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運動習慣がある人も脳卒中に襲われる! その怖さを体験者が激白
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運動習慣がある人も脳卒中に襲われる! その怖さを体験者が激白

2020-02-23 18:00
    image via shutterstock

    普段から体を鍛えている人でも、突然倒れることがあります。

    ローラ・ピューさんは、ハーフマラソンは8回挑戦し、すべて完走したスポーツウーマン。しかし、38歳で脳卒中に襲われたといいます。ローラさんの手記から、突然の脳卒中の恐ろしさを学びましょう。

    忙しく過ごしたクリスマス前夜

    ローラ・ピューさん

    脳卒中になりやすい典型的なタイプではなかった私。脳卒中がおきたとき、私は38歳でした。それまでにハーフマラソンを8回完走していましたし、日ごろからマラソン完走のための体づくりをして、バランスの取れた食事も摂り、トレーニングで体も鍛えていました。

    仕事もかなりハード。私が担当していたのはNBAのチームなどスポーツチームのサンフランシスコでの宿泊手配。2013年のクリスマス前のあの金曜日は、結局4時間しか眠らず、翌朝は母のところまでクリスマスプレゼントを届けに、約150km運転。そして日曜日の朝も、別のチームとのミーティングを予定していたのです。

    しかしその前に、私は生死をさまようことに。

    実をいうと私は脳卒中を起こしてもおかしくない状態でした。数年前から慢性的な頭痛に悩まされていたのですが、食べ物の過敏症のせいだろうとタカを括っていたのです。自然療法医に診てもらったとき、看護師が血圧を2回測りなおさなければならないほどの高血圧で、「もし血圧が下げられなければ、緊急治療室(ER)へ」と看護師から告げられるほど。それでも当時の私にとっては、血圧もマラソンのタイムや給料と同じ、ただの数字でしかありませんでした。

    普段から健康に気をつけていた

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    その後、自然療法医の指導の下、薬に頼らずに血圧を下げることはできました。牛肉、食品の着色料、レモン、バナナといったような炎症を誘発する食品を避けるように気をつけたのです。もちろん塩分も。

    間もなく、私たち夫婦は引っ越し。新しく始まった仕事や趣味の忙しさにかまけて、健康に気が回っていませんでした。以前ほど食事に用心せず、おかげでまた血圧が跳ね上がっていたのでしょう。脳の異変で気づいたんです。

    あの土曜日の晩、夫はクリスマスを親戚と過ごしに、先にコロラドへ向かっていました。ひとり家に残った私は、目覚ましを7時にセットしてベッドに。翌朝目覚ましが鳴ったとき、私の世界は激変していたのです。

    顔・腕・言葉がいつもと違う!

    頭がぼんやりとしていましたが、寝起きだからだと思いました。それから目覚ましを止めようと携帯に手を伸ばしたとき、右腕にしびれを感じ、手を開くことができません。しかし「変な寝方をしたのかな」と思ったのです。ベッドから出ようとしましたが、右脚のひざから下に感覚がありませんでした。それでやっと何かがおかしいと怖くなりました。

    感覚のない脚を引きずって鏡の前までいくと、そこには顔の右半分がゆがんだ自分が映っていたのです。私はすぐに携帯を取って、Googleで「脳卒中症状」と検索。

    表示された米国心臓協会のサイトで、脳卒中の警告サインの頭文字を取った「FAST」を発見。Fは顔のゆがみ(Facial drooping)、Aは腕の脱力感(Arm weakness)、Sは言葉の障害(Speech difficulty)、Tはここに挙げる症状がひとつでもあれば、すぐに救急車を呼ぶこと!(Time to call 911)でした。既に私には当てはまる症状がふたつも。言葉の障害もそのうち起こりそうな状況。4番目の指示に従うのが一番合理的なのに、私は母に電話をしていました。

    脳卒中は時間との闘い

    倒れる前のローラと母親。

    母は、病院でソーシャルワーカーとして働いていたので、私が症状を説明すれば「早く救急車を呼びなさい!」と言ってくるものだと思っていました。けれどもそのかわりに「まだ何もしないで。私がすぐそっちに向かうから」と言ったのです。すぐに来るなど、ヘリコプターでも使わない限り無茶な話。だって母は150kmも離れたところに住んでいたのですから。しかし、私も母に言われた通りにしました。私の脳がむしばまれ続けるその間も、1時間半ちかく何もせず、とにかく待ち続けたのです。

    日ごろERで多くの時間を過ごしている母は、ちょっとやそっとの事態で慌てるタイプではありません。しかし、到着して私を見た母の表情の中には、はっきりと恐怖の色が見て取れました。母は直ちに私をERへと連れて行きました。受付の看護師はチラリと私を見ただけで「脳卒中」と医師に電話で伝えていました。

    母は、すぐに病院へ行くように私に言わなかったことを、いまでもとても後悔しています。「ローラはいつも健康な子だったから、命にかかわるような事態になるなど微塵にも思わなかった」と。「脳卒中が起こったら“時間”との闘い。私と同じ間違いを犯さないで。症状があれば、直ちに救急車を呼んでほしい」と母は言います。

    正しく答えているつもりだったが……

    ERでは、看護師が脈拍などを測りながら、「ローラさんは口からヨダレが垂れていますが、これは普段もですか?」と、あたかもそこに私がいないかのように母に聞きました。医師や看護師が入れ替わり立ちかわりやってきて、「名前は言えますか?」「今日が何曜日か分かりますか?」「今どこにいるか分かりますか?」と私に繰り返し尋ねてきました。

    最後の質問への答えは誰の目にも明らかで、とにかく私は大変な状況にいることは分かりました。それでも私は抵抗して、「私はまだ38歳で、タバコも吸わないし、いつも運動している。お酒だってたしなむ程度。だからこんなのおかしい」と誰かれ構わずに言い続けました。

    けれども、私のろれつは回っておらず、頭もぼんやりとして、手足を動かすことができません。症状はどんどん悪化し、大統領の名前を聞かれたにもかかわらず、日付を答えたときに、まわりはより騒がしくなりました。当直の神経科医は「あなたは脳卒中になったのです」と断言しました。そう言われてもなお、私は「ああ、軽いものでしょう」と現実を認めませんでした。

    虚血性脳卒中になってしまった

    image via shutterstock

    医師はそんな私の目をしっかりと見つめ、「いいえ、非常に危険なものです。あなたの命を守るために最善を尽くします」と言いました。それは虚血性脳卒中と呼ばれるもので、血栓が動脈に詰まって、脳に十分な血液と酸素が供給されなくなることで生じる脳卒中でした。

    診断がつくと、それ以上現実を拒むことはできませんでした。何も知らずにコロラドにいる夫のアーロンにも知らせなければなりませんでした。私の母から突然来た「今、緊急治療室にいる。ローラが脳卒中になった」というメールをみた時の夫はどんな気持ちだったのか。

    「切っていた携帯の電源をつけたら、義母からのメールが。書いてあったことにぞっとした」とアーロン。「ローラは死んでしまうと思った」。アーロンはアスペンからサンフランシスコの病院まで8時間かけて帰ってきて、横たわる私をぎゅっと抱きしめてくれました。私たちは泣いていました。

    その晩遅くに、それまでのバタバタがようやく少し落ち着くと、アーロンは私の症状をメモしたり、晩御飯を食べるのを手伝ってくれたり、髪をひとつに結ってくれたりしました。これまで対等だったふたりの関係が、病人とお世話をする人へと変わったのです。

    「何があってもポジティブでいること」

    病院でのローラ

    翌朝病院から電話で、結婚式に呼んでくれていた友人に出席するのが難しくなったことを伝えました。それで自分が置かれている状況を改めて自覚し、話しながら涙があふれて止まりませんでした。

    電話が終わると、隣のベッドにいるお年寄りがカーテン越しに私に言いました。「お嬢ちゃん! よく聞きなさい。ずいぶん昔に私が脳卒中になったときみたいな間違いを犯してはだめだよ。ポジティブに。最初の2週間にかかっているのだから」と言いました。それから彼女は続けて「トレーニングは全部やるの。そして何があってもとにかくポジティブでいること」と私に言いました。

    それから数日間、私の機能回復のために言語療法士や作業療法士が次々とやってきました。私は短い歩行練習でも疲れ果てていたのです。いつもマラソン大会で私を応援してくれていた夫は、そんな私の姿に愕然としていました。

    「治療の道のりがこんなにも険しいものだとは思いもしなかった」と夫が私に話したことがあります。「でも一緒に頑張ってやりきろう」とも言ってくれました。そして何よりも私を助けてくれたのは、これまでのマラソンやそのためのトレーニング。運動をしていたおかげで、私に体力はあって、機能回復のための土台もしっかりとしていたのです。

    「二度と走るのは無理かも」と医師

    退院したのは、脳卒中が起こってから2日後のクリスマスイブでした。一命をとりとめたこと、それがまるで私へのクリスマスプレゼントのように感じました。家族にとっては、以前のローラとは別人に。それまで私はみんなにスーパーウーマンとして知られていたのです。ストレスの溜まるようなハードな仕事をこなしながら、ハーフマラソンも走り切っていた。それが今では、車から家に入るまでにすっかり疲れ切ってしまう。話すのにも一苦労。足元はおぼつかないローラに。それでも、家族はかいがいしく私のお世話をしてくれました。

    退院後、私の担当医は今後の見通しについて厳しい予測を立てました。「あらゆるリハビリを頑張ったとしても、脳卒中発症前の65%程度まで回復できればラッキーと言えるでしょう」と医師。そして「もう二度と走るのは無理かもしれません」ととどめを刺しました。

    ある意味、逆にあの医師は私のためになったのです。医師のあの言葉が私にやる気を奮い起こさせてくれました。診察室を出てから私は夫に言いました。「私はまた必ず走ってみせる」と。

    アーロンが私のトレーニングのコーチになりました。苦しくて止めたくなっても、あと数回頑張れ、と私をいつも励ましてくれたのです。動かなくなった右手を使うようにと、ビー玉やパズルを買ってきてトレーニングも。過酷なトレーニングで、ふたりの雰囲気が悪くなることもありましたが、それでも夫は「以前のようになれるように全部やるしかない。それか諦めて一生後悔するかだ」と言って私に付き添ってくれました。

    脳卒中の原因は「ストレス」

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    私を担当した医療チームは、脳卒中の原因はストレス関連の高血圧によるものと推定。高血圧の薬とコレステロールを低下させる薬を処方しました。それと私は低用量のアスピリンを毎日服用し始めました。

    栄養士からは、脳の健康によいような食品を摂るようにアドバイスされました。クルミ、ブルーベリー、サーモン、アボカド、有機栽培で脂肪分の少ないタンパク質、オーガニックな生鮮食品など、健康的な脂肪、抗酸化物質、抗炎症物質を含む食品です。また乳製品は人によっては炎症作用があるために控えるようにも言われました。塩分も減らし、カフェインも摂らないようにしました。

    脳卒中の後遺症のひとつに奇妙な症状がありました。末尾にSが付く単語が言えなくなったのです。「Mississippi State Bulldogs(ミシシッピステイト・ブルドックス)」や「San Antonio Spurs(サンアントニオ・スパーズ)」といったスポーツチーム名を多く扱う職業の人間にとって、それは大問題でした。私に全チーム名を読む練習をさせました。

    タブレットを使って筆記の訓練をし、クロスワードを解いて記憶力を鍛えました。そのどれもがとても疲れるものでしたが、何かひとつでも(例えば自分の名前を子どもの落書きみたいにではなく、きちんと読めるように書けるようになったり、きちんと発音できたりした時など)新しいことができるようになれば、マラソンで新記録を達成した時のように盛大にお祝い。自分で靴ひもが結べるようになった時などは(これが本当に難しかった)、オリンピックでメダルを獲れたかのように喜びました

    しかしメンタル面の回復はまた別の話。私は2か月近く睡眠障害に悩んだのです。目を閉じるとまた脳卒中が起きてしまうのではないかと怖くて。夫もまた心的外傷後ストレス障害(PTSD)に。私から電話があると、何かよくないことが起こったのではないかと強い恐怖にさいなまれていました。

    自宅ワークアウトで徐々に回復

    またハーフマラソンに挑戦するつもりでいることを夫に話したことも。「歩いてでも、這ってでも。どんな方法でも、とにかく完走してみせる」と私。担当医はきっと、私は気でも狂ったのかと思ったはず。しかし担当医は、作業療法士からゴーサインが出れば、と言ってくれました。

    というよりむしろ、どうやればマラソンまで自分のコンディションをもっていけるか、私から医師や療法士に指示していました。リハビリのメニューは全てこなし、それ以上にトレーニングを重ねました。しかし、それでもまだ一歩一歩進むだけでも苦しく、ジムに通うなどは論外。

    そこで、家で脳卒中になる前にやっていたワークアウトDVDを試してみようと考えました。そうして、インサニティワークアウトやT25エクササイズプログラムを開発したショーン・Tが私のDVDによるリハビリのコーチとなったのです。T25のワークアウトを始めてちょうど1週間が過ぎた頃から、自分でベッドから出て、家の中を立ち止まらずに歩けるほどに。それで自信が付いて、さらに頑張れました。

    そして家でのワークアウトを始めて3週間が経つ頃には、近所を散歩できるまで回復。以前なら15分程度でまわれたのが、2時間かかっていましたが、それでも私は気にかけません。間違いなく前に進んでいたからです。次に足をシャッフルさせるトレーニングを追加しました。「ローラ、これは難しくなんかない。ナイフの使い方や着替えの練習は難しくて苦しかった。けれど、走るのは私にとっては難しくない」と自分に言い聞かせました。

    4か月後、ハーフマラソンに出場!

    再びハーフマラソンに出場したローラ

    ほどなく仕事にも復帰しました。ひとつには職場にランニングマシーンがあったからです。私は毎日目標プラス30秒走ることを誓いました。それを2か月続けることができれば、必ず結果につながるはずだと思ったのです。そして現に、脳卒中が起こってから129日目の2014年4月。私はワシントンで開催されたナイキ・ハーフマラソン大会のスタートラインに立っていました。

    その大会では、最初の約3kmを走り、残りの約18kmは交互に走ったり歩いたり。タイムは3時間近くかかり自己最低記録でしたが、ある意味、自己最高記録だったとも言えます。ゴールで私はその場にしゃがみ込み、赤ちゃんに戻ったように泣きじゃくっていました。

    あれはまさに、人生を称えた瞬間。セカンドチャンスを与えられたことに感謝。どんなに健康でも、明日何が起こるか分からないという不確実性を改めて実感しています。脳卒中が起これば命の保証はない。しかし今、あれから6年が経ち、私のコンディションは限りなく100%まで戻っています。

    脳卒中は年齢に関係ない

    これを読んでくださっている方に、ぜひ覚えておいていただきたいことがあります。脳卒中は年齢に関係なく起こる、ということ。どれだけ忙しくても。どれだけ私のようなマラソンジャンキーであっても。誰にでも起こり得るのです。特に私のように危険因子を見て見ぬふりをしていれば。

    次に健診を受ける際には、検査結果の数値をしっかり確認。そして食事にも気を付けて。運動は週に5回、一日に最低でも30分程度やる。そうすることで、数値は改善できます。これは脳卒中のリハビリに比べると比べ物にならないほど簡単なこと。そしてそれも、もしリハビリまで命がもっていれば、の話なのですから。

    脳卒中には忙しすぎるから、若すぎるから、健康すぎるから、など関係ありません。なので、今からその予防を始めて。あなたの命に関わることなのです。

    次回のPreventionでは、脳卒中の5つのタイプを紹介します。

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    Laura Pugh, As Told To Peter Moore /I Ran 8 Half Marathons. Then, at 38, I Had a Stroke./STELLA MEDIX Ltd.(翻訳)

    RSSブログ情報:https://www.mylohas.net/2020/02/207874pvn_stroke.html
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