前々回、今年最初の記事で、ワタクシこと兵頭新児がノストラダムスを超える大予言者であるとの驚愕すべき事実について、ご報告申し上げました。その更に前回の記事でこれから、「オタクはセクシャルマイノリティの一種だ」との論調が流行する、と書いていた直後、そうした騒動が起こったことについてのご報告でした。
そして今回、またしてもぼくの予言が当たってしまいました。
ぼくは先日、「表現の自由クラスタ」に対する憎まれ口として、「アニメや漫画を滅ぼし、フェミとの共栄を計ることを目的とする」存在である、などと書き連ねていました。ぼくは以前から、彼らのロジックは非常に拙く古いモノで、あまり評価できないと考えていたからです。
むろん、彼らの主観では、彼らが「表現の自由を守る正義の戦士」であることは疑い得ません。
しかし前回記事に書いた通り、彼らがフェミニストとのデートを続ける限り、オタク文化はもちろん、男女のあらゆるセクシュアリティを破壊する方向にしか進んでいけないのは自明です。とは言え、それにしても、「悪いグル様に騙されているだけの人たち」への言葉としてはいささか厳しいかな……と思っていたのですが、それを言い出したその日に、よりにもよってそれを実証する事件が起こったのです。
ここしばらく、twitter界隈では「まなざし村」という言葉を振り回すのがトレンドのようです。要は「(女性を、或いは萌えキャラを)性的な視線で見つめること、即ち“まなざす”ことはセクハラである」といった論拠で性的な表現を否定する人々を指す言葉ですね。
しかし、この言葉ができた途端、あちこちに「まなざし村とフェミニストは違うぞ」とのコメントが溢れるようになったのです。
ぼくもこのタームを考え出したのが誰なのかはわかりませんし、「特定の個人が、明快な思惑をもって、意図的に作り上げたターム」かどうかは何とも言えません。しかし流れからは、リベラル君たちが「自分たちに都合の悪いフェミニスト」を尻尾切りするため、更に勘繰れば「ラディフェミ」「ツイフェミ」という言葉のウソがバレたので、苦肉の策で大慌てででっち上げた新たなターム、と見えてしまいます。更に更に勘繰るならば、或いは「フェミ」という言葉を取り除いた言葉を流通させることでフェミへの悪印象を軽減せよとの、「闇の大首領様」からの指令があったのかも知れませんが。
何せ、「まなざし村」と「フェミニスト」がどう違うのか、見ていて全く判然としません。
「セクシュアルハラスメント」という概念が日本に輸入されてきた最初期、89年にフェミニストの江原由美子師匠は『スクランブル講座! セクシャル・ハラスメント!』において
「目付きだけでSH(引用者註・セクハラ)だなんて告発されて罰せられたらたまったもんではない」といった言い方には、どこか問題を歪めてしまうところがある。こういう言い方は、SH概念を広くとるともう『目付きだけでものすごい罰が加えられる』といったことが十分生じうるような誤解を生み出している。しかしそうしたことはほとんど起こりえない。
(中略)
「要するに目付きだけで罰金を払えっていうことか」とすごんで見せるのは、ちょっと「大人げ」ないんじゃない?
と、「目付き」に大変こだわっておいででした。この時期、週刊誌記事などで「いやらしい目で女性をまなざしただけでセクハラ扱いをされる!」と繰り返されていたのです。
むろん、ここでは「目付きだけで訴えられるのはまれ」とされてはいますが、当然、大前提として「それもセクハラになり得る」とのフェミニスト側のアナウンスが先行しているからこそのハナシですよね。
この頃は「行動する女たちの会」などが女性をモデルとしたポスターにクレームをつけ、撤去させる運動を盛んに展開していました。フェミニストたちもこぞって、そこに込められた「男たちのまなざし」を批判していたのです。
要するに、最初から、頭のてっぺんから、「まなざし村」と「フェミニスト」は全く同一だったわけですね。
だからこそぼくは「まなざし村」とやらと上野千鶴子師匠の主張は同じだぞ、とご進言申し上げました。そうした流れの一端とも言うべきtogetterまとめを、前回記事でもご紹介したわけですが、別なまとめではぼくのコメントが削除、また書き込みを禁じられてしまいました*1。
彼ら「表現の自由」を守る戦士たちが、フェミニスト様を守るためならば表現の自由など平気で踏みにじる人たちであることが、はっきりとわかりますね。
この時のまとめ人、「新しぃ美術科教育(仮.bot@art_education_」の言い分がケッサクで、コメントを全削除したのは「(兵頭が)リベフェミに失礼なことを言ったから」というのがその理由でした。
ぼくは彼らが「フェミニストはまなざし村々民とは違う」と強弁を続けるので、そんなことはない代表例として、前回記事にも挙げたように上野師匠についてご進言申し上げただけなのですが、それが、彼らにとっては「失礼」なようです。フェミニストやその狂信者にとって何よりも失礼なことは、「客観的事実」を提示することで彼ら彼女らの「願望」をぶち壊すことなのですね。また、彼が上野千鶴子師匠を「リベフェミ」だと盲信している点を見ても、お察しではあります。
リベラル君たちは「フェミニズムはとにもかくにも盲信し、決して疑いを持ってはならぬ絶対の正義である」とのドグマに取り憑かれ、それに反する者に対しては何をしても許されるのだとの強い強い信念を持っていらっしゃるようです。
*1 元は「#まなざし村 開村に寄せられた声 (http://togetter.com/li/930136)」魚拓は(https://archive.is/4O2Wh)になります。
しかし、そうした彼らの「無垢さ」は、残念ながら傍から見れば「ヤバい人」として映ってしまう。
事実、上のまとめで、朱緋真ちゃんぺろぺろ用botさんが
「”オタク会のトップ”はフェミニストの中にガールフレンドがいるからフェミニスト全体とは揉めたくない。したがって政治的都合で良いフェミニストと悪いフェミニストに区別して良い方を残そうとする」って兵藤新児さんの言がコメント欄の上の方ではっきり実現していて慄然としてしまいました(´・ω・`)
と、またツイートでも
正直「オタク界のトップって誰だよ」とか思ってたんですけど本当に"オタク界のトップ"っぽい人が「まなざし村の村民とフェミニストは別物」とか言い出したのを見て身体が震えてしまった(´・ω・`)
(https://twitter.com/shuhishin/status/691979048877105153)
とおっしゃっていたのが奇観でした。
実はぼくのよく使う「オタク界のトップ」という表現は、ぼくに近しいスタンスの人にも思いの外評判が悪く、黒屋ぶるーさんなどにも批判されていたんですが、このまとめの件で、むしろ彼もこの言葉にリアリティを覚えたように見えるのも、また奇観でした。
この「オタク界のトップ」は当然、「表現の自由界隈」に発言力を持つ、著名人たちをイメージした言葉です。純粋にこちらが勉強不足なため、ちょっとぼかした表現で逃げている、という面もあるのですが(ここでおちゃらけ半分に使う「闇の大首領様」と、その意味ではいっしょですね)。
しかし、いわゆる「表現の自由クラスタ」を見ていると(まさにこのまとめでぺろぺろbotさん、そして黒屋さんが指摘した通り)、彼らのあまりにも画一的盲目的なドグマへの服従が、もう、冗談抜きで「全体主義国家をイメージした、特撮番組に登場する悪の秘密結社」を連想せずにはおれないのです。つまり、ある意味ではそうした「戦闘員」たちの「北朝鮮のマスゲーム」的挙動が、ぼくに「オタク界のトップ」を仮想させる一因になっているわけですね(あくまで「一因」ですよ)。
事実、彼ら「戦闘員」にぼくがご進言申し上げた時のリアクションは、驚くほどに共通しています。
いつも指摘することですが、彼らはラディカル/リベラルフェミニズムについての(誤った)定義を必ず、ほぼ100%の確率でウィキをソースに振り回し、「まなざし村とは異なる、真のフェミニストがいるならば例を挙げろ」との質問には、答えられず遁走します*2。
この辺りから、「彼らはフェミニズムについての知識をさほど持っていない」ことが伺われます。
また、彼らはキホン、こちらの主張を驚くほどに聞かない*3。相手の著書も言い分も、論争の元になったログも、全く知ろうともしないままに、聖書の記述にある「ワルモノ」の姿をこちらへと投影し、襲いかかってきます。
そんなところから彼らは「オタク界のトップ」の命令を、ただ実行するだけのロボットなのだろうな……との推測も出てくるわけです。
他にも彼らの決まり文句は、
「お前は偏っている。お前は勉強不足だ。(これはあくまでフェミニズムが正しい、と前提しての話でしょう)」
「件の上野様の発言はかつての意見で、今は主張を変えておいでのはず。変えているに違いがない。(むろん、近年も同じことを言っています)」
「お前の言っていることは、話題と関係がない。場違いだ。(「フェミニズムは表現の自由の敵ではない」と強弁するので、仕方なく申し上げているのですが。確かに、その場を「フェミニズムを賞賛する場」であると前提するならば、その通りですが)」
などなど。そして(五分も経たぬうちに)矢尽き刀折れ、こちらに品性のない罵声を浴びせてくるところまででワンセット。後は「他のまとめの、兵頭を罵る下品なコメントを探してはせっせと「いいね!」をつける」という、さわやかなまでに格好の悪いマネをする御仁も多うございます。
今回はそれに、コメントの削除が加わったというだけのことです。
*2 近年では「ピルとのつきあい方(公式)」さんや「さすが多摩湖♡ナルコレプシー」さんの名が挙がることが多いのですが、(逆にストロッセンって言わなくなったなあ……)少なくとも前者の方はおっぱい募金の時に非常に偏狭な理由で反対なさっていたんですよね(おっぱい募金への反対論者との議論)。
*3 もっともこれは「戦闘員」に限りません。「オタク界のトップ」……とまでは言わずとも、「中ボス」クラスの連中にも共通の特徴です。単純にフェミニズムという正当化しようのないものに依拠している限り、これは仕方のないことなのでしょう。また彼ら彼女らのデマ体質も、この辺に起因するところが大きいように思います。
さて、最後にちょっと補足です。
この「まなざし村」という言葉が出て来た辺りを機に、彼らの「フェミニスト」像が、ちょっとだけ変わった気がします。
繰り返すように彼らは「リベラルフェミニズム」を「性表現に寛容なフェミニズム」といった意味で使ってきました。が、ここしばらく、彼らのイメージするフェミニスト像が「恋愛、婚姻を否定しない」、「ジェンダーを全否定しない」、「法による男女平等の実現を信じている」といったものになりつつあるのです。
これは、確かにリベフェミの特徴と言えます。彼らはぼくに言われたから……かどうかはともかく、リベフェミという言葉の本来の意味あいを学んだようなのです。「トップ」から、某かのご通達でもあったのかな……とついつい勘繰りたくなってしまいますね。もっとも、むろん、彼らの「リベフェミ」観が正しくなればなるほど、「目下も存在しているホンモノのフェミニスト」との齟齬は大きくなってくるわけではありますが。
今回の「新しぃ美術科教育」による強引なコメント削除も、そんな中での彼らのパニックを表しているわけでしょう。何だか、「癌宣告をされた患者が医者に殴りかかっている」*4みたいなハナシですが。
ですが、同時に本件ではまた、「よいおっぱい、悪いおっぱい」の理論をも、つい想起してしまいます。これはメラニー・クラインという女性心理学者の提唱した概念で、乳幼児は母親に対する愛憎というアンビバレントな感情を、当初は「よいおっぱいと悪いおっぱいがあるのだ」と二分することで処理している、といった考えです。空腹時でも、必ず母親がすぐにおっぱいをくれるとは限らない。乳児は自らにミルクを与えてくれるよいおっぱいと、ミルクをくれない悪いおっぱいは別物だ、と考えることで精神のバランスを取っているのでは、というのがクライン博士の主張なのです。
むろん、成長に伴いその両者は統合されるのが普通なのですが、大変残念なことにフェミニストというおっぱいはそもそも授乳してはくれない存在なので、彼らは一生このまま行くんではないか……という感じが、ヒシヒシといたしますが。
*4 考えれば、ホモ雑誌の編集長が小学生男児へのレイプを賞賛していた件を知らされたフェミニストたちのリアクションも、これと全く同じモノでした。
コメント
コメントを書くお疲れさまです。確かに上野千鶴子先生は高名なフェミニズム専門の先生ですが、フェミニズムなりジェンダーが専門の先生や論者の方は他にもいらっしゃるはずなんですけどね…どうしてこんなことになってるんでしょう…100年くらい前に「母性保護論争」をやっていた皆さんの方がまだいい議論をしていますよね…
現状、フェミニストの皆さんがフェミニズムの寿命を縮めているように思われてなりません。この記事を拝見し、より強く感じた次第です。フェミニズムも社会理論の一つですが、すべての社会現象をフェミニズムで説明できるわけではありません。全部が全部「男女の闘争」で片付けようとすると絶対に無理が出ます。同様のことをマルクス主義の方がやって結果的に自滅していますが、今のままだとフェミニズムも同じ道を歩むことになってしまう気がします。先人が一生懸命築いてきた足場を自分で崩してどうする気なんでしょうか?正直、心配になります。
フェミニズムが頑張って考察してきたジェンダーとか母性とか父性とかは割と人間の根本を突いているので、フェミニズムが消滅するのはもったいないとは思うんですが…もちろんフェミニズムは政治活動と不可分ですし、構築主義の影響をもろに受けているので、「構築主義が無効」と考えるのであればジェンダーの概念もラディカルフェミニズムも無効になるでしょうが…
コメントありがとうございます!
内田樹師匠はちょっと、信頼しにくい御仁ですが、彼が十年ほど前に書いた本で「フェミニズムはここしばらくですっかり落ちぶれた、ここまで短期間に一つの学問、社会理論が失墜したことも珍しいかも知れない」といったことを書いていて、それは本当にその通りだと思いました。
結局、ここまで男女平等が達成されながら、「ジェンダーフリー」などを持ち出していた、しかしそのウソがタイミング悪くバレてしまった、そこでフェミニズムの学問上の寿命は尽きていたのでしょうが、その「グレートリセット」の魔力に取り憑かれ、今更降りられない人たちがオタク業界でも暴れている、という感じです。
>フェミニズムが頑張って考察してきたジェンダーとか母性とか父性とかは割と人間の根本を突いているので、フェミニズムが消滅するのはもったいないとは思うんですが…
そうですね。
ぼくはフェミニズムそのものに取るべきところは何一つないと思っていますが、同時に「性というものが人間の根源を規定している」という世界観は間違っていないと思います。
小浜逸郎さんという評論家はかなり昔の本でフェミニズムを
>男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。
と評しました。女性にとって不利な面ばかりを恣意的に抜き出して、本質をずらした文句のつけ方ばかりをしている、ということです。恐らくこれ以上にフェミニズムを的確に言い表した言葉は他になく、フェミニズムはジェンダーの本質に到達し損ねた、失敗した学問だとぼくは思います。
時々、ぼくのフェミ批判に対して「お前は新たな価値を生み出すこともなく人にケチをつけているだけだ」と言ってくる人がいますが、まず種を植える前にアスファルトを引っぺがす必要があるんですね。
あ、すんません、おっしゃったことに対して否定的な書き方をしてしまったかも知れませんが、やはりちょっと、フェミニズムには見るべきところはないと思っているので……。
返信ありがとうございます。小浜さんの『男はどこにいるのか』でしたら半年くらい前に読んだことがあります。
社会理論は現状を反映している必要がありますから、賞味期限のようなものもあるんでしょうね。批判のための批判ばっかやってたらいけませんよね。
僕自身は近代社会や近代国家を考えるうえでは、まだフェミニズムは有効だとは思っています。性が政治的に喧伝されたことも20世紀前半はありました。「男は兵士になって戦死するのが一番男らしい」と真顔で言われていた時代もありましたから。近代国家を乱暴に言ってしまうと「金、暴力、SEX」です。「近代国家の維持のために男性性、女性性が表象された」という議論を最初に構築したのがフェミニズムだったかと思います。早い話が子ども生んでくれないと人口減りますからね。「男は兵士になれ、女は子ども生め、それ以外は知らん!」といった感じかと思います。
あと常々疑問に思うのですが戦前に「男性が抑圧されている」と言った人間はいたのでしょうか?戦前の良心的徴兵拒否を調べれば分かりますかね?なぜこんなことを申し上げるかというと、なぜ「我々は抑圧されている!」と主張したのが男性ではなく女性だったのか?という疑問からです。質的には違えど男女共に抑圧されていたのは同じですからね…なぜ女性が先だったか?ということです。
長文すいません、丁寧に返信してくださるので…
お返事ありがとうございます。
賞味期限があるというのはその通りですね。
今の左派全体がそうですが、状況は変わってるのに「利益を得るルート」自体は作っちゃったのでなかなか後戻りできない、という感じです。
>近代国家を乱暴に言ってしまうと「金、暴力、SEX」です。
う~ん、ここはどうでしょう。
ぼくにこうしたことを論じるだけの知識や見識はないのですが、人間の本質が「暴力とセックス」であったのは太古からであり、お金というものが生み出されてちょっとだけソフィスティケートされた、という流れであり、近代もその上にある、ということではないでしょうか。
その意味で、「男は兵士になって戦死するのが一番男らしい」という価値観もずっと普遍的だったのか、ここ数十年でようやく「過労死するのが男らしい」にちょっとだけソフィスティケートされ、ここ二十年くらいで「ニートとして死んでいくしかない」に変わった、という感じではないでしょうか。
>「近代国家の維持のために男性性、女性性が表象された」という議論を最初に構築したのがフェミニズムだったかと思います。
先に書いたように、近代国家についてはちょっと疑問です。
これはもし「ジェンダーというフィクションが、国家によってでっち上げられた」とでも意味でおっしゃってるのだとしたら、やはりそれは違うでしょう。
「男らしさ、女らしさに初めて切り込んだのがフェミニズム」ということであれば、それはもちろんその通りだと思いますが、その成果は非常に偏りと歪みに満ちている、というのがぼくの印象です。
>あと常々疑問に思うのですが戦前に「男性が抑圧されている」と言った人間はいたのでしょうか?戦前の良心的徴兵拒否を調べれば分かりますかね?
すみません、ちょっとこの辺はぼくの手に余るのですが、
>なぜ「我々は抑圧されている!」と主張したのが男性ではなく女性だったのか?という疑問からです。
というこの点については、フェミニズム自体が自由主義思想と共に出てきたものであり、まず「我々は抑圧されている!」と声を上げたのは男性だが、その「我々」は「人間」を指していたのではないか、ということなのではないかと思われます。
二十五年ほど前に出た『男が危ない!』というムック本の前書きには、「man」が「男」という意味と「人間」という意味を含んでいることが象徴するように、「男」は「人間」であった。それは「女」を辺境に追いやっていた側面もあったかも知れないが、同時に男は「人間」という言葉で括られ、放り出されていたのだ、といった主旨のことが書かれていました。
上の件は、それを非常によく表していると思います。
『男性権力の神話』には「男は食うために金を稼ぎ、世の中が豊かになった結果、女は自己実現のために金を稼ぐようになった」といった主旨のことが書かれています。
ものすごくぶっちゃければ、何故女性が最初に「差別されている!」と声を上げたかと言えば、「声を上げられるくらい差別がなかったから」なんですね。