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男子問題の時代?(再)
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男子問題の時代?(再)

2020-12-18 20:01
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    ※この記事は、およそ19分で読めます※

     前回同様、動画の補足とも言える記事の再掲企画です。



     今回は動画中で扱った、多賀太師匠の著作を採り挙げさせていただきます。児童虐待としか思えないような「ジェンダーフリー教育」の実態が書かれている本とのことで引用したのですが、さて、もうちょっと詳しく見ると、いかなる内容のものでしょうか……?
     ――実のところ、『ダンガンロンパ3』というアニメ(ゲームではなく、あくまでそれの派生作品)を元にしているため、今見るとちょっとわかりにくいネタなど多いのですが……。

    ゲンロンデンパ3 THE END OF フェミヶ丘学園 未来編

     ――ぼくは怒シンジ(声:緒方恵美)。元・超高校級の不運。
     フェミヶ丘学園の学園長・フェミクマ(声:TARAKO)に拉致され、ミサンドリアイ学園生活を強要された、生き残りの一人だ。
     ぼくたち超高校級の生徒たちをフェミ裁判で殺し続けた黒幕の正体は超高校級のフェミ・羅路府恵美子(らじふえみこ・声:豊口めぐみ)であった。
     羅路府を倒したぼくたちは、フェミヶ丘学園の卒業生で構成される「男性機関」に所属、フェミに崩壊させられた世界の再建に従事していた。そう、我らが男性機関は「絶望」そのものであるフェミに対抗する、「希望」の象徴だ。
     だが……再びフェミクマは姿を現した。ぼくたちは腕にバングルを填められ、またしてもデスゲームに参加させられる羽目に陥った。
     バングルには「NG行動」が設定され、それに反する行動を取った者は殺される。また、ぼくたちの中には「裏切り者」が紛れているため、仮に「NG行動」に反しなくとも、寝ている間に一人ひとり殺されていく。
    「裏切り者」を見つけ出さない限り、ぼくたちは死を迎えることになってしまうのだ――。

    ???「裏切り者の正体は自明だ!」
     そう言うのは男性機関副会長、そして元・超高校級の男性学者だった乙許斐方郎(おとこのみかたろう・声:森川智之)。
    乙許斐「男性機関はラディカルフェミニズムの魔の手から人々を守る、人類の希望。しかしそんな中、ジェンダーフリーによる男性解放に反対している者がいる。そいつが裏切り者なのは、考えるまでもないことだ!」
     乙許斐がぼくを睨みつける。彼は反ジェンダーフリー派であるぼくを処刑せよとの、強硬派のトップなのだ。
    シンジ「……………」
    乙許斐「ジェンダーフリーに反対するということは男性差別を許容するということ。即ち、ラディカルフェミニズムの手先だ!!」
    シンジ「それは違うよ!!
    乙許斐「どこが違うんだ?」
    シンジ「乙許斐さんの意見には、大きく言って二つの間違いがあります。ラディカルフェミニズムという言葉に対する認識と、そしてジェンダーフリーが男性差別を解消する思想だと信じている点」
    乙許斐「何だと!?」
    シンジ「ラディカルフェミニズムという言葉の誤認については、多くを繰り返す余裕がないけど*1、大ざっぱに言えば、ジェンダーフリーを推進しようとする思想、と言っていいんです。つまりぼくが反ジェンダーフリー派である限り、ラディカルフェミニストであるはずはないし、ジェンダーフリー派はむしろ、ラディフェミとこそ親和性があると言わざるを得ないんですよ!」
    乙許斐「見ろ! ジェンダーフリーを否定する怒シンジ、やはりラディフェミの手先だ!」
    シンジ「ひ……人の話は聞かないのか、この人……」
     ぼくはふと、手持ちの本を掲げて見せた。
    シンジ「じゃあ、この本をテキストに説明しましょう。多賀太教授の著した『男子問題の時代?』です」
    ???「それは!?」
     横から弾んだ声を上げたのは、元・超高校級のジェンダーフリー論者・寺園田振子(じえんだふりこ・声:中原麻衣)。
    振子「多賀太教授と言えば、教育社会学者よ! 間違ったことを言うわけがないわね!」
    シンジ「それはどうだろう……例えば多賀は、欧米では学齢期の男児の『男性問題』こそが採り挙げられている、事実女子より男子の方が成績が悪い、と指摘する一方、日本では専ら青年期男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰されると不思議がっているんだ」
    振子「それのどこに問題があるわけ?」
    シンジ「問題というか……要するに第1章におけるこの箇所は、近年の『男性学』を自称する書にお約束の、現代が女尊男卑であるとの世論への反論なんだけど、ここで多賀がしているのは、『それ故、日本の男性優位は揺らいでいないのだ(大意)』という奇妙奇天烈な主張なんだ(20p)」
    振子「はぁ?」
    シンジ「つまり海外と違い、青年期男子について騒ぐだけで、学童期の男子の問題が浮上していないのは日本が男性優位だから、という実に奇妙な主張。だったら海外は女性優位なのか、と聞きたくなるよね」
    振子「そ……それは……」
    シンジ「日本で専ら青年期の男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰される理由、それは明白だ。要するに『男性問題』など、アカデミズム、ジャーナリズムはまともに相手にしていない。数少ない『男性問題』についての書は、彼らフェミニズムの使徒たちが『フェミニズムに逆らうな』『男性性を捨てよ』と若年男性に迫るだけのものだからだよ。
     それとは異なる実際の弱者男性の声は、表には出ず、ネットで見られるのみだ。多賀が兵頭新児の著作を否定的に採り挙げているけれど(15p)、逆に言えば彼の著作が、弱者男性の声が出版物として世に出た、数少ない例外だからだよ」
    振子「そ……それは多賀教授があくまでネットのミソジナスな意見をよしとしないだけよ。それだけで彼を男性の敵だと断言できるの!?」
    シンジ「男性の窮状を男性の自己責任である、とする論調を男性の敵であるとするならば、多賀は明らかに男性の敵だよ。
     23p以降では、男性の経済状況が悪化しているのは女のせいではない、男性側の支配の構造に変化があったのだ(大意)としているけれど、そこに『女は男を養わない』傾向への視点はない。この種の男性学者にありがちな(男性の味方という看板を背負ったが故の困難からの)社会のシステムに全てをおっ被せるやり方だよ。
     田中俊之氏の本にもあったけれど*2、第2章の「男はつらい?」の節ではNHKの番組での幸福度調査で男性の方が幸福を感じていないという調査を持ち出し、それに対して『経済的に優位にあるのは男で云々』と延々言い訳が続く。社会的に権力を握っているのだから不幸でもガマンしろ、と言いたいとしか思えないよ。
     第2章以降も多賀は男がつらいのは優位でいようとするのが悪いのだとのロジックを垂れ流し続ける。47pでは男性の自殺者、過労死者の圧倒的な比率を上げながら、これは男性支配社会から女性支配社会に移行したからではないとし、更にはこれを男の方が女より所得が多いことと表裏一体だと言い募る」
    乙許斐「いや……ちょっと待て! 52pでは男性の方が女性よりも収入が多くとも、上昇の横ばい具合(上の世代と比較すれば、相対的に女性の方が稼いでいる)と扶養責任を求められる風潮から、不満を持つことは理があるとしているぞ!」
    シンジ「でも、その後がよくないですよ。多賀は

     確かに、男性たちが経験するこうした剥奪感自体が、男性の特権意識と表裏一体のものであり、ある種の女性蔑視に基づくものであるともいえよう。
    (同ページ)


     とまで言っている。まるで上野千鶴子のした主張のように、彼は男の生命には何の価値もないと言っているようにしか、ぼくには読めない。しかもその男の所得は、妻が管理しているというのに!」
    振子「ま……待って。そうは言うけど、多賀教授は同ページでこうも言っているわ。

     しかし、個々の男性たちは、社会的真空のなかでそうした特権意識を勝手に作り上げているわけではない。右に述べたように、彼らの意識は、そうした「特権」の獲得を目指す競争から「降りさせない」ための男同士の相互監視にさらされるなかで形成されている。


     また、そうした空気の醸成に女性も一役買ってる、とも指摘しているの。
     更に76pで女性が上昇婚を望む傾向を、指摘してもいるじゃない」

     女性の場合、結婚した人の割合とその人の雇用上の地位との間に関連は見られなかったが、男性の場合、非正規雇用者で結婚した人の割合(12.1%)は正規雇用者で結婚した人の割合(24.0%)の約半分であり、年収が低いと結婚した割合も低い傾向が見られた。


    シンジ「そう、ところどころに、客観的事実に基づいた、論理的な、頷ける指摘が挟み込まれるのが、こうした男性学者たちの著作の特徴だよ。そう考えると、彼ら自身はホンキで男性の味方たろうとしているのかも知れない
     しかし残念なことに、彼らは一方で、フェミニズムの盲信者としてのドグマをどうしても捨てようとしない。だからこそ彼らの主張は、支離滅裂の矛盾に満ちたものとならざるを得ないんだ。
     76pの指摘以降、多賀は『男性社会』がこうした『男性的な価値』に身を染めて成功した『名誉男性』的なキャリアウーマンを味方に引き入れることで男性的な社会を維持しているのだ、と続ける。
     つまりキャリアウーマンは男性的価値観という悪しきものに染められた被害者であり、行く行くは社会を女性的なモノへ変えようという、エコフェミ的な価値観を、彼は持っているんじゃないかと、想像できるんだ*3。男性学者というのは男らしさに非現実的な憎悪を抱く傾向が、大変に強いからね」
     第3章では労働問題について、以下のように述べている。

    もっとも、前章でも確認し、本章でも後に示すように、女性は従来から、労働市場において男性よりも圧倒的に不利な立場に置かれており、現在でもその傾向に変わりはない。したがって、こうした女性の状況に目配りせず、男性の雇用状況の悪化だけをことさら取り立てて問題にすることには慎重でなければならない。
    (62p)


     ぼくには何十年も前から、女性の雇用悪化だけがことさら取り立てて問題にされ続け、対策が取られている気がするけれど。
     もっとも、評価できることもある。3章の最後には、いまだ男に男らしさが求められている現状で男の子に『男らしさ』より『自分らしさ』だ、と説くことは彼を不利に追い込むことになりかねない、と秀逸な指摘がある(82-83p)」
    乙許斐「な……何! 多賀はジェンダーフリーを否定しているのか!?」
    シンジ「ここは重要な指摘です。ジェンダーフリーという机上の理念が、教育の現場でどこまで通用するかについて、多賀は疑問を呈しているんですから。ここを捉え損ねると、仕事のない弱者男性にただ、『働かなくてもいいじゃないか』と言い捨てるだけの、田中俊之レベル*4にまで落ちてしまいますよ」
    乙許斐「許せぬ! 多賀は男の敵だ!!」
    シンジ「心配する必要はありませんね。この問題は掘り下げられることなく、やはり『自分らしさが大切』みたいなことを言って、ささっと逃げるように章が終わっているんですから。自分にとって都合の悪いことは、目立たぬようちょろちょろっと書いて、ささっと逃げる、というのはフェミニズムの教科書のお約束です」
    振子「じゃ……じゃあ、多賀教授は男の味方じゃないって、あなたは言うの?」
    シンジ「そのことは第4章を見ればわかると思う。ここでは教育現場におけるジェンダー教育の方針について、“ジェンダー保守主義”と“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”の三つに分類がなされているんだ。
     ぼくが言うまでもなく想像がつくと思うけれども、まずこのジェンダー規範を尊重しようとする“ジェンダー保守主義”については、憲法に認められた男女平等に反すると一刀両断されているんだ(90p)」
    乙許斐「当然だろう、ジェンダー保守派はジェンダーフリーを否定するんだからな」
    シンジ「ジェンダーフリーが男女平等につながるというロジックには賛成できないし、多賀がマネーなどに言及することもなく、ジェンダーは社会的に作られたのだとの前提で論を進めていることも問題だと思うけれど、それはひとまず置きましょう。
     ここでは更に“異質平等論”という概念が提出されることになる。それはつまり、ジェンダー保守派の『男女の性差、性役割を認めた上での平等』、異質だが平等性が保たれているのだ、との論のこと。しかしそれはすぐに、『組織的意思決定権や経済力を得られるのは職業労働を通してなのだから、そちらに立つ男性の方が権力を持っているのだ(大意)』との反論で切って捨てられる(93p)。あくまで男女は全く同じでなければならない、女性は労働市場に身を投じなければならないとの、ドグマを主張し続けるんだ。
     職場ですらよほど偉くなければ我を通せない一介の労働者よりも、『一家の主』である主婦の方が『組織的意思決定権』も『経済力』も持っていると思うけれどもね」
    振子「ちょっと待って。多賀教授は“ジェンダー保守主義”以外に、“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”という概念を持ち出しているって言ってたけど……それはどういうものなの?」
    シンジ「ここからの多賀の議論は、実に奇妙なものになっていくんだ。まず、“ジェンダー平等主義”と“ジェンダー保守主義”の間には『男は仕事、女は家庭』といった性別役割分業の是非について、ある種の親和性が発生する、と説く。何故なら、上にある“異質平等論”、即ち双方異なりながらも対等である、との論法が可能であるからだ、ってね。しかしそこに、“ジェンダー自由主義”を導入すれば、保守主義の主張はあっさりと退けられてしまう」

    なぜなら、「男は仕事、女は家庭」という規範は、それが対等な分業であろうが不平等な分業であろうが、性別によって個人の選択を規制しているという点ですでに問題だからである。
    (101p)


    乙許斐「なるほど、“ジェンダー自由主義”こそが正義というわけだな」
    シンジ「残念ながら、話はもう少し複雑なんだ。多賀は“ジェンダー自由主義”は“自由”であるが故に伝統的ジェンダーロールを選択する自由をも認めねばならない、そこにジレンマがある、とするんだ」
    乙許斐「……???」
    振子「それは当たり前よね。例えばだけれど、女の子に自由にランドセルの色を選ばせたら、みな赤い色を選んだ……なんてことになったら、ジェンダーフリーに反して、大問題だもの!」
    乙許斐「あ……そ、そうそう、そうだ! 確かにそんなのは憂慮すべき事態だ!!」
    シンジ「ふたりとも全く、多賀そっくりですね……。

     しかし、自由を別の方向に求めたとたんに、ジェンダー自由主義の視点は、意外にもジェンダー保守主義を支える立場へと姿を変えることになる。
    (105p)


     多賀はこんな悔しげな声を漏らし(本当に女性ジェンダーが女性に強制された不当なものであれば、そんなことになるはずがないと思うのだけれども)、そしてやむなしと言わんばかりに、ここでワイルドーカードを切ることになる」
    乙許斐「ワイルドカード、だと……?」
    シンジ「そう、“見えないカリキュラム”によって、今まで子供のジェンダー観は操作されていたのだ、と言い出すんです」
    乙許斐「その“見えないカリキュラム”というのは?」
    シンジ「国語科で採り上げられる作者や歴史で採り上げられる人物に圧倒的に男性が多いとかいう、言ったってしょうがない問題についてです。他はおなじみの女子だけが家庭科を習うことがどうの、名簿の男女別がどうのという話。もっともそれらも現在は相当に“改善”されているはずですけどね。
     ぼくには“ジェンダー平等主義”だの“ジェンダー自由主義”だのは言葉の遊びにしか見えないけど、問題なのはそうした言葉の遊びがただひたすら、“ジェンダー保守主義”とやらを切り捨てるためになされていること。ためにする議論としか、言いようがないことだよ。
     こうした彼らの“見えないカリキュラム”という見えないものに対する敵愾心が、ジェンダーフリー教育という莫大な血税を必要とする“見えるカリキュラム”を生んだんだ。そんな空理空論を続けた挙げ句、第5章ではついに学校でのジェンダーフリー授業の様子が描かれる。しかしここで、(先にも多少、言及のあった)机上論と現場との齟齬がいよいよ明らかになっていくんだ。
     具体的にはまさにさっき、振子さんが言ったことと同じだよ。ここでは『ぼくたちがこんなにジェンフリ教育をガンバってるのに、生徒たちは相変わらず男は黒、女は赤を選ぶ』と苦渋に満ちた記述が続く。
     読んでいて、あまりに馬鹿らしくも気の毒で、苦笑を漏らしてしまう箇所だ。もっとも、こんな偏向した教師の珍奇な試みにつきあわされる子供のことを考えた時、笑っていていいのかは疑問だけれどもね」
    乙許斐「それのどこが悪い! 男性差別解消のためにはやむないコストだ!」
    シンジ「以下のような記述を見ても、そう思うんですか?

     児童を社会化される存在としてとらえる立場に立てば、多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており、それに沿った好みを形成していると考えられる。たとえば、先の三年生のあるクラスでは、黒いランドセルを使っている男子が、黒を買った理由として「赤より黒が好き」と答えていた。したがって、たとえ学校環境が完全にジェンダーに中立的であったとしても、児童たちが「伝統的ジェンダー規範」に沿って形成されている好みに従って「自分らしい」選択を行えば、それは結果的に「性別にとらわれた」選択と変わりがなくなってしまう。
     もちろん、L小学校では、こうした結果を「個性尊重」として放置しているわけではない。そうした「自分らしい」選択の背後にひそむ「性別へのとらわれ」に気づかせ、より「自分らしい」選択ができるよう児童に働きかけている。
    (125p)


     こんな狂ったジェンダーフリーを、乙許斐さんは肯定するんですか?
     きっと彼らは男の子が赤いランドセルを選ぶまで、山小屋で『自己批判しろ!』と絶叫を続けた人々同様、糾弾会を続けるんでしょうね」
    乙許斐「……………」
    シンジ「一応、補足しておけば、読み進めると、男の子が黒いランドセルを選んだ選択を『本当の好みなのかジェンダー規範に則ったものか証明のしようがない』と一応、悩む素振りは見せている。さすがに、赤いランドセルを選べと無理強いまではできないしね。もっとも、フェミニズムによれば『セックスよりもジェンダーが先行する』はずなのに、その『ジェンダーに先行する、真の好み』というものがあるのだ、という多賀の前提が、ぼくには全く理解できないのだけれど」
    振子「そ……それのどこが悪いって言うの!? ジェンダーフリー社会を現出させるためには、耐えねばならない痛みよ!!」
    シンジ「男の子が黒いランドセルを選ぶことすらも延々と問題視する社会が、そんなにも理想的なものなの? そんな世界では男の子がヒーローに憧れることも、オタクが萌えアニメにはまることも、全てジェンダー規範に則った悪しき行動として、糾弾されることになるだろうね。それが、男性解放なの?
    乙許斐「……………」
    シンジ「もう一つ、補足しておこう。第6章では男女共学について延々と語られる。その中の「弱者支援としての別学」という節では、男性性に欠ける、いわゆる落ち零れの生徒たちへの指導が紹介されているんだ。彼らは一般的には女性的とされる職のスキルを学んでいる存在なのだけれども、そんな彼らに対し、『男なんだからしっかりしろ』といった男性性をくすぐる、男としてのプライドを尊重する指導が行われることもあるという」
    乙許斐「許せん! 男性に対し、『男らしくしろ!』と言うなど、許し難い男性差別だ!!」
    シンジ「多賀はこれについて、『現場でのやむない処置だ』と留保つきで肯定しているんだ。何だか、売買春を全否定していた者が障害者のためのソープという存在を知り、とたんにそこだけ賞賛してみせるような気持ち悪さ、卑しさを感じるけれども、同時にここは、多賀が一応の現実的なバランス感覚を持っていることの現れであるとも思う。
     教育現場では、彼らの妄念と現実とが、日夜火花を散らしているのだろうと思うと、ゾッとする話だけれどもね……」
    乙許斐「……つまり、どういうことだ!?」
    シンジ「ジェンダーフリーという机上の論理を現場で押しつけようとして、彼らは自縄自縛に陥っている、っていうことです。多賀が『多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており』と言い立てているのが象徴的で、普通に考えれば未就学児童の段階から男の子は仮面ライダーなどのヒーローを、女の子はプリキュアなどのヒロインに憧れるのは自明であって*5、彼らのヴァーチャルなロジックをそこに押しつけるのは、洗脳以外の何物でもないんですよ!」
    乙許斐「バカな……そんなバカなことがあるものか!!」
    振子「まぁまぁ、まずは方郎が落ち着いてよ」
     ――振子が、何十本ものペットボトルを持って来て、一同に勧めた。
    乙許斐「すまない」
     乙許斐は何気なくその中の一本を手に取り――。
    乙許斐「―――――ッッ!?」
     ――乙許斐、死亡。
    シンジ「こ……これは……!?」
    振子「あらら~? 赤い午後の紅茶もあったのに、緑のお~いお茶なんか選んじゃったのね……」
    シンジ「そんなカップ麺みたいな言い方しなくても……そうか、乙許斐さんのNG行動は『ジェンダー規範に則った色を選ぶ』だったんだ!!」
    ???「ひゃ~~~っはっはっはっはっはっはっはっは!!」
    シンジ「フェミクマ!?」
    フェミクマ「おわかりになったようですなあ、怒君? 今まで出落ちキャラとして死んでいったキャラたちもみな、ジェンダー規範に乗っ取った行動を取ってしまったがため、NGに抵触してしまったのです」
    シンジ「何て卑劣な!!」
    フェミクマ「ひゃっほう!!」

     フェミクマは一人、はしゃいでいる。
     フェミニズムと言う名の単なる洗脳により全世界を壊滅させ、まだなお飽きたらずに男性機関すらをも崩壊させんとして。
     ぼくたちは……「希望編」での力技な逆転劇に希望を託すしかなかった……。

    *1 詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照。
    *2 「男がつらいよ
    *3 以前、えりちかさんが本書を紹介して、

    管理職を目指す上昇志向の女性を「名誉男性」呼ばわりしているくだりを読んだときは一驚しました。

    とおっしゃっていたのですが、それはこの部分を指すようです。
    *4 「男が働かない、いいじゃないか!
    *5 この種の話題に差しかかると、オタクでリベラル寄りの御仁が、嬉しげに「戦隊シリーズの影響で近年は」みたいなこと言い出すのですが、(何故そんなことを言いたいのか、さっぱりわからないんですが)、あまり意味がありません。
     単に学校では赤との対象で黒、ないし青が男の色と認識され、戦隊では赤やその他が男の色と認識されているというだけのことです。
     その意味で男の子たちが黒を選ぶ時も、赤を選ぶ時も、そこに付随する「男性性」という属性をもって選んでいるのだとすら言えましょう(これは女の子も同様です)。
     だから仮に学校のランドセルなどに赤、ピンクの二色しかなかったとしたら、男女で赤/ピンクときれいに別れることでしょう。

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