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 少し前から続けていた「サブカルからオタクへの攻撃」関連の記事の再録です。
 左派業界はいつからかうわ言を本にまとめて学生に買わせるという簡単な仕事で食う業界になっていますが、中でもキングオブうわ言と呼ぶべきなのがこの御仁。
 後、『WiLL Online』様では国際男性デーについての記事を掲載していますので、未見の方はよろしく。


 では、そういうことで……。

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 宇野常寛という御仁がいます。
 下品極まりない言葉でただひたすらオタクを罵ることをライフワークとしている方で、しばき隊は何故彼をスカウトしないのかと不思議でならないのですが(ホントに仲がいいかも知れませんね、どうでもいいけど)、先日、初めて彼の主著を拝読し、その恐ろしいまでの薄っぺらさに不快――否、深い感銘を受けました。
 今回は、彼についてさらっと触れてみましょう。
 そもそも宇野と言えば、ぼくからすれば東浩紀師匠の子分、くらいの認識だったのですが、本書を見ていくと結構、東師匠を批判しています。彼は師匠の「マチズモ批判」とやらに一定の評価を与えながらも、「まだまだオタクへの憎悪が足りない」と批判をしているのです。

 批評の世界における東浩紀の出現とその劣化コピーの大量発生は、弱めの肉食恐竜たちが(実際には肉食以外に興味がないにもかかわらず)矮小なパフォーマンスで「僕らは草食恐竜です」と宣伝しながら、自分よりさらに弱い少女たち(白痴、病弱、強化人間など)の死肉を貪っているような奇妙な言論空間をサブ・カルチャー批評の世界に醸成した。
(211p)


 グロテスク極まりない本書の中でも、最も品性下劣かと思われる部分を抜き出してみました。
 何を言っているかおわかりでしょうか。
 宇野は別名を「key芸人」と言い(今、ぼくが命名)、keyのゲームをひたすらこき下ろす芸で一部には人気です。彼は「白痴」という言葉を使うのが三度のオナニーより大好きなのですが、この「白痴」とはkeyのゲーム『AIR』に登場する少女、神尾観鈴*1を指しています。彼にとって『AIR』とは、「白痴という弱者性を持った立場の弱い少女を、男がレイプするゲーム」なのです。『AIR』をプレイ(或いはアニメ版を視聴など)した者からすると何をバカな、そういう薄い本でも読んでいるんじゃないのかと思うかも知れませんが、恐らくそうしたことではなく、原因は宇野の脳にもはや正常な日常生活を営むことが困難であろうと思われるほどの重篤な認知の歪みが生じていることに由来するように思われます。
 宇野が東師匠に批判的なのは

 東の指摘するマチズモとその自己反省の同居、という状態はなぜ成立したのか。
(中略)
 それはこれら(『AIR』など)の作品に内在する自己反省が、実は「反省」としては機能せず、むしろマチズモを強化温存する「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎないからだ。
(204p)

 これらの講義のポルノメディア*2に対する批評の需要は、概ねそのマッチョイズムを隠蔽しつつ再強化するイデオロギーに集中しており、そのためにこのような矛盾に満ちた議論が批判を加えられず閉塞した市場*3の中で温存されてきたのだ。(207p)


 といった理由によるそうです。
 東師匠の「自己反省」という評論がいかなるものなのかは、措きます。採り挙げる興味も価値もないことですから。
 宇野の言い分は要するに、師匠の評論は「マチズモを反省しているように見える、ただのポーズでしかない」というものなのです。
 しかし、この種の人々が持ち出したがるこうしたロジックには、(根本から間違っていることは不問にしてあげるとしても)そもそも何ら意味はありません。
 この種の人たちは、「○○は優れた批評だが、××はガス抜きに過ぎぬ」とか「○○は男性支配社会を風刺した優れた批評だが、××はその価値観の垂れ流しでけしからぬ」とかいったデタラメな批評が実に大好きです。
 例えばフェミニストの中でもBLが好きな人は「ホモフォビア(ホモソーシャル)への風刺である」とこれを肯定し(東師匠がそれをしたことは、何度も指摘していますね*4)、嫌いな人は「ヘテロセクシズム社会のガス抜きの役割を果たしているにすぎない、むしろ利敵行為」とこれを否定します。
 或いは斉藤美奈子師匠は『紅一点論』の中で「『ガンダム』でセイラが苦汁を舐めるのは女性差別だが、『エヴァ』のアスカが廃人化するのは男性支配社会にいじめられていることのメタファーである」と語っています*5
 おわかりのようにこれら批評は万能のレッテルに過ぎず、任意に好きな作品は「その価値観への批評」であるとして称揚し、嫌いな作品は「その価値観への無批判な服従」として罵倒することが可能なのです。
 はっきり言えばフェミニズムの論法を受け容れたリベラル寄りの論者の漫画や小説に対する批評は全て、この程度のものと言って差し支えがありません。
 事実、宇野は高橋留美子の『犬夜叉』最終回を「虚構世界からの卒業」を意図していると高く評価する一方、「むろん限界はあるとの反論はわかるが、しかし」的な留保をつけています。
 好きな作品の批評性については「むろん限界はあるとの反論はわかるが、しかし」良きもの、嫌いな作品の批評性については「自己反省パフォーマンス」だから悪しきものと言っておけばよいのだから、楽なものです。
 彼の中の「○○だから、ダメ」と「○○だが、しかしアリ」の差違はどこにあるのかの基準は、示されません。言うまでもなくその基準は彼にとって好きな作品かどうか――否、評価することが政治的におトクかどうか、なのでしょう。
 レッテルと言えば、この執拗に繰り返されている「マチズモ」「マッチョイズム」というワードも象徴的です。
 ここではただひたすらオタク作品に「マッチョ」であるとのレッテルさえ貼ればそれでこと足れり、とするばかりで、本当にその作品がマッチョなのか、そもそもマッチョがどうして悪いのかといった疑問は、清々しいまでに不問とされています。
 そもそもマチズモとマッチョイズムってどう違うかもぼくにはよくわからないのですが、もし宇宙人がこの本をスーパー翻訳機にかけたら、「マチズモ」「マッチョイズム」を訳することができず単に「何か、悪しきこと」と翻訳するのではないでしょうか。
 宇野は『エヴァ』以降のオタクシーンを指し、

 九〇年代末とは、男性のマッチョな自意識を女性(母性)が全肯定するという回路が全世代的に選択されていた時代だったのだ。
(84p)


 また、美少女ゲームについて

 女性差別的な「所有」関係
(153p)


 などとも腐しています。
 先の「自己反省」に言及し、

この「自己反省」のポイントは、「少女が主人公の男性を絶対的に必要とする」という、「所有」構造の根底をなす部分は反省の対象にならない点にある。
(205p)

 とまで言います。もうこうなると、少女が男性を必要としている時点で絶対に許されないのですからたまりません。
 そもそも、そうした構造はあらゆる恋愛物に普遍的なわけで、そうなると宇野が何故オタク、否、オタク男性だけを執拗に執拗に罵倒するのかわかりませんが(当然、非オタク作品でも、また女性が描いた作品でもそうした傾向は普遍的なのですが、宇野はそれについて何も説明しません)。
 もはやフェミニズム様に許していただくためには「男を必要としないレズ物」しかなさそうですが、そうなったらそうなったで「レズへの差別的表現」と言われることはもう、次のライダーがホスト面であることよりも明らかです。

*1 宇野には気の毒なので、『AIR』でもこの観鈴以外のキャラはそうバカっぽく描かれていないことはナイショにしておいてあげましょう。
*2 彼は実に嬉しげにkey作品をポルノポルノと繰り返すのですが(性表現があるので、これは間違いとは言えないのですが)、こうして憎悪の対象を「ポルノ」と呼称することで一仕事終えた気分になれる彼が、ポルノを称揚することが三度のオナニーより好きなリベラル陣営の中、どういうスタンスでいらっしゃるのか、疑問です。
*3 しかし「評論」の「市場」とは言いも言ったりですね。日本のアニメがジャパニメーションとして世界で評価されていることと比べ、この種の「評論」が市場性を持っているとは到底思われないのですが。
*4 東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)
*5 『紅一点論』――国語の教科書に「アニメのヒロイン像」


 もう一つ、宇野は盛んに『うる星やつら』を俎上に上げるのですが(これはまた、東師匠が同作にこだわっていたからでもあるようですが)、一体全体どうしたわけか同作を、

 具体的には、複数の美少女キャラクターが主人公の少年に恋愛感情を抱くことで承認する、という回路が示される。
(84p)

 この形式は、後のオタク系作品のラブコメにおいて、いわば独身男性向けのハーレクイン・ロマンスのように消費されるフォーマットとして定着していくのだが、
(208p)


 と執拗に繰り返します。
 言うまでもなく『うる星』は今の萌え系、ハーレム系作品とは決定的絶対的に異なります。それはむろん、本作ではあたるとラムのロマンティック・ラブ・イデオロギーが絶対のものとして前提されている点にあります。
 宇野の記述とは全く異なり、本作においてラム以外の女性キャラは基本、あたるを愛しません。
 いくら何でもここまでのデタラメ極まりない、まさに斉藤美奈子師匠レベルの支離滅裂な事実誤認が、どうして罷り通っているのでしょう。
 或いは宇野は『うる星』を読んだことがないのかとも思ったのですが、これ以降、劇場版である『ビューティフルドリマー』について妙に子細に論じている部分もあり、どうもそういうわけでもないらしい。
 いわゆる萌え系ハーレム物を論じつつ、いわゆる萌え系ハーレム物について初歩の初歩から解釈を決定的に誤っている。これは彼の知的能力が、とんでもなく、容易には想像が不可能なほどに低いことが理由でしょうか。
 いえ、恐らくそうではないでしょう。
 憎むべきオタク男性に支持された漫画は何が何でも絶対否定せねばならない。
 その彼の中の動機が彼の認知を、ここまでグロテスクに曲げてしまったわけなのでしょう。
 昨今のフェミ陣営の人たちを見ていると、彼ら彼女らは何よりも「客観的現実」を受け容れることを苦手としているように思われます(繰り返している「ガンダム事変*6」や「伊藤文学事変*7」などそうですよね)。彼ら彼女らには「愉快な仲間たち」同士で願望を語りあっているうちに、いつの間にかそれを現実と誤認してしまう、という悪癖があるのではないでしょうか。

 ――さて、つらつらと述べてきましたが、ぼくはここで、皆さんに大変に残念なお知らせをしなければなりません。
『源静香は何故のび太と結婚しなければならなかったのか』の時も申し上げました通り*8、宇野の戯言は、実は「フェミニズムは正しい」と前提するならば、正しいのです。
「男性という立場の強い者からの働きかけは全て女性側の主観でジャッジして、仮に後づけであろうとセクハラなどとして訴訟できるようにすべき」とのフェミニズムを受け容れれば、この地球に存在する全ての純愛ストーリーはそのように解釈する他なくなる。つまり、「フェミニズムを正しいと仮定するならば、宇野の主張は正しい」のです。
 そしてまた『部長、その恋愛はセクハラです!』の時に申し上げたように*9、この地球がフェミニストに制圧されてしまっている以上、ぼくたちは彼のうわ言を「正義」として受け容れる以外、道はないのです。
 フェミニストたちはこうした主張をしつつも、恐らく自分たちの主張の矛盾に気づいているため、ここまでラディカルな表現をすることは実は、少ない。
「いや、フェミニストたちに矛盾に気づくほどの冷静さはないぞ」と言いたい方もいらっしゃるかも知れませんが、仮に意識の上ではなくとも、彼女らは無意識裡に気づいているのではないか。例えば、一方で自分たちが「女が、男らしい男に愛される」古典的なストーリーを愛していることに、彼女らも気づいており、そのためここまでのラディカルさが少ないのではという気がします。
 しかしフェミニズムを盲愛する宇野には、そこが見えない。
 だからこそ彼は、その矛盾とウソと欺瞞と反社会性と弱者への憎悪に満ちたフェミニズムという名のボールを、全力でこちらに向かって投球してきた。それ故、かえってそのウソが誰の目にも明らかになってしまった――というような構図かと思われます。
 宇野は旧劇場版『エヴァ』のラストを持ち出し、以下のように語ります。

 結末の「キモチワルイ」――少女に拒絶されることに怯えた彼らは、自分たちの肥大したプライドに優しい世界を選ぶことになる。
(82p)


 しかし、それにしても、何というグロテスクな「評論」なのでしょう。
 宇野は件のラストが「女が、男に肘鉄を食らわせるものであった」というそれだけの理由で快哉を叫び、否定されるべきオタク男性は一様にそれを拒絶したのだ、拒絶したに決まっているから、拒絶したのだと、根拠もなく断言しているのです。
「彼ら(つまりオタク)」がこのラストにそこまで怯えたのであれば、何故『エヴァ』が三十年経った今も現行コンテンツとして成り立っているのか不思議としか言いようがありませんが、宇野はそうした疑問には一切、答えてくれないのです。
 いえ……このアスカの例えはそれ以上のことを、ぼくたちに連想させずにはおれません。
 元「と学会」の山本弘さんはユダヤ陰謀論、反相対性理論などいわゆる「トンデモ」を信じる人々に対して、「彼らは自分に当てはまる言葉で相手を罵る」と評していますが、それはどうやら正しいようです。
 女性に拒絶されることに怯え、自分たちの肥大したプライドを守るため、マッチョに弱い者をいじめているのは誰か――ここまで読んできた皆さんにはもう、お察しのことでしょう。


*6 「ガンダム事変」――フリーライターの加野瀬未友がデマを流し、オタク界のフェミニストの信奉者たちに兵頭を攻撃させた事件。「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件」を参照のこと。
*7 「伊藤文学事変」――『薔薇族』編集長の伊藤文学が、成人同性愛者が小学生男児をレイプすることを長らく称揚し続けたことを批判した兵頭が、フェミニストたちから恫喝を受けた件。「ホモ雑誌の編集長が子供とのセックスを肯定しすぎな件、そしてフェミニストがそれをスルーしすぎな件」を参照のこと。
*8 源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
*9 部長、その恋愛はセクハラです!(発動編)