「成績が悪い」という「障害」以外の属性故に入試に落ちただけで、そこに「障害者差別」はなかったかも知れないのに。
     しかし、そうしたケースバイケースを、「障害者差別」という言葉は全て押し隠し、事態を強者対弱者の安易な対立構造に単純化してしまいます(「セクシャルハラスメント」という言葉もこれと全く同じ効果を持った「攻撃呪文」であることは、山崎浩一さんの『男女論』で詳述されていましたね)。
    「差別」がいけないという正論は誰にも否定し得ないものですが、それだけが唯一の正義として盲目的に崇め奉られる社会は必ず、人間を単純な差別者/被差別者、強者/弱者、マジョリティ/マイノリティの二元論で把握する、レイシズム、身分制に陥ってしまいます。
     その意味で現代の日本において、「差別」という言葉は「身分制度を脅かす、絶対に許してはならない下克上、いいえ、差し詰め上克下」という意味しか持ち得ていません。
     つまり、「女性は弱者」という迷信が信じられている社会においては、女性はいついかなる局面でも被差別者でしかないのだから、その意味で「男性差別」というものは原理的にあり得ないのですね。それは丁度、超光速やマイナス一兆度というものがこの世にないのと、全く同じに。
     そんな状況で男性差別解消のために運動を始めたら、そういう時に限って世間は「差別」という言葉に付随する、上に書いたような「うさんくささ」をぼくたちに貼りつけて、否定するという卑劣な作戦に出るのではないでしょうか。

     ――だがちょっと待ってほしい。なるほど、現状では「差別」という言葉にさまざまな欺瞞が貼りついてしまっているかも知れない。しかしならばそうした欺瞞を全て正した上で、「真の差別」としての「男性差別」を解消するため、我々は運動するべきではないのか?

     確かに、それも一つの手でしょう。
     しかしぼくとしては、手垢にまみれてしまった「差別」概念、というかその差別概念に振り回されているぼくたちの現状そのものから距離を置いて、もう少し冷静になってみることの方が大事ではないかと思うのです。
     ぼくたちは、上に書いたように「黒人差別」という大義名分を振りかざして『オバQ』や『怪奇大作戦』を封印してしまった人たちを憎みます。しかしそうした人々を批判する時に決まって口にしてしまうのは、「ヤツらは黒人/障害者でもないくせに勝手なリクツを振りかざす偽善者だ」と言った論法です。しかしこのリクツでは、これはいざ黒人本人がその当事者性という武器を持ってぼくたちの前に現れたら、何も言い返せなくなってしまう、ということになります。即ち、実はぼくたちもそうした「偽善者たち」と五十歩百歩で、現代の「差別」観の中にどっぷりと浸かってしまっているわけです。

     さて、ちょっと話が飛びます。
    『チャージマン研!』をご存じでしょうか。四十年近くの昔に放映されたSFヒーローアニメなのですが、そのチープさがニコニコ動画などで紹介されることで、一種キワモノ的なブームを巻き起こしました。
    『チャー研』の魅力は何と言っても悪を倒すためなら多少の犠牲は厭わぬその正義感です。敵に爆弾を埋め込まれた罪もない博士を、救おうともせず容赦なく敵の基地に投下して基地を誘爆させて勝利したりしますし、敵に「殺してやる」と言われると「それはぼくの言う台詞だ」と返したりもします。  しかし、よく考えてみればニコ動に「鬼畜ヒーローシリーズ」というタグがあることからもわかるように(そしてそのカテゴライズを受けている作品が作られた年代を調べてみればわかるように)、そうした正義感は70年代、日本が冷戦構造化にあった時期にはさほどおかしなものではなかったわけです。事実、一般的には名作とされている『遊星からの物体X』(1951年版)は現れた異星人が何もしないうちから、ただひたすら攻撃するという作品でした。
     むろん、70年代でも例えば円谷作品などはヒーローの正義にアンチテーゼをぶつけるドラマを描いて名作となりましたが、今の作品に比べてヒーローたちが自らの正義について悩むことは格段に少なかったように思います。
     ひるがえって今のロボット物、ヒーロー物が爽快感に欠けるのは敵をやっつけることに主人公が悩んでしまう、悩まざるを得ないからなのですが、しかしそうした「深み」をもってただちに「今の作品の方が昔の作品よりも優れている」と考えていいかとなると、ちょっと疑問です。
    『ウルトラマンコスモス』は2001年制作の「怪獣保護」をテーマとしたウルトラシリーズですが、そもそもが脅威の対象であり人間との共存が難しい異物である怪獣と、とにもかくにも共存すべきと主張する主人公たちを正義として描いてしまい、反対派を露骨に悪者として描くスタンスは極めて奇妙なものがありました。
     むろん、ここでぼくは『チャージマン研!』を「敵をやっつける」という価値観に貫かれていたという理由から高く評価するつもりはありませんし、また『ウルトラマンコスモス』の作品としての描写のまずさを理由に「異物との共存」という価値観を全否定するつもりもありません。
     ただ、クオリティがイマイチな作品群に、その時代の価値観への盲目的な追従が見て取れる、そこからそうした「絶対的価値観」の綻びが見て取れるように思うのです(事実、「鬼畜ヒーロー」の多くがクオリティが高いとは言いにくい五分間番組ですよね)。
     ある意味でフェミニズムもこれと同様かと思います。
     今の世の中において「男性差別」に憤る層というのは残念ながら、あまり多くはないことでしょうが、しかし「女性差別」に憤るフェミニストたちをうさんくさいもの、或いは古くさいものと感じている層は決して少なくないはずです。
    「差別反対」と言われてしまっては誰も否定できない、しかし今時「女性」が「差別、差別」と言い立てなければならないほどの弱者であり、マイノリティだろうか……? という疑問が、そこにはあるのですね。
     言わばフェミニズムはぼくたちの「差別反対」社会に生まれた綻びです。
     ある意味で、フェミニズムは『チャージマン研!』になってしまっているのです。
     しかしそこで即、「男性差別」にたいする異議申し立てをしてしまっては、(仮にその主張が100%正しかったとしても)フェミニズム以上に支持を得られにくい。下手をすると『チャー研』以上のキワモノ扱いを受け兼ねないわけです。『ハヌマーンと5人の仮面ライダー』なんかがニコ動にアップされてしまったら、さすがに『チャー研』の再生数の伸びも翳りが生じてしまい兼ねません。
     それならば、下手に「差別」概念、既製品の「正義」に乗っかるよりはその欺瞞を解体した方がいい。
     むしろ「女性差別」に付随するうさんくささを分析し、啓発した方がいいのではないか。
    「女性は災害である」という拙著の、当ブログの命題はそんなところから導き出されたものなのですね。


     上にも書いたように、フェミニズムという「番組」には珠玉の名作が数限りなくあります。
     来年もそうした作品群を紹介していきますので、どうぞよろしく。

     そして、上野博士、お許しください!!

    *     *     *

     ――といったところです。
    『ハヌマーンと5人の仮面ライダー』は当時から多分、わからない人が多かったかと思うのですが、要は『チャー研』以上のキワモノヒーロー作品という一例として名を挙げました。
     もっとも、この「男性差別」に対して憤る論調というのは、当時は少しあったのですが、すっかり見なくなりました。とはいえ、本論自体はいささかたりとも古びてないと言えるのではないでしょうか。

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