土曜の夜、TBSラジオから流れる「ワインレッドの心」を聴きながら書いている。
大人のためのリクエストプログラム「オトリク」玉置浩二&安全地帯祭りの1曲目。活動休止期間はあったものの32年間メンバーチェンジしていない安全地帯のファンである私は、この日を心待ちにしていた。
「サーチライト」以外は、全て玉置さんがステージで歌う姿を生で見たことのある曲ばかりだった。ラストナンバーはリクエスト1位の「悲しみにさよなら」。
この曲がリリースされた1985年当時、私は小学5年生だった。松田聖子が「天使のウィンク」を、中森明菜が「ミ・アモーレ」を歌っていた。懐かしい。「悲しみにさよなら」でラジオ放送の終了と共に減灯され就寝時間になってしまったので、ここからは日曜に記している。
前回から10日も空いたのは、忙しかったのだ。とっても。
出廷日以外は平日全てに面会の予定を入れており、その中に取材もあったことで慌ただしい日々を送っていた。 新聞を読み、面会で話し、手紙を書き、原稿の執筆をし、読書するという私のルーチンが崩れたのは裁判があったからではなく、ひとえにこのブログの反響から対応に天手古舞いする事態になってしまったのです。
次々と届くEメールとコメントのプリント、郵送の手紙、電報、資料、本。それらに目を通すだけで精一杯。 と言うのも拘置所では私物保管限度量が決まっており、棚や衣類かごやバッグに収納し、下着から洋服、日用品、食品、本や書類をその範囲内で自己管理しなくてはいけない決まりになっていることから、届いた物をいつまでも手元に置けない事情があるのです。
「所内生活の心得」や「順守事項」の冊子に数字は明文化されていないが、私は東京拘置所の幹部から私物を120リットル以内に減らすよう指導を受けたことがある。この顛末は涙なくして語れない。そのことを書くにはもう少し時間が必要です。思い出すだけで泣けてくるから。
私は埼玉から容量55リットルの箱に入れた荷物を20個持参し東京拘置所に移送されたのです。箱の他に、低反発マットレスと敷布団、毛布とタオルケット、羽毛の掛け布団、低反発枕もあった。この枕は、帝国ホテルのスイートルームのキングサイズのベッドに置かれている枕くらいに大きくて寝心地抜群のお気に入りだった。
こんなにたくさん荷物を持って移送されてきた人はいない、と職員たちは唖然として、男性幹部たちまで荷物を運び入れた新入調べ室を入れ代わり立ち代わり覗きに来ては目を丸くしていたので、本当に珍しかったのだろう。
埼玉の拘置所は、それだけの私物を所持することを認めてくれていたわけです。それを2箱にするのは、本当に大変だった。今では常に「私物保管限度量」を意識して生活しています。
一番苦労しているのが本の管理。まず読みたい本のリストを作り、外部の複数の人に差し入れを頼みます。誰にどの本を買ってもらうかを振り分け、送る順番とタイミングを指示し、受け取ってから読了後の宅下げと面会のスケジュールを組みます。
このマネージメントが案外大変なのですよ。
依頼する相手がアマゾンで注文する人か、利用する本屋は丸善かジュンク堂書店かリブロか紀伊國屋書店か。古書店やブックオフにも行ける人かまで把握し考える。場合によっては国会図書館まで足を運べるか、大宅壮一文庫から雑誌のバックナンバーを取り寄せてもらえるかまで尋ねておく。
私が頼んでからどの位の日数で送ってくれるか、検閲に何日かかって交付されるか、その本を何日で読み終えるか、宅下げの検査と手続きに何日かかり窓口で受け取れるようになっているかを予測し、カレンダーを見ながら予定を立て、手紙か電報で相手に知らせる。家の広さを訊き、再び同じ本を差し入れてもらう必要が生じる日まで保管するためのスペースがあるかを確認し、了承を得られれば預かってもらう。借りるという形で差し入れを頼み、返却するために宅下げすることもある。気心の知れた人には郵送宅下げも利用する。 面会しないと窓口で宅下げ本を受け取ることができないので、スケジューリングが重要なのだ。宅下げ願を提出してから1ヶ月以内に引き取りに来てもらわねば、窓口から居室に戻ってきてしまうのです。何しろ数千人いる施設だから、いつまでも宅下げ交付窓口に荷物を置いておくわけにはいかないということです。
私と交流のある人は仕事が忙しい人ばかりだから、予定を合わせるのがほんっと~に大変なのです。パソコンやスマホを使える人には私のこの苦労が実感としてわからないかもしれない。
1週間に5通の手紙と、平日の早朝にしか打てない電報だけでスケジューリングするには結構頭を使います。平和な日常でさえ頭をフル回転させている私に、ブログの件で大騒動。一応弁護人には事前に伝えておいたのですが、多分呆れてる。もう諦めてる。苦笑する顔が引きつってましたもの。
そんな最中の判決公判は、朝の7時45分に小菅の平和橋通りに出て、8時半に東京高裁到着。
控訴は棄却され3人の弁護人と高裁の面会室で接見した。
日比谷公園、ザ・ペニンシュラ東京、和光や三越、歌舞伎座と銀座の街並を車窓から眺め、高速道路から隅田川に浮かぶ屋形船をぼんやり見ているうちに小菅ヒルズに到着。
5時10分。 この日の夕食は、初めてお弁当を注文しておいた。何と門の外の差入屋からの納入だった。前の週の水曜に「弁当購入及び支払願」用紙に喫食希望日を書き提出しておくと、翌週の昼と夜だけお弁当が届けられる。1枚の願箋で20食まで注文可能で、お弁当の単位は「本」。
私は12日の夕食のみ1本注文した。もう2度と注文しない。あんなお弁当に500円払うなんて信じられないわ。拘置所の炊場で作られる食事の方がずっと美味。お弁当を注文する人は白飯に執着があるか、味の濃いおかずが好きか、官が与えるものは拒否したい思想の持ち主じゃないかしら。あのお弁当毎日食べていたら、確実に寿命が縮まると思うよ。
私に直接届くブログの反響で一番多いのは青木理さんのことでして、青木さんと仕事をしたことのある人達から、青木氏はあなたが記しているように見識と情熱があるジャーナリストですというメッセージを頂き、嬉しく思いました。そして、青木さんにコメントを求めた人達から伝え聞く、青木さんの困惑ぶりと素っ気ない言葉に泣きそうになりました。失恋した気分です。
判決公判後に面会した「女性自身」と「週刊文春」の記者から、青木さんが12日に傍聴していたと聞いた。見つけられなかったよ~。折角来て下さったのなら、退出時に最後まで残るくらいのサービスがあっても良いじゃないですか。
一目でもいい。生の姿を見たかった。
上田さんとは会って話しているというのに、私とは目も合わせてくれないなんて……嗚呼!ショック。
私は102号法廷で、2年間交流のある朝日新聞と光文社の記者さえ見つけられなかったというのに、付き合いの浅い週刊文春記者が傍聴席にいるのを発見してしまった。
何と彼女、報道記者席の2列目の端に座ってた。被告人席から最も見えやすい位置。そこの席をなぜ青木さんに譲らなかったのだ!私がこれ程、青木さんに胸が焦がれているのを知ってるのに。
文藝春秋はあんな良席を確保できたのなら、腕のいい画家か青木さんを座らせるべきでしょうよ。文春編集長、判断ミスじゃないですかッ!時すでに遅し。はぁ。悲しい。
面会室で会った文春記者が誰かに似てるなぁと思ったら、今週見た雑誌に載っていた女の子だった。それは「バービー」。
ウィスコンシン州ウィローズ出身の女子高生、バーバラ・ミリセント・ロバーツ。「女性自身」と同じく今年で発売55周年というバービーの特集で見た、2013年のCOACHとのコラボモデルのバービーに彼女はそっくりなのだ。大人の女性向けのバービーコレクターラインそのもので、誰が見ても美しいと感じる端正な顔立ちと、それを際立たせる行きすぎないヘアメークが特徴のバービー。
文春のバービー記者は50年代のクリスチャン・ディオールのテーラードスーツのようなエレガントな装いで面会に現れる。顔も体も髪の長さもバービー人形そっくりの記者。美し過ぎて怖いです。
私は一審からずっと、小柄でちびまる子ちゃんっぽい可愛らしさのある女性新聞記者の取材しか受けてこなかったから、綺麗オーラ振りまく彼女にまだ慣れません。ちびまる子ちゃん記者も、この2年でぐっと大人の女性になったことに今週気付いてしまった。バリカンでは決して出せない、オシャレにカットされた前髪が横殴りの風に吹かれたように斜めに流れていた。巧く表現できないが、褒め言葉です。私は化粧をせずに生きてきたから、正直言って2人の女性記者がメイクをしているのかわからない。もっと言えば、ちびまる子ちゃん似の彼女が、どんな服装だったか全く覚えていない。色さえ記憶にない。男性のルックス描写はいくらでも出来るのに……。
私は出版社の男性記者と男性編集者と男性弁護士の爪の写真を見たら、個体識別できる自信があります。誰がどんな爪の形をしているかすぐ思い浮かびます。3回前までなら、彼がどんな服装だったか覚えています。出版社の彼は自宅に衣装部屋があるのではないかと思うほど、何十回会っても同じ服を着てきたことがないし、私の弁護人もかなりの数のスーツを持っているオシャレ揃いである。支援チームの彼らは、ちょっと高価でも格好良くて上質な物を選ぶ人達だ。今日はどんな服を着てくるのかなぁと、ワクワクしながら彼らの面会を待つ時間が私はとても好き。
15日の朝、東京高等検察庁から弁護団が12日に上告した旨が記載された上告申立通知書が届いた。今後は上告審に向けて準備を進めます。親しい人達とのお付き合いを優先しながら、私の日常や思いも発信し続ける予定です。
控訴が棄却されても、私は変わりません。