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 さて、相も変わらず「男性学」関連の本の再録です。
 これは2015年10月24日のもの。何度も書く通り、この時期は田中俊之師匠がやたらと「男性学」関連の本を出していた時期でした。さて、ではその内容は……?

  *     *     *


「生き延びるためにはゴルゴムに従うしかないのだよ!」
「俺はイヤだ。従うもんか。この身体を見てよ! 改造されて、もう普通の人間じゃないんだ。こんなことが許されていいのか!?」
「これからの世界はゴルゴムによって選ばれた人間だけしか生きられない。人類は淘汰されてしまうんだ!!」
(中略)
「冗談じゃないよ、父さん、奴ら人間の自由を奪おうとしているんだ。父さんだって戦わなければこの廃墟と同じじゃないか! そんな父さん、見ていたくないよ!!」
(『仮面ライダーBLACK』第一話「BLACK!! 変身」)

『仮面ライダーBLACK』は1987年というバブル期に、久し振りに再開されたライダーシリーズです。
 最初のライダーたちは悪の秘密結社ショッカーと戦っていました。これはナチス残党の趣であり、またスパイ映画に出て来る秘密組織のイメージもありました。
 しかし本作の放映はそろそろ冷戦も終わろうという頃。
 敵のゴルゴムは「人類を陰から支配していた、文明や文化の破壊を目的とする集団」とされました。人類側の政済界の有力者たちは実はゴルゴムの配下であり、「怪人」という、「文明を捨て去った、人間本来のあるべき姿」に改造され、永遠の生命を得ることを望んでいるのです。
 主人公・南光太郎はゴルゴムメンバーとなった養父に、まるで生け贄のごとくゴルゴムに差し出され、仮面ライダーへと改造されてしまったのです。
 そう、全ては「ゴルゴムの仕業だ!!」なのです*1

*1 最終決戦間近の「妖花ビシュヌの死」では子供を放置して放蕩にうつつを抜かす母親が描かれ、ゴルゴム幹部が「世の母親が母性などという下らぬ感情を捨て去った今こそ、ゴルゴム復活の時だ」と語ります。今の世にこんなセリフが絶対に許されるはずもなく、これもまたやはり「ゴルゴムの仕業だ!!」なのです。

 さて、本書です。
 ゴルゴムが「現生の人類は存在そのものが許されない」と考えているように、著者の田中俊之師匠は40男(まさに、『仮面ライダーBLACK』世代ですね)を深く深く憎悪し、「現生の男性は存在そのものが許されない」と考えています。
 師匠のレイシズムは以前レビューした『男がつらいよ』でも充分にご堪能いただけ、また本書は基本的にその類書といった感であり、あまり新味はありません。ある意味、芸人が持ちネタのギャグを繰り返して食うように、学者センセイというのは持ちネタを延々繰り返すだけで新書が出せ、永久に食べていくことが可能なのです。それは丁度、ゴルゴムに忠誠を誓った人間が怪人と化し、不滅の生命を得るように
 それ故、そこまで気合いを入れてレビューをすることもないのですが、まあ、簡単に見ていきましょう。
 まず「はじめに」の一番最初から、師匠は「おじさん」にナンパされ、迷惑がっている女性の言葉を引用し、

 好きこのんでおじさんと恋愛をしたい女子大生などいるはずもない。
(5p)


 などと書き立てるのですが……どうでしょう。
 師匠の言説はKTB師匠の「ナンパ禁止法案」を思わせますが、そもそも男性の草食化が話題となり、女性たちは「男性をその気にさせる法」を女性誌に学んでいるご時世です。そこまで女性が男性からのアプローチに迷惑しているとは思えません。
 師匠は「我こそは啓蒙者」「我こそはチンポ騎士」といった風に

 曖昧な表現はやめよう。おじさんが目を覚ますには、もう少し直接的な言葉が必要である。
(3p)


 と絶叫するのですが、むしろ師匠の側の「女性を性的に搾取する男性が存在するのだ、していなければならないのだ」とのニーズばかりが先行し、ただひたすらに男性へのヘイトを垂れ流すことだけが目的化しているかのように、ぼくには思われます。
 また、師匠は(実は前著から)やたらと「中年はモテる」といった類の男性誌記事を腐していますが、言うまでもなく女性は男性に比べ、「年上の異性を好む、或いは許容する傾向」が顕著です。それは男性が女性に若さを求めることの裏返しであり、また彼女らがぼくたちに力を求めるからであり、更に若い男性が能動性、そして経済力を失っているご時世であれば「中年はモテる」ということはある程度、言えるでしょう。それが嫌なら若いヤツが儲かる仕組みをとっとと作っていただくしかない。或いは「ジェンダーフリー」とやらいう洗脳で、女性の性意識を変えていただくしかない。
 師匠は40男たちに早く枯れて欲しいと切望しており、「アラフォー」などという言葉を使う(ことで加齢を誤魔化す)な、とご高説。そもそもその言葉は女性側が言い出したことだと思うのですが、何故かそこは無視しています
 しかし、例えば男子大学生が「ババアが俺に粉をかけてきた、迷惑だ」と言ったら師匠は何と返すのでしょう? 言うまでもなく「女は若さだというのはケシカラン価値観だ」と主張するに決まっているのです。
 師匠は「男が男らしさを証明するには王道で実績を上げるか逸脱するかだ」として、

40男の逸脱自慢は恥ずかしいだけなので、なるべく早く止めた方がいい。
(10p)


 と書きます。
 いや、まさに、今、「鏡」という物体の向こうに、師匠の尊い教えを必要としている人物がいます。師匠は今すぐそれに向かって、自著をコンコンと読み上げるべきでしょう。
 さて、とは言え、(先にも書いたように)本書はタイトルに「男性学」と謳っていないことからも想像できるように、イデオロギーの押しつけは希薄です。しかし逆にそれ故、「何だかわからないけど、とにかく中年男性をdisり続けている」といった印象に陥ってしまっているという、何だか妙な本でもあるのですが。
 四章ではただひたすら40男は恋愛をあきらめよ、あきらめよ、と繰り返します。
 当然、本ブログの読者諸氏なら「はは~ん」と思いますよね。「恋愛も結婚もヘテロセクシャルな性欲も、男性支配社会の仕掛けた陰謀だ!」みたいなことを一席ぶつのかなあ、と。いえ、多少そういう方向にも行きかけはするのですが、基本、そうした文章は些少です。
 章の最後には「性別にこだわらず趣味のあう友だちを見つけよう」みたいなことを言い出し、そうした「友だちとしてつきあいだした女性に恋愛感情を抱いたら、どうしたらいいか」との問いを持ってきます。
 凡百の作家なら「そこから始まる恋もある」とか書くのでしょうが、さすがに田中師匠は違います。

そのような心配は無用だ。だって、これまでの人生でモテたことがないじゃない。これからもモテないよ。モテるはずがないよ。早く現実を認めて楽になろう
(97p)


 ――と、ここでぷっつりと章を終えてしまうのです。
 ここでもイデオロギーを抜いて結論だけ言っているため、かえってショッキングな文章になってしまっています。
 どうも師匠は「男と女の友情」を成立させることが掛け値なしに素晴らしいことであると信じているご様子なのですが、しかし目下の少子化、非婚化で答えは出ているのではないでしょうか。つまり、性愛という文脈を外れた時点で、男と女は互いに互いを必要としなくなるどころか、コミュニケーションすら成り立たないのだ、という。

 六章は「夢の終わり」「眠れる獅子幻想を葬り去る」といった節タイトルが並びます。
 田中師匠は『俺はまだ本気出してないだけ』を例に挙げ、40男に「俺もまだやれんじゃね?」との幻想を捨てよと説きます(「眠れる獅子幻想」とはつまり、それですね)。前章までは男女関係についての「まだやれんじゃね?」に対する罵倒が並んでいましたが、本章では主に、仕事に関するそれが語られます。ここは耳に痛いながら、理のあることも言っているとは思います。
 しかし、何と言いますか、「師匠が言うと違う」のです*2
 重要なのは、今の40男が軽々しく「これ以上はあきらめろ」と言ってしまえるほどに「ある程度の幸福」を得た世代か、ということです。師匠自身の生活ランクが基準値であるせいか、彼の目はリア充層にばかり向いていますが、現代の日本には彼が考えるような最低ランクの生活もできない人間が大勢いるのです。現代の40男など「利を得損ねた」最初の層でしょう。
 師匠としては「脱成長論」を一席ぶちたいところだったのを、場を弁え、ガマンしてしまった。しかしそれ故、「貧乏人を前にウナギとメロンを食いながらご高説を垂れる」内田樹状態が期せずして、現出してしまったのではないでしょうか。
 同章では『最強伝説黒沢』の冒頭を例示し、「不遇な者は第三者の栄光に自らを仮託する」とも言っています。ぼくはここを見て「はは~ん」となりました。何しろ、目次を見て次章のタイトルが「40男よ、そろそろ政治を語れ」というものだということはわかっていましたから。
「あぁ、次章ではネトウヨ批判が始まるのだな」と確信したのですが、それも肩すかし。次章(七章)の内容は「40男よ、そろそろ政治を語れ(大意)」というだけのもので、特にそれ以上の内容はありません
 以降、八章九章は90年代、自分の若い頃の思い出話をダラダラするだけで終わってしまいます。
 繰り返しになりますが、一般性を考えてイデオロギーというかムツカシい言葉を抑えたがため、かえって師匠の中にある男性憎悪だけが前面に出てしまった、というオチであるように、ぼくには思われます(本書はやたらと「自分の頭で考えよう、考えよう」と繰り返されるのですが、読者が「自分の頭で考え」ることで師匠の中にある結論に到達することを、ひょっとして期待しているのかなあ……?)。

*2 『じゃりン子チエ』でテツの正論に、おばあはんが「テツが言うと違う」というシーンをつい、思い出してしまいます。
(細かいことは忘れたのですが)テツが「世の中、利を得ているヤツがいればそれに見あう損害を被っているヤツがいるのだ」と言うのに、おばあはんが「それも一面の真理だが、人にたかっているだけのお前が言うな、現に○○さんはwin-winで利を得たじゃないか」と返すシーンだったかと思います(いえ、実際には関西弁で言っていましたが)。

 ちょっと三章に戻りましょう。ここでは(も)田中師匠の「青春・疾風怒濤編」が描かれます。師匠は(そして読者対象に想定されている〈40男〉も)バブル期に青春を送った世代。当時そこかしこにいたとされる、(ぼくとしては「ホントにいたのかよ」と今の今まで思っていた)マニュアル男くんだったようです。
 大学四年の冬、彼女を作ろうとしていた頃の合コンでの体験を、師匠はセキララにカムアウトします(書かれてはいませんが、卒業前に何とか……と焦る時期であったことでしょう)。

 すごく素敵な女の子がいた。席も近い。大変ラッキーである。『東京ウォーカー』を取り出し、完璧なクリスマスデートプランを披露しようとする。

「田中君……その『東京ウォーカー』ボロボロだね……」

そうだね、僕の心もボロボロだね……。
(90p)


 わかりにくいかもしれませんが、マニュアル雑誌を得意げに振りかざした途端、相手の女の子にツッコミを入れられてしまったわけですね。
 ぼくには〈40男〉という存在が殊更に「嫌われる」存在なのかどうか、わかりません。しかしこの、読者の99.9999999999%が全く興味を抱かないであろう、自身の青春時代の想い出を叙情的に綴るナルシーぶりを見ていると、申し訳ないですが師匠がモテなかった理由だけは、よくわかる気がします。
 これに続け、師匠は言います。

 相手もいないのに、独りよがりのクリスマスデートプランを組み立てた男にそれを押し付けられようとしているのだから、女の子が恐怖を感じたのは当然だろう。なぜ初対面のあなたの妄想に、私がつき合わなければいけないのかと考えるのが普通だ。
(91p)


 いえ、むしろ新書でいきなりキモいポエムを始めるようなメンタリティこそが、モテない原因だったのではないでしょうか。
 女子が男子に「リードされたい」と思っている以上、「デートプランを押しつけられる」のは当たり前です。それがどうしても嫌なら、自分からリードすればよろしい。いや、そもそもそうした合コンに出てくる以上、その女性に期待がなかったはずはないのです。
 これに続く「僕たちの失敗」という(キモいタイトルの)節では、大学生に聞き取り調査をしての、「デート中の食事の支払い」の意識調査が紹介されます。

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■本書91pより

 上の表を根拠に、

 女子が望んでもいないのに,男子は「おごらなきゃ」という強迫観念に取りつかれ、自分で自分を苦しめている。
(92p)


 とドヤ顔の師匠ですが、何でこうもあどけなく数字を信じることができるのでしょう。
 誰だって「男がおごって当然!」などと(しかも学内でのお堅い調査、場合によっては厄介な「男性学」とやらの講師の行う調査と知った上で)書きづらいでしょう。
 もちろん、バブル時代に比べれば女性も堅実で慎ましやかになっているとは思います。だから、仮にこの二、三十年同じ調査を続けていれば「ずっとマシになった」といった結果は出るだろうと多分、思いますが。
 しかし師匠はさらっと流していますが、

ちなみに、「女性が全額払う」と「女性が多めに払う」も選択肢としては存在していたのだが、いずれも〇%だったのでグラフには表示されていない。
(91-92p)


 とのこと。
 大学生って親がかりで、「収入」って変わらないはずだよね……。

 言いたいことはいろいろありますが、どのページもどのページも師匠はまるでゴルゴムが人類にその魔の手を伸ばしてくるかのごとく、男性へと威しをかけてきます。
 彼の中の男性憎悪は一体、何に端を発するモノなのでしょうか。
 ぼくは以前、ツイッター上でちょっとだけ赤木智弘さんと話したことがあります。前後の話題は忘れてしまったのですが、その時ぼくは彼に以下のような主旨のことを言いました。

「やや乱暴な言い方だが、オッサンは(本来、キモくなかったにも関わらず)フェミニズムの陰謀で、キモい存在に仕立て上げられてしまったのだ」

 しかし何としたこと、赤木さんは「そんなことはない、キモいオッサンは昔からキモかったのだ」と返答してきました。
 彼は主著『若者を見殺しにする国』において臓器移植の募金の現場などを例に、幼い少女とオッサンでは同情のされ方が違う、生命の価値が違うのだと喝破した人です。
 その彼からして、このように言ってしまうのですが、言うまでもなくオッサンは本来キモくなかったにも関わらず、キモいものに仕立て上げられてしまった存在なのです。
 例えばですが、75年に放映を開始した『ゴレンジャー』には大食漢の三枚目、キレンジャーが出てきます。よく言われるように、後の戦隊シリーズではイエローが三枚目、デブであることは大変に少ないのですが、それは戦隊が定着する頃には既に時代が80年代に突入したからでしょう(言うまでもなくこの種の「巨漢キャラ」は70年代のアニメでは『ガッチャマン』や『コン・バトラーV』など定番でした)。
 73年に放映された実写ドラマ『どっこい大作』は言わば「職業根性モノ」の先駆けと言えましたが、主人公は当初、力士を志望していた不細工なデブ。それが一年を超えるロングランのヒット作となったのです。
 いえ、70年代は「若者の時代」であり、彼らはキモデブではあれ、「オッサン」ではありませんでした。しかし60年代のヒーローは、例えば月光仮面がそうであったように「お兄さん」ではなく「おじさん」であったことはよく知られています。少年誌の表紙を、当時は力士や野球選手などスポーツ選手が飾っていたことは有名ですが、柳家金語楼など噺家が表紙になることもあったのです。
 それがどうしてこうなったか?
 別に詳述するほどのことではなく、80年代の消費社会の幕開けが女性を主役にした、というだけのことです。ブルーカラーが成り上がる物語もリアリティを力を失い、事務中心の職場に女性が流入してきました。その全てを「フェミニズムの陰謀」とするのはやや乱暴ではありますが、同時にこうした時流に乗っかり、男性を、中でも中年を貶め続けたのがフェミニズムであることは、もう論ずるまでもありません。

 ゴルゴムは数万年に一度、文明を破壊するために復活するとされています。そう、番組放映開始の87年がその時だったのです。
「悪の組織」は男性を否定し、貶め続けて来ました(むろん、女性的な女性をも貶め続けて来ました。彼ら彼女らの目的は「文明の破壊」そのものですから)。
 しかし、今まで田中師匠をレイシスト呼ばわりしてきましたが、それは言い過ぎだったかも知れません。
 上に光太郎の養父は光太郎をゴルゴムに生け贄として差し出した、と書きましたし、光太郎も「あなたは俺たちを(ゴルゴムに)売ったんだ!」と非難していますが、養父は彼が生き延びるためのせめてもの手段として、彼を改造人間にしたのです。
 ぼくたちもそれと同様です。ぼくたちは彼ら彼女らに改造されて、もう普通の人間ではありません。しかし、これからの世界はゴルゴムによって選ばれた人間だけしか生きられないのです。
 そう、本書は男性を延命させることを目的とした、田中師匠の愛の書だったのです。
 今こそぼくたちは叫ばなくてはなりません。

「ゴルゴムの仕業だ!!」