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小池龍之介さんに聞く!「瞑想とは何か?集中しようとしていませんか?」【前編】
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小池龍之介さんに聞く!「瞑想とは何か?集中しようとしていませんか?」【前編】

2018-01-30 23:00
    こんにちは。翻訳者&エディターの松本恭です。

    今回の「楽しい瞑想」では、僧侶で瞑想指導家の小池龍之介さんに、「心のクリーニング」や「瞑想のポイント」というテーマで、瞑想を通じた心の扱いかたを教えていただきました。

    考えない練習』、『苦しまない練習』(共に小学館)など、仏教の教えに基づく多くの著作を執筆している多忙な作家でもある小池さんは、毎月鎌倉の稲村ヶ崎にある「月読寺」で坐禅会を開催し、多くの人に瞑想指導を行っています。瞑想会や各地の出張講座のスケジュールは、ウェブサイト「家出空間」で確認できます。

    「月読寺」の坐禅会では、午前中が初心者向けの指導、精進のおむすびを食べながら行う「食禅」を挟んで午後は坐禅経験者を対象とした指導(座る瞑想、歩く瞑想、質疑応答)が行われています。朝から参加すると7時間以上、ひたすら瞑想を行います。

    長時間の瞑想は、意識が散漫になりがちで、長く坐ったわりにはあまり意味がなかったということになりがちですが、とくに午前中の初心者のための指導では、気を散らす間もないほど降り注ぐ「言葉のシャワー」によって、クリアな状態を維持することができました。

    瞑想で心をクリーニングするには

    ーー瞑想って、「瞑想するぞ」と構えるとできないけれど、はっと気づくと瞑想状態に入っているような気がします。

    瞑想状態になりたいという欲望とは、時間軸でいうと心が未来に向いています。「心を静かにしたいよー!」という欲望というのは、今が静かじゃない状態であるとして、今の状態をありのままに見つめるということから心が離反しており、どこか素敵な場所に走って逃げ出そうとしている状態です

    心を片付けたいというのも同じことで、現在、片付いていない状態であるとしたら、片付いているすてきな状態をイメージし、早くそこに向かって逃げ出したいというような気持ちで、今のありのままの状態に心が調和しておらず、離反してしまっています。

    ある観点からすれば、人間の苦しみというのは、今この瞬間のいろんな感覚や感情というものから心が離反してしまい、「今」というものから隔てられてばらばらになってしまっているところにあるといえます。

    けれども、皆さんがここに瞑想の取り組みに来る最初の動機というのは、たいていの場合、その動機のせいでまさに「今」から隔てられているようなことなのです。たとえば悩みを解決したいとか、イライラしないようになりたいとか、心がきれいな状態になりたいとか、集中できるようになりたいとか、もしくは感情が乱れているからそれを静かにさせて心を掃除したいとか。どれをとっても、今の状態が気に入らず「今」から離反しているんです

    ここで取り組んでいるうちに何らかの気付きが得られて、結果として心が開放されてくるとすれば、皆さんを駆り立てている動機に関して、その動機を解毒せざるを得ないようなメッセージを送り続けているからとも言えます。今そのものの中に心が留まるように誘導しています

    「ああなりたい」とか「こうなりたい」という欲望を脇に置いておき、そして逃げ出そうと思っていた、今のこの状態というところに心が留まるようになってくれば、結果として心のクリーニングが始まります。でもそれは、みなさんがクリーニングするわけではないですよ。「この問題を私がクリーニングしたい」とか、そういう具合にしてクリーニングが起きるわけではないのです。

    瞑想中には、身体レベルでも、過去の感情が埋め込まれた身体レベルのものとして、とても不快な感覚や熱を帯びたような感覚、痛みや引きつりとして浮かび上がってくることがしばしばあります。またそれに相応して、記憶の中からいろいろなことを思い出すこともあります。

    でもそれは、「私」がこの記憶を解決したいから思い出すというふうに、主観的に選ばれたものであることは決してあり得ず、このタイミングでなぜ思い出すかということは、本人にはまったく理解し難いような形で表れてきますし、身体の未解決の問題が立ち現れてくるのも同じことです。

    ですから、みなさんが心と身体の掃除をするわけではなくて、人格的な主体はいないんですよね。誰が掃除をするかではなくて、掃除が始まるような心と体の状態が準備してあれば、クリーニングのプロセスが自ずからスタートします。そのことを私は、ちょっと冗談めかして全自動洗濯機というような言い方をしているのです。

    「求める」ことは害悪でしかない

    ところが、仮にそのプロセスが始まったら始まったで、みんなとても興味を持ち、どうすればもっといい具合にいくだろうかと、心の見つめ方を工夫するようになるのですが、そういった工夫もまた邪魔でしかないのです。ただ起きているプロセスに、こうなりたいとかああなりたいとか、解決するといいなとか、主観的な思いや感情を乗せると、その自然な浄化のプロセスを妨げることにしかならない

    瞑想を始めた人が初心を脱しかけるなかで、スランプに陥るとすれば、「瞑想をしたらこういう精神状態になり、こういう体の状態になって、こういう気持ちよさが得られる」というのをパターン化して覚えてしまい、そのような状態を再現するということを目的にして取り組むということがあります。

    そのようなことを求めないから、その状態になれるのであって、求めてしまっているなら、単に「そうなりたい」と欲望しているだけですから、また心が「今ここ」を離れ、未来に向くんですね。未来といってもいいですし、過去の体験を振り返っているという意味では過去と言ってもいいですが、過去から投射して未来を見ているので、するとまた今に心が留まらなくなり......というようなスランプを通じて、結局のところ「求める」ということは心に害悪しか与えないことをよく思い知り、そのためにスランプに陥っているということをよく学習したなら、抜け出してまた一歩先にすすめるでしょうし、そのことが自覚できなればそこで潰れて、いやになってやめるということもあるでしょう。

    ーー 求めるということは害悪でしかないんですか?

    そうなんです。このことを繰り返し体験して知っていく中で、求めるということの意味の無さを知っていくに従い、瞑想というのは、とても、ある意味簡単なものになっていきます。ものすごく簡単です。

    ただ単に、今この瞬間の状況に対して、心をあるがままに任せてしまえば、その瞬間から何の矛盾もなく、瞑想の中に調和していくからです。初心のうちは、瞑想に関して四方八方にいろんな欲求が張り巡らされているので、それが非常に邪魔をしており、その張り巡らされているものが、ほんの一瞬ふっと消える瞬間を待つしかない。それがふっと消えたときに、深く入っていくことができます。

    ただそもそも、いろんな欲求を張り巡らす癖みたいなものが落ちてきてしまえば、空(くう)の中へ立ち返っていくのは非常に容易なのです。風の音でも線香の匂いでも、時計の音でもあるいはふっと考えた、「今何時だろうな」と考えたその考えからでも、対象は五感や思考の何であっても、その感覚の裏に何も求めずふっと入り込んでしまえば、そこが常に空の瞑想状態の中なのです。ですから、ことさら「入ろう」とか「瞑想しよう」とかいうよりも、いつでもそれは戻れるところとしてあるのです。

    ーー 水の流れや宇宙の光などのイメージを使った指導は、すごくリアリティがあってわかりやすかったです。

    そのイメージとは、聞こえるものや見えるもの、体の感覚や考えなどは、実際はこの脳の中で適当に発火しては消えていき、また発火しては消えていく、取るに足らないものに過ぎず、その取るに足らないものに人はいつも夢中になって溺れているんですが、溺れずにその背景に心を持っていく。パチパチ生じたり消えたりしている事象の背景まで心を退かせ、それらの背後を空に立ち返ったところから見ている。実際に心は本質的にそのように動いているのですが、そのような現実の模式図になるようなイメージを提供することで、その状態に入りやすくするよう狙っているといったらいいでしょうかね。

    たとえば、これを読んでくださっている人には、何らかの今一番気にしていることがあるはずなんですが、現象の裏側という観点から言えば、その人が今気にしていることのために使っている脳の神経細胞と、それを気にしているとき使っていない神経細胞の数の比率はどうなのか、ちょっと自覚してみるといいと思います。

    ほんのいくつかの神経細胞に電気が通って、それを気にしているでしょうけれど、そのとき何千億という神経細胞は使われていないわけです。つまりほんの小さな点がぱっと瞬き、真っ暗なだだっ広い空間の中に電気的な刺激が一本だけぴしっと走った場合、その電気的刺激のほうに目を奪われてしまいますが、よくよく見たら、ものすごく広大な漆黒の領域のほうが圧倒的に広くて、こっちのほうが広々として意識を向けるのに都合がいいじゃないかということに気づけば、ただそれだけの話なんですけどね。

    ーー 悩みといっても、それは本当に広い宇宙の小さな光の一瞬ですよね。

    そうです。冷静になってみると、そちらのほうがあまりにも広いので、そっちの意識(空の意識)のほうがある意味簡単な上に、なおかつそこに意識を向けるととても安心なうえに幸せなのに、ぴしっと走る小さな電気的な刺激に気を取られてしまう。ものすごく広い領域の中を雷がバリバリっと通ったとして、雷に気を取られるのをやめれば、漆黒の安心な領域が広がっていることが感じられますねとも言える。

    たとえばこのように、脳の中で使われている領域と使われていない領域という例えをするなら、使われているわずかな場所に意識を向けがちなんですけど、使われていないほうの場所はもっと大きくて安心だね、というように、使われていない領域の広さをイメージ的に自覚しやすいよう、模式的なイメージを提供しているという感じです。

    >> 後編は1/31公開予定

    <小池龍之介さんプロフィール>

    1978年生まれ。山口県山口市出身。月読寺(神奈川県鎌倉市)住職。東京大学教養学部卒。自身の修行を続けながら、月読寺ほか各地で一般向けに坐禅指導を行っている。著書多数。

    Photo / Eiichi Matsumoto

    RSSブログ情報:https://www.mylohas.net/2018/01/meiso09.html
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