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小説『神神化身』第二部 四十一話  「星見ゆ鳥よ、鳥を仰ぐ星よ」
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小説『神神化身』第二部 四十一話  「星見ゆ鳥よ、鳥を仰ぐ星よ」

2022-02-25 19:00

    小説『神神化身』第二部 
    第四十一話 

    星見ゆ鳥よ、鳥を仰ぐ星よ


     「おっかえりー! ちーくん、コンちゃん、そして入彦(いりひこ)! みんなよく頑張ったわ! お母さんも鼻が高い高い! コンちゃんの尻尾も長い長い!」
     阿城木魚媛(あしろぎうおめ)は満面の笑みでそう言いながら、手にしたクラッカーをパンと鳴らしてみせた。どうやら、戦いを終えた水鵠衆(みずまとしゅう)を労う為にわざわざ用意したものらしい。カラフルな紙テープを顔で受けながら、阿城木入彦は呆れたように言う。
    「なんか……俺らが勝ったみたいになってんじゃねーか……」
    「なーに言ってるのよう! 私が祝うのは勝ち負けじゃなくて頑張ったかどうかよ! 水鵠衆はとってもよかったじゃない! おまけにちーくんと入彦も仲直りしたみたいだし! お祭り好きの阿城木家がこれを祝わないでどうするっての!?」
    「魚媛さん……その節は本当にすみませんでした……」
    「ちーくんは謝らなくていいってば! 喧嘩するほど仲がいいって言うでしょ? そういうものよ! まあ、私とお父さんは喧嘩しなくてもすっごく仲がいいけどね!」
     魚媛がご機嫌にそう言ってくるくると回る。その横で去記(いぬき)だけが「我の尻尾も長い長い……とは……?」と困惑していた。九尾設定にこだわりがある割に、去記はそれらに突っ込まれるのに物凄く弱い。もっとはっきりした設定を作れば一々動揺しなくてもいいだろうに……と、阿城木は毎度思ってしまう。今度、去記の為に設定一覧表を作ってやるのもいいかもしれない。
    「だが、本当に水鵠衆は素晴らしかった」
     魚媛の影からぬっと顔を出したのは、阿城木家の家長である阿城木崇(たかし)だった。相変わらず何を考えているのかよく分からない顔をしているが、喜んでいるのは確かなようだ。
    「よくやったな、入彦。そして……頼まれた例のものは既に冷蔵庫の中に入れてある」
    「ま、マジかよ!」
    「ああ、マジだ」
     それだけ言うと、阿城木崇はのそのそと去っていってしまった。お礼すら言い損ねてしまったのが悔しい。後でちゃんとお礼を言おう、と阿城木は心に誓う。
    「ささ、みんなでご飯食べましょ! たっくさん用意してあるからね!」
     
     魚媛はご飯と称したものの、テーブルの上に並んでいるものの大半はケーキやドーナツというスイーツ類だった。一から十まで七生(ななみ)が考えた夢の献立、という趣である。簡易的なスイーツ王国の建国だ。案の定、七生は目を爛々と輝かせ、どれから食べようかともう既に思案しているようだった。そうして近くにあった草餅に手を伸ばそうとした瞬間、七生がハッとした顔で魚媛を振り返る。
    「えっと、その……すみません。今まで言ってなくて。実は僕……食べ物の味が……わからなくて……」
     後半に行くにつれ声量が小さくなりながらも、七生がそう告白する。ご馳走を用意してくれた魚媛相手に秘密を明かさない……というのは気が咎めたらしい。そこまで神経質にならなくていいだろうが、七生らしい態度だ。告白を受けた魚媛は何度か目をぱちぱちとさせていたが、やがてにっこりと笑った。
    「あら、そうだったの? それでも美味しいって食べてくれて、ありがとう。ちーくんの笑顔を見てると、甘いものもしょっぱいものもすっごく美味しく感じるのよね」
     そう言って、魚媛はよしよしと七生の頭を撫でた。七生は気恥ずかしそうにしているものの、少しだけ嬉しそうだ。その様子を見た阿城木も「な?」と笑ってみせる。
    「……何が『な?』だよ。ムカつく……」
    「ほらほら、千慧(ちさと)も早く席に着こうぞ。我はお腹がぺこぺこなのだ」
     去記に促されると、七生はようやく席に着いた。そうして、改めて目の前に広がる光景に顔を綻ばせる。それを見て、改めて七生に笑顔が戻って良かった、と思う。結局のところ、阿城木が一番安心するのはこの笑顔を見た時なのだ。
    「先に聞いとくけど、お前、味が分かんねーだけなんだよな? 匂いとかは分かるよな。メイプルシロップだの黒蜜だのに反応してたし」
     七生の感想の中には甘い匂いが良いだの食感が良いとか、そういった内容は含まれていた。ということは、少なくとも七生には嗅覚と触覚は存在するということになる。触覚があることは知っていたが、嗅覚も確かに存在していてくれたことには感謝しかない。
    「う、うん……匂いは分かるから、味覚は無いけど甘いものかどうかの判別は匂いで出来てたかな。ドーナツはともかくとしてさ……。甘い匂いがすると何か甘い物を食べてる気分になれるから、メイプルシロップとか黒糖とか好きだったな。あ、でも、匂いが強くなくても、ケーキとかは味が想像出来て凄く美味しく感じたっていうか…………それに、阿城木が作ってくれたものも……僕の為に丁寧に作ってくれたんだなって思って、美味しかったし……」
    「そうだな。我もわかるぞ。入彦のお菓子には入彦の愛情が詰まっておるのよな」
     んなことねーよ、と突っぱねるには優しい言葉だったので、阿城木は黙る。短期間でレパートリーがあれだけ増えたのは、単に料理を楽しんでいたからじゃない。七生と去記を喜ばせる楽しさを知ってしまったからだ。
    「はあー、でも嬉しい。どれから食べようかな」
    「あ、ちょっと待て七生」
    「なーにぃ? ここでおあずけされると僕の中の野生が火を噴くかもよ」
    「子ネズミが野ネズミになったとこで何だってんだよ」
     言いながら、阿城木は父親が買ってきて冷蔵庫に入れてくれていた箱を取り出す。七生と口を利いていなかった一月余りで見つけたものだ。
    「お前がもっと早く言ってくれりゃあな。こっちも色々出来たってのによ」
    「色々してくれようとするなら今でも遅くないから。存分に甘いものを献上してくれて構わないんだよ──って、何これ?」
    「開けてみろ」
     阿城木がそう促すと、七生は恐る恐る箱を開け始めた。そして、小さく驚きの声を上げる。
    「味がよくわかんねーなら、見た目が楽しかったりした方が嬉しいんじゃねーかなって思ったんだけど」
     箱の中から出てきたのは、目にも涼やかな水色のケーキだった。ケーキ自体がプレゼントボックスを模してあり、上には砂糖で白いリボンのラインが引かれている。
    「……すごい、綺麗だねこれ」
    「なるほど! この色何処かで見たことがあると思ったら、千慧の髪の色なのだな!」
     名探偵ぶった顔をして、去記が得意げに言う。悔しいことにその通りだ。店頭でこの色を見た時、阿城木はすぐに七生のことを思い出した。舞奏競(まいかなずくらべ)を終えた七生が食べられるよう、わざわざ父親に頼んで買ってきてもらったのである。
    「しらすシュークリームといい、これといい……僕と話してない間、どれだけ僕が喜びそうなものを探してたわけ……?」
    「別に探してたわけじゃねーよ。目に付いただけだ。まあ、食い初め記念ってことで……食えよ。お前のブラックホール具合なら、それ食べても他の甘いもん食えるだろ」
    「当たり前だよ! 舐めないでよね!」
    「何でちょっと不服そうなんだよお前」
    「でもまずは……これから」
     七生のフォークが水色のプレゼントボックスを切り崩し、口に運ぶ。そして、心底幸せそうに呟いた。
    「……美味しい。すっごく、美味しい」
    「よかったな。それ、洋梨テイストの……なんか……マスカルポーネチーズ? 的な味らしいから、その方面で想像しろよ」
    「え、これ絶対ラムネ系統のケーキだと思ったのに。そうなんだ……」
     その後も七生は凄まじいペースで甘いものを吸い込んでいった。この一ヶ月を取り返さんばかりの勢いに、阿城木は少し心配になる。このままだと、本当に七生は丸々と肥え太ってしまうかもしれない。
    「あんまり食べ過ぎんなよ……ちさとん……」
    「ちょっと!!! その渾名絶対なんか他意があるでしょ!! やめてよ!!」
     阿城木が真剣に心配しているというのに、七生は怒りつつも食べ続け、その都度食感や匂いについてコメントし、美味しいの一言で締めくくった。七生の言葉に嘘は無い。彼は今、美味しいと感じているのだ。
    「ったくもー! こんなに世の中には甘い物が溢れているというのに、僕から味覚を奪うだなんて不届きすぎるよね! でも、だからこそ味を感じられなくなった時には思ったんだよね。これからはより一層美味しくて高級なスイーツを食べて意趣返ししてやろうって!」
    「奪う……?」
     穏やかならぬ言葉に眉を顰(ひそ)める。そもそも、味覚なんてものがそうそう盗みに入られてたまるものか。だが、七生は冗談を言っているようにも見えない。
    「千慧の味覚は奪われたのか? 全く悪い奴もいるものだ! 泥棒は泥棒でも怪盗さんは我的にアリなのだがな!」
    「そうだね……。でも、これは一応正当な取引なんだよ」
     シュークリームを手に取りながら、七生は真面目な顔で言った。
    「ほら、人魚姫ってあるでしょ? お伽噺(とぎばなし)の。あれは人魚姫が人間になる為に声を渡すじゃない? 僕もそうなんだよ。地上に上がってくる為に、大切なものを引き渡した。だから一応、これは正当な取引ではある」
    「おお……千慧は人魚であったか……」
    「人魚に九尾にで百鬼夜行じゃねえか」
     呆れたように阿城木が言う。
    「いいではないか、百鬼夜行など楽しそうだぞ」
    「楽しそうではあるけどな……おい、七生。さっきの話でいくと、お前は何を魔法使いに貰ったんだよ」
     阿城木が尋ねると、七生は困ったように笑ってから言った。
    「舞う為の足だよ、勿論」
     
     シュークリーム。アップルパイ。おはぎ。草餅。パンケーキ。それに、七生の髪の色と同じだと言って買ってきてくれた水色のケーキ。どの味も自分の舌では感じられないはずなのに、どれを食べても美味しかった。幸せだ、と七生は思う。舞奏競に負けて、大祝宴から遠ざかって、──自分の目的が果たせなくなりかけているのに。
     お腹がはち切れそうなほど甘い物を詰め込めば、きっとカミも嫌な気分になるだろう。これが七生の意趣返しだ。触れ合いを奪われてなお仲間を作り、味覚を奪われてなおケーキを味わう七生は、カミにとっては目障りなはずだ。これじゃあまるで担保にならない。
     甘い物に囲まれながら、七生は舞奏競を反芻する。──九条鵺雲(くじょうやくも)に、覚悟の足りていなさを指摘された舞奏競を。
     確かに、七生は覚悟が足りていなかった。全てを捨てようとは思えないほど、水鵠衆は七生にとって大きいものになってしまっていた。
     だからこそ、七生は別の覚悟を決めるのだ。何も捨てなくていい──七生の選んだ水鵠衆だけは、守れる道を。
    「今回は負けたけど」
     不意に七生がそう言うと、去記も阿城木もぴたりと止まって七生の方を見た。自分達の戴く反逆の覡主に、視線を注ぐ。
    「──次は絶対に負けない。約束するよ。僕が二人を、大祝宴まで連れていく」
    「……当たり前だろ」
    「うむ! 何しろ我は九尾の狐であるからな! 必ずや千慧に勝利をもたらそうぞ!」
     二人の言葉を受けて、七生は楽しそうに笑った。そして、人魚姫のことを思う。彼女は声を渡し、足を貰い、泡になった。彼女の姉は髪を渡し、王子を殺すナイフを貰った。七生が渡したものが声であり髪ならば、まだ自分には渡せるものがあるのだ。
     大丈夫。負けはしない。七生はまだ、戦える。
     
     *
     
     巡(めぐり)が選んだその旅館からは、一面の海が見えた。
     地平線と水平線が混じり合い、一つの大きな青い板に見える。雄大な景色を目の当たりにした佐久夜(さくや)は、一瞬これが現実なのか分からなくなった。これは自分に都合の良い夢であり、目が醒めればまた罪悪感と焦燥に苛まれる朝がやって来るのではないかと。
     だが、そうじゃない。これは御斯葉衆(みしばしゅう)が辿り着き──選び取った現実である。今まで生きてきて、これほど幸福だった一日は数えるほどしかない。佐久夜は喜びを表情に表すのが苦手だが、もし巡のように表情豊かに笑える人間であったなら、きっといつにない笑顔を見せられていただろう。
    「ちょっと佐久(さく)ちゃん、なんでずっと海の方見てるの。オーシャンビューは感動的だけど、そこまで変化のあるものじゃなくない?」
     そう言って、巡がばしゃっと佐久夜にお湯を掛けてきた。佐久夜はゆっくりと振り向くと、呆れたように言う。
    「温泉はそうやって楽しむものじゃないだろう」
    「温泉の楽しみ方なんて決まってないでしょ。文句があるなら俺達と仲良くお話しようよ」
    「そうだね。佐久夜くんってば湯船に浸かるなりずっと海の方を見ているから。何かあるのかと思っちゃったよ」
     小さく首を傾げながら鵺雲も笑う。髪の端から水滴が滴り落ちて、湯船の中に沈んでいった。
     佐久夜達三人が今入っているのは、部屋に備え付けられた露天風呂である。日本庭園風の場所に据えられた湯船は、三人が入っても多少の余裕があるほど大きなものだった。源泉掛け流しのこの湯を、自分達だけのものにしている。
     宿泊料さえ気にしなければ、こんなに豪勢な宿が見つかるものなのだな、と佐久夜は素直に感嘆した。確かに、化身(けしん)持ちである自分達はこうした方法で温泉を楽しむしかない。同じような需要が、他にもあるのだろうか。
     そんなことを思いながら、佐久夜は鵺雲の鎖骨に目を向けた。
     露わになったその場所には、舞奏の才を示す化身がある。
     巡の化身と同じように、鵺雲の化身も変化していた。だが、巡のような広がる変化ではなく、どちらかといえば化身の模様自体が変化しているように見える。鵺雲の化身は雷のようにも鳥のようにも見える形をしているのだが、その翼の部分が──細かくなっているような気がする。尤も、鵺雲の化身の半分は湯の中に滲んでしまって、よく分からないのだが。
    「うん? 化身が気になる? そういえば変化してから見せるのは初めてだものね」
    「いえ、……そういったわけでは……」
    「佐久ちゃん、変な嘘吐かなくていいから。俺のだってじっくり見たじゃん」
    「それは……変化を確認しただけだろう」
     巡はもう化身を握り込んで隠すことが出来ない。握り込んでも、端の部分だけは見えてしまう。元より巡の化身は雷に喩えられる細長いシルエットのものであるから、尚更だった。
    「変化が気になるなら自分のを見ればいいでしょ」
     そう言うと、巡は佐久夜の腹がある辺りに目を向けた。巡の言う通り、佐久夜の化身にも変化があった。
     佐久夜の化身は巡のものとよく似た──雷に似た流線型の文様だったのだが、ここにきての変化で鵺雲の化身の要素を兼ね備えるようになったのだ。同じ國に所属する化身持ちの化身は似るというが、佐久夜の化身を以て御斯葉衆の化身は真の姿を取り戻したようにも見えるのだった。
    「俺のを見たところで比較が出来なければ意味が無い」
    「はいはい。もう化身のこととかいいじゃん。折角温泉まで来たんだからさ、忘れて楽しもうよ」
     そう言って、巡が両手で作った水鉄砲で湯をなおも飛ばしてくる。そうしていると、まるで子供の頃に戻ったかのようだった。昔は佐久夜の方がそれをやるのが得意で、自分が巡にやり方を教えてやったというのに。
    「わあ、巡くんはとっても器用なんだね」
    「こんなの簡単に出来ますよ。鵺雲さんは絶対やったことなさそう」
    「うん。確かにやったことがないね」
    「でもまー、鵺雲さんにはやり方教えてあげないんですけど」
    「意地悪を言うんじゃない。……知りたいですか?」
    「ふふ、僕は大丈夫。巡くんがやっているのを見て楽しませてもらうことにするよ」
     そう言いながら、鵺雲が両手で湯を掬い上げた。まるで初めて温泉に浸かったかのようでもある。化身持ちである彼は、こうした場所に誰かと来ることなど無かったのだろう。
    「こうして海を独り占めにしながらお湯に浸かるのは気持ちがいいね。初めての経験だよ」
    「こういうのもいいでしょ? 鵺雲さんは意味のあることばっかしすぎなんですって。こうしてただぼんやりとぬくぬくする時間も人間には必要なんですよ」
    「巡くんの言う通りだね。御斯葉衆としての結束を深める為にも、これは有効な手立てだと思うよ」
     佐久夜からしてみれば、御斯葉衆の結束は──舞奏披(まいかなずひらき)および舞奏競をした時点で、一定のものになったのではないかと思っている。温泉に入る前から、御斯葉衆は遠江國(とおとうみのくに)の歴史を背負うに足る結びつき自体は持っていた。それが、どのような感情を伴うものであっても。
     奇妙な話だが、佐久夜にはこの御斯葉衆の繋がり──抱えている縁のようなものは、自分達が考えているよりもずっと深く重いものなのではないか、という感覚があった。どうしてこんな感覚を覚えるのかは分からなかった。自分があまりにも御斯葉衆に思い入れているが故に、こじつけているだけなのかもしれない。
    「そうそう。えい」
    「わぷ」
    「巡、鵺雲さんの顔にお湯を飛ばすな」
    「えーいいじゃん」
    「うん、僕は別に構わないよ。巡くんが楽しいなら」
    「別に楽しいってわけじゃ……でもさ、佐久ちゃんとこうして一緒にお風呂入るのも久しぶりだね。小さい頃はすごい頻度で一緒に入ってたけど」
    「栄柴(さかしば)の家の風呂は広いからな……」
     それこそ、一般的な温泉に引けを取らない広さであった覚えがある。古さについては巡がよく文句を言っていたが、それを差し引いても立派なものだった。
    「だから知らなかったよ。佐久ちゃんってお風呂入る時もピアス外さないんだね」
     巡がやけに嬉しそうに目を細めるので、佐久夜は頷いた。
    「ああ……そうだな。外すのは消毒をする時くらいだ」
     最初は巡が『穴が塞がらないように、なるべくずっと着けておけ』と言ったから、それに従っていたまでだ。だが穴が安定し、二度と塞がらないようになっても絶えず着け続けているのは──今ではこれが佐久夜にとっても良い思い出だからだったのだろうか。
     自分の今までの人生には罪悪感以外もあったのだと、佐久夜は今更ながら気づきを拾い集めている。
     
     意外なことに、ここでの食事はフランス料理だった。部屋に運ばれてきた料理にはそれに合うワインが付いており、それが巡のお気に召したようだった。巡は上機嫌でワインを空け、鵺雲も嗜む程度に酒を飲み、佐久夜はそんな二人の様子を見ながら、黙ってノンアルコールビールだけを口にしていた。
    「なんか俺だけ飲んでるみたいでアレなんだけど……」
    「僕も程々に楽しんではいるけど……やっぱり巡くんほどではないね」
    「ねー、佐久ちゃんは飲まないの?」
    「飲まない」
     佐久夜はきっぱりと断る。佐久夜はどんな場であっても、基本的には酒を飲まない。巡を送り届ける為に車の運転をしなければならないし、酒で前後不覚になっている時に、万一巡に何かあれば、栄柴家の従者である秘上(ひめがみ)家の名折れである。
     佐久夜が酒を口にするのは祭事で求められた時と、そうでなければ巡と部屋で二人きりで飲む時くらいだ。そういう時の巡は佐久夜に必要以上に飲ませようとするものの、大抵が〝今のような結果〟に終わっている。
     ──食事が終わっても巡はマイペースに酒を飲んでいたが、気づけばテーブルに突っ伏したまま眠ってしまった。
    「巡くん、起きないみたいだね」
    「ええ。大分飲んでいましたから。後で、俺が寝床に運びます」
     佐久夜は薄い掛け布団をその背に掛けてやりながら言った。薄い浴衣一枚では寒いだろう。
     本当は今の時点で運んでやりたいのだが、穏やかな寝姿を見ているともう少しこのまま寝かせておきたくなってしまった。
    「巡が酔って眠るところを見るのは久しぶりです。最近はこのような機会もあまり無かったので。……よほど楽しかったのでしょう」
    「そうなんだね。巡くんがこの小旅行を楽しんでくれたのだとしたら、僕もとても嬉しいよ」
    「巡には旅行の経験すら殆(ほとん)どありませんから」
     あれだけ奔放に遊び回っているように見えて、巡の行動範囲は異様に狭い。まるで、遠江から離れることを自らに禁じているかのようだった。栄柴の嫡男が余所に行くなどありえない──一番強くそう思っているのは、巡自身であるのかもしれない。
    「……それに俺も、巡が遠江から離れることには抵抗がありました。一度でも軛(くびき)が外れれば、巡はもうここに戻ってこないのではないかと思って」
     言葉にしてしまえば、傲慢で浅ましい思いだ。だが、佐久夜にとってはそれが何よりの恐怖だった。
    「だが、今は違います。御斯葉衆の栄柴巡は必ずや大祝宴に辿り着き、今後千年の舞奏を語るだけのものに堕す。そうすれば、何も恐ろしくはない。巡は遠江を離れて好きな場所に行くことが出来る」
     そして、今の佐久夜はその別離を恐れずともいい。巡と離れがたいのであれば、何があろうと彼を見つけ出せばいいのだ。自分がただ巡を追いたい。それだけでいい。
     だからこそ、佐久夜は聞いておきたいことがあった。
    「……貴方は栄柴巡の舞奏(まいかなず)を認めてくださった側のはず。であれば──巡が栄柴家を、そして舞奏を終わらせたいと願っていることを、惜しく思われるのではないですか」
     それこそ、かつての佐久夜のように。栄柴巡の舞奏こそ真の意味での至高だと信じられていなかった、愚かな自分のように。すると、鵺雲はゆっくりと首を振った。
    「いいや。巡くんがそうしたいのならば、僕が止めるつもりはないよ。栄柴が控え子を置いていないことにも、色々と事情があるのだろうし。歴史と血の重みは確かに重要であるけれどね」
     その返答も、佐久夜にとっては意外なものだった。きっと鵺雲は栄柴の家が舞奏の名家で無くなることを憂うだろうと思っていたのに。それは、自分達の舞奏が全てにおいて秀で、今後千年超えられることのない舞奏として完成すると、鵺雲も信じてくれているからなのだろうか。
     それは、単なる佐久夜の希望的観測であるような気がした。鵺雲の考えは、もっと別のところにある。だが、佐久夜にはそれが窺えない。
     酒を入れたからか、鵺雲の頬は微かに赤らんでいる。彼も普段は酒を飲まない方だろうし、体質的にもそう強くはないらしい。
    「それにね、僕の願いは舞奏の豊穣なんだ」
    「ならば、栄柴の血を継ぐことが、貴方の奨するところなのでは?」
    「僕の考える豊穣と、君の考えている豊穣は意味が違うんだよ」
     鵺雲がはっきりと言った。浴衣の襟元から、彼の化身が見えている。
    「そこは、最早問題じゃないんだよ。僕と真の意味で似通った人間なら、きっと同じ結論に辿り着く。舞奏というものの本質を見抜いているなら、もう辿り着いているかもしれない」
    「同じ結論……」
    「そう。たとえば、僕と同じ世界を見ている人間なら」
     鵺雲が誰のことを想定しているのか、佐久夜には分からなかった。代わりに、もう一つ別のことを尋ねる。舞奏競が始まる前に指示された、とある事柄についてだ。
    「今となっては機能しないことですが……。貴方に言われた通り、手紙を出しておきました。万が一にでも御斯葉衆が敗北した場合は、目を通して頂けるようにと」
    「幸いながらそうはならなかった。良かったよ。もし負けていたら、やり方を変えなければいけなかったから」
    「どうして昏見有貴(くらみありたか)にあのような内容の手紙を?」
    「萬燈(まんどう)先生は自分の考え方を曲げるような人じゃない。彼の心を変えさせるのは無理だ。一方で、皋所縁(さつきゆかり)も対話を拒絶する側の人間だろう。彼の持っている願いは相当根深い。願いが彼そのものであるから、揺らがない。となれば、取引の余地があるのは昏見有貴くらいなんだよ。あの血筋なら、目的の為に手段を選ばない。だから、切り崩せるとしたらそこしかないんだ。彼は仮初めの結束より、自分の目的の為に動く」
     鵺雲は滔々とそう言った。佐久夜は鵺雲にお願いされるがまま、指示に従った格好になる。本当にあの手紙を出して良かったのか──そもそも、果たしてあの文面で良かったのかも分からない。──御斯葉衆が勝った以上、あの手紙が日の目を見ることはないのだろうが。
    「僕は君が思っているよりもずっと、御斯葉衆の勝利を喜んでいるよ。この三人で居られることを喜んでいる。今後千年の舞奏を語るに堕すものにする、というのは僕には無い発想だった。佐久夜くんは、色々な意味でとても興味深いよ。巡くんよりも君の方が、ずっと腹の底が知れないもの」
    「…………それについては、恥じ入るばかりです」
    「いいや。それでこそ、君がここにいる理由になるんだ。……ふふ、温泉はとても楽しかったよ。巡くんが起きたら、ちゃんとお礼を言わなければね」
     鵺雲の考えていることが分からないので、佐久夜はどう反応していいのか分からない。だが、今ここに居る自分達も、これから先遠江を離れることになるかもしれない自分達も、等しく鵺雲と一蓮托生であるのだ。
     その時、眠っている巡が小さく声を上げた。その表情が未だ穏やかなことに、佐久夜は密かに安堵する。






    著:斜線堂有紀

    この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。


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