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野田草履の哲学
2016-08-25 22:18509ptすべては無である。存在とは幻だ。
だが、そう思う私は確かにここにいる。これは矛盾であろうか?違う。
私は存在でも無でもないのだ。私は場所である。すべてがそこに立ち現れる場所なのだ。
世界は私という場所に言葉によって共同主観的に立ち現れる。人間の根源には他者との共同性が刻印されている。人間は他者とのやり取りの中で言葉によってすべてを分節化し、世界を認識として形づくる。五感すらもこの過程で他者と共通した感覚をそなえるようになる。
一方で人間は言葉や理屈では収まらないものをも宿している。それは身体性であり、性や死への欲動だ。それらを人間はどうやってコントロールするか?人間はそういった無意識下の生命力とは別に自己を客観的に眺める意識を形成する。その意識によって無意識を統御しようと人間は試みる。だがそれは完全にはうまくいかない。よって人間は理屈や常識を超越しようとする力を常に持て余す。それが作品を通 -
野田草履の人生観
2016-08-25 22:18私は信じている。大事な人を。私は生きていきたい。できるかぎり。
すべては無であり、我々が見ている世界とは幻である。よって何でもありだ。何をしようが何を言おうが、何でもありだ。どんな生き方をしようが自由だ。
でも死ぬのは怖い。逮捕されるのも嫌だ。
なぜだろうか?
それは「私がここにいる」という生々しいかけがえのない感覚があるからだ。
「すべては無」なのにこの「私」というリアルな感覚だけは間違いなくある。
この「私」とは何なのだろうか?
私が思うに「私」とは存在でも無でもなく、場所なのだ。逆に言えば、「私」という場所は存在でも無でもあり得る。
私はルサンチマン(怨念)に突き動かされている。私は、ありのままの私を認めてくれない受け入れてくれない社会を怨んでいる。私を十数年間にもわたって孤独にさせて、発狂寸前にまで追いつめた社会を怨んでいる。
私が孤独だったのは、単に私が甘ったれで、卑怯で、臆病だ
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