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機動戦士ガンダムSEED(再)
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機動戦士ガンダムSEED(再)

2020-05-08 19:23



     ※この記事は、およそ12分で読めます※

     ――さて、相変わらず
    OCNブログ時代の、九年前の記事の再掲、前回記事の続きとなります。
     前回記事同様、ぼくたちの中の善悪観のようなものが時代によって移り変わってるよね、といった話題なのですが、何とまあ、『SEED』の悪役、ラウ・ル・クルーゼの設定を完全に勘違いしたまま記述しています。
    それについては一応、最後に軽く触れておきますので、まずはご覧ください。
     では、そういうことで……。

    *     *     *

     さて、前回のエントリ、ひょっとするとですが混乱した方がいらっしゃるかも知れません。
     途中まで「なるほど」と思って読んでいたのに、オチのどんでん返しが意味不明だ、そんな感想があったかも知れません。
     そのどんでん返しこそが、ぼくの言いたかったことなのですけれど。
    フェミニズムはチャージマン研である」をあわせて読むと、少しわかりやすいかも知れません。
     ぼくが言いたかったことは、要は違う時代に作られた物語を現代の価値観をそのまま適用して評価を云々することはバカらしい、ということですね。そしてその時重要なのは、必ずしも(それは例えば当時の特撮技術の低さを割り引いて考えようとするように)「当時の価値観を、寛大に割り引いてあげる」ばかりではなく、当時の作品を観ることで、「現代の価値観そのものが絶対性を持つものなのか」にも思いを馳せてみる柔軟さなのだ、ということになるかと思います。
     さて、前回のエントリでも「チャージマン」においても、ぼくは「敵をやっつけるか/受け容れるか」の対立項の中で、話を進めてきました。
     といっても、それはあくまでネタに選んだ作品のテーマに話を準えていたからであって、ここをもう少し「リアル系」な作品をネタに考え直してみるとどうでしょう。
     そう、例えば『ガンダム』を素材にしたとしたら。
     ……と意味ありげに書いておいて何ですが、実はぼくは、『ガンダム』について詳しくありません。以下に偉そうなことをずらずら書き並べ立てますが、まず最初に、それが『スパロボ』基準の知識であるということをお含み置きください。


     ここでしてみたいのはファースト『ガンダム』と『SEED』との対比です。
     言うまでもなくファースト『ガンダム』は富野由悠季監督の作り上げた、日本のアニメの金字塔とも言うべき作品です。『マジンガーZ』に代表される勧善懲悪のアクション活劇であったスーパーロボット物アニメを言わば戦争ドラマとして換骨奪胎し、正義対悪の単純明快な世界観を否定、そしてまた「正義の味方」であることを保証され、敵と戦うことに何ら迷いを見せない熱血漢の主人公を思春期独特の迷いを持つナイーブな少年へと置き換え、人間ドラマを描きました(ただし、この『マジンガー』との対比は永井豪の暴力的な世界観に負うところも大きく、円谷作品にはかつてから地球側の正義に懐疑的な作品もあり、また70年代の特撮ヒーロー物には結構、戦うことに屈折した感情を抱くヒーローが多かったこともお断りしておきます)。
     アニメ界に「思春期」をもたらしたとも言うべき『ガンダム』は登場後、そのエピゴーネンを乱発させ、今に至るまで続編の作られる人気作品となりました。
     さて、そして今世紀を迎え、言わばファースト『ガンダム』のリメイクとも言うべき形で作られたのが『ガンダムSEED』です。これはファーストとは世界観を異にし、また監督もファーストとは異なる、言わば新世紀版のファーストを目指して制作された、「アナザーガンダム」とも言うべき作品でした。
     そしてまた、本作は昔からの『ガンダム』ファンに、殊更に評判の悪い作品でもあります。ある意味では平成『仮面ライダー』同様、あまりにも腐女子に媚びたイケメン重視のキャラクターが煙たがられている面もあるようですが、必ずしもそればかりではなく、ストーリー展開や演出などにもかなりまずい点があったようです。そのため、『スパロボ』に『SEED』参戦が決まった時には、ファンのブーイングの嵐になりました。
     ところが。
     いざプレイしてみると――すみません、あくまでゲーム、『第3次スーパーロボット大戦α』をプレイした限りの感想ですが――『SEED』のシナリオ、ぼくはなかなか面白いと感じたのです。
     上にも書いたように『SEED』はファーストのリメイクであり、本家のモチーフを多分に継承しています。地球連邦とコロニーとの戦争といったモチーフもそうであり、そしてまた作中に「新人類」とも言うべき「コーディネーター」という存在が登場することもそうでしょう。
     ところが、この設定はファーストにおける「新人類」、即ち「ニュータイプ」とは全く意味あいが違うのです。
     ファースト、そしてその正統な続編である『Z』『ZZ』などといった作品のキーとなる「ニュータイプ」とは、他人と交感する能力を持つ、「古い地球人」とは異なる優れた新人類です。その能力はエゴイズムやレイシズムを乗り越え、人と人とを繋ぐ希望とも言うべきものであったはずが、しかしロボットのパイロットとしても有効利用ができるため、軍にまるで兵器のように利用されるという、両義的な存在。
     しかしここに、ぼくはちょっとした引っかかりを、覚えないでもないのです。
     リアル系の元祖であり、「勧善懲悪を廃した」と評される『ガンダム』ですが、しかし「ニュータイプ」という概念は、実のところ無批判に聖性を持った善なる者、ある種、わかりやすい「善なる被害者」「聖なるマイノリティ」として描かれているのです。作中ではニュータイプ能力に目覚めていない「古い地球人」は「オールドタイプ」と呼ばれ、ここからは明らかに「ニューエイジ」思想の影響が見て取れます。
     そして、富野監督自身ではなく若い世代のクリエイターたちがこのファーストの世界観(宇宙世紀)に則った作品を描くと、皮肉なことに決まって「ニュータイプ/オールドタイプ」の違いなど意味はない、俺たちは同じ人間だ、みたいなオチがつくことが多いように思えます(あれ? 『ZZ』もそうだっけ?)。
     ここには、イデオロギーや国家と言った文脈での善悪を否定しつつ、しかし実のところ「マイノリティは、弱者は無批判に善なる者なのだ」という、言ってみれば「今風の善悪基準」が取り入れられている、考えようによっては「安易な善悪二元論」が、見て取れなくもないのです。
     ところが、『SEED』はそうではありません。
    「コーディネーター」というのはDNAを操作することによって人為的に作られた、優れた能力を持った新人類です。DNA操作を行われない旧人類は、対比して「ナチュラル」と呼ばれています。『SEED』において描かれるのは、「コーディネーター」と「ナチュラル」の世代間闘争であり、人種間戦争です(この両義性がニュータイプ/オールドタイプと同様であることに留意)。
     しかし本作において、「コーディネーター」は「優れた能力を持つが、それ故に差別と偏見に晒される聖者」であると同時に、「優れた能力を鼻にかけ、旧人類を見下す悪者」としても描かれるのです。同様に「ナチュラル」も「強者に虐げられる被害者」であると同時に、「マイノリティである新人類を気持ちの悪い異物として排除しようとする差別者」でもあります。
     いや、ぼくの乏しい知識では何とも言い難いのですが、マジョリティ/マイノリティをそのまま強者/弱者へとスライドさせる幼稚な二元論をここまでストレートに廃して見せた作品って珍しいのではないでしょうか。
     この一点をもって、ぼくはある意味、『SEED』が極めて優れた、ある意味ではファースト『ガンダム』を超えた構造を持ち得た作品であるように思うのです。
     むろん、これはあくまでアニメ作品の一要素についてのみの評価であり、ぼくはそもそもアニメそのものを観たことがないわけですから、ここで『SEED』がファースト『ガンダム』よりも全面的に優れているのだ、と主張したいわけではありません。ただ、『SEED』の方が「より先を行った人間観」をこの一点においては持っているのだ、と言いたいのです。
    (ちょっと混乱があるかも知れませんので、ここで簡単に補足。旧ドラと新ドラについては、ぼくは両者の「タカ派の世界観」も「ハト派の世界観」もどちらも否定できないものであると考えています。ただ、ファーストと『SEED』についてはその「マイノリティ」観のみをすくい取ってみれば、明らかに後者が優れていると、ぼくは考えます)


     さて、ではどうしてここまで『SEED』は優れた作品たり得たのでしょう?
     やや乱暴ですが、ぼくには「ラウ・ル・クルーゼ」がその謎を解く鍵を持っているような気がするのです。
     さて、以下はラウ・ル・クルーゼについてのネタバレになります。今時いらっしゃらないとは思うのですが、知りたくない方はお読みにならないように。
     このラウ・ル・クルーゼは言ってみればコーディネーター側のボスキャラです。明らかにシャアを意識した仮面をつけており、初めて見た時は何だかパチモンキャラのように思え、意味もなく笑ってしまいましたが。しかし彼はコーディネーター第一号であり、優れた能力を与えられて生まれてきたものの、プロトタイプであったがため肉体は急速に老化し、寿命が異常に短いという宿命を背負っていました。そのため、彼は全てを憎むようになったのです。『スパロボ』のクルーゼ戦において、「世界を滅ぼす権利が、私にはあるのだよ!」という特殊ゼリフを叫びながら攻撃してくる様は圧巻でした。
     即ち、冷戦時代には「大きな物語」が生きていた。だから悪者は「何か、ナチスの手先」「何か、共産圏っぽい全体主義国家」にしておけば、こと足りた。
     しかし「大きな物語が終焉」を迎え、ある種、悪者は個人的なルサンチマンで動かざるを得なくなった(シャアはまだしも大義名分を信じていたと思いますが、やはり若手のクリエイターの作り出した『クロスボーンガンダム』でも、ラスボスが大義名分をかなぐり捨て、個人としての呪詛を吐き出す場面があり、象徴的に感じました)。
     即ち公から個の時代に向かうにつれ、創作の世界でも専ら人間の内面へとカメラアイが向かうようになったわけです。敵と戦う理由の見つからないシンジ君の話はその最たるものでした。
     しかしそうなると悪者の行動の源泉も内面に求められざるを得ない。そこで(それこそ「貧困」などにはリアリティを感じられない以上)虐げられた者の疎外感、それ故のルサンチマンといったものが悪者のモチベーションとして選択されることはある種、必然でした。何となれば、今の世の中で一番、価値を持っていることは「平等」、なのですから、そこから外されることが一番非人道的な扱いである、というのが今の世の中のルールだからです。
     即ち、『SEED』を例に採るとするならば、その悪役側の設定は以下のような経緯で作られたことが想像できるのです。


    1.悪者のモチベーションを「マイノリティとしてのルサンチマン」というものにしよう。
     ↓
    2.でも、黒人などの「ホンモノのマイノリティ」って出せないよな。
     ↓
    3.登場するマイノリティはコーディネーターなどといったSF的な創作物にするしかない。言わば、架空の「非実在弱者」「人工弱者」を生み出さざるを得ない。
     ↓
    4.更に、カメラアイが個人の感情へと向かう以上、「非実在弱者」の口を突いて語られるルサンチマンも必然的に作り手の主観を反映させた、ある種のリアリティを持ったものになる。それこそ「寿命の短い人間として生み出された」といった設定上は非現実的なものであれど、そこで吐露される感情それ自体は「もっと生きたい」であるとか「(マイノリティではなく)みんなと同じ存在になりたい」とかいった、ある種、「了解可能な感情」に、必然的になってしまう。


     これは、誤解を恐れずに言ってしまえば「マイノリティの、マイノリティ性のチャラ化」「マイノリティ性の平等化」です。
     つまりこうした創作物は必然的に、「マイノリティの苦悩、苦しみは時に『悪』を生み出す。しかしその内面は、ぼくたちマジョリティである人々にも了解可能なものだよ」とのメッセージを、発することになってしまったわけです。
     これは大変なことだと、ぼくは思います。
     マイノリティの聖化は、まさにマイノリティの不可侵性、マイノリティのマイノリティ故の特権性に依ったものだからです。
     だからマイノリティの弱者性をイデオロギーに利用しようとする者は、口先では「マイノリティも我々と何ら変わることのない、同じ人間だ」と主張しますが、実はそんなことは、全く信じてはいません。
     これが例えばですが、実在弱者を取り扱った小説であればどうでしょう。白人が黒人問題を扱った小説を書くとしたらかなり神経質にならざるを得ず、一歩退いたものにならざるを得ないのではないでしょうか。女性が書いた小説は、まさに「女性が書いたこと」自体がある程度その価値を保証していることは、みなさんが実はお気づきになっている通りです。
     ここでオタク文化はSFやファンタジーと言った手法をもって、言わばそうした人権ファシズムを打破したのだ――とか言い出したら、言い過ぎでしょうか?
     前回、ぼくはとある漫画家さんの劇場版『ドラえもん』評に対して大いに噛みつきました。それは「評論」という「世間のお約束に添った言葉」を語ることがいかに作品の持つ生命力を殺していくかを実感し、憤懣やる方なかったからです。
     しかし今回ここでぼくが提示した『SEED』の例は、仮に作品としての完成度そのものは高くなくとも、そして仮に作り手が意識していなくとも、創作というのは時として、現代の硬直した「お約束」をいとも簡単に打破する力を見せるのだという一例と言っていいかと思うわけです。
     さて、今回も結論部分はいささか駆け足になってしまいました。
     正直、ここを詳しく書くのは大変なので、どうしても「ちょっとずつ」になってしまうと思うのですが、今回はこの辺で。


    *     *     *

     ――といったところです。
     後半の「フィクションが、左派的な人権ビジネスに風穴を開けた」という指摘は今読んでもなかなか斬新ですが、これはちょっとフライングというか、随分と先走った結論だとも思います。
     ひとまずは「優れた創作は、下らぬイデオロギーに穴を開ける力を秘めている」といった理解をしていただければ充分かと思います。
     さて、前書きにも書いたように、しかし本稿でのラウ・ル・クルーゼの説明は間違っていますw
     一応、コーディネーター側のエラい人なんですが、この人自身はナチュラルであり、ただ、クローン人間であるがために寿命が短いということなんですね。
     何かもう、ややこしい設定でよくわかりません……。

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