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1981年2月2日 愛知県立春日井高校:コーヒー牛乳の青春。(天国の幸宏へ捧げる)part 1
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1981年2月2日 愛知県立春日井高校:コーヒー牛乳の青春。(天国の幸宏へ捧げる)part 1

2017-06-19 20:53


    ルールとは絶対的なものなのか。

    一緒に考えてください。


    (1回目)


    ===新聞記事===

    1981年2月3日 中日新聞朝刊の記事(原文そのまま)

    (大見出し)「耐寒マラソンを集団ボイコット」
    (中見出し)「春日井高 『学校の一方的行事』生徒会反発、500人が集会」


    【春日井】愛知県春日井市鳥居松町一の県立春日井高校(山本八郎校長)で、
    二日から二週間の予定で始まった耐寒訓練を生徒が集団でボイコット。
    約五百人が集会を開きボイコットの意思表示をした。
    生徒たちは「この耐寒訓練は、生徒の意見も聞かず、学校が一方的に決めた行事だ」とし、三日以降も参加しないことにしている。
    これに対し学校側は「教育活動の一つであり、生徒の都合を聞いて決める性質のものではない」とはねつけ生徒側と対立。
    同夜遅くまで緊急職員会議を開いて今後の対応を話し合った。

    (小見出し) 「学校側『教育活動の一つ』」

    耐寒訓練は、二日放課後の午後三時二十分から一、二年生八百人を対象に行われた。
    男子は二・五キロ、女子は一・五キロを走る校内マラソンで、ことし初めて実施した。
    ところが参加した生徒は二百人だけで、六百人が集団でボイコット。
    このうち五百人が校舎の間庭で集会を開き、先生の再三にわたる説得にも応ぜず、約一時間、学校側の一方的なやり方に不満をぶつけ、二日目以後も参加しないとの意思統一をはかった。

    学校側がこの耐寒訓練を決め、生徒に通知したのは二週間前の先月十九日。
    これについて生徒会は「教師側に昨年十一月、何か決めるときには生徒の意見を通してほしいと頼んでいたのに、あまりにも一方的だ」と、評議会にかけて検討した。
    この評議会では「学校がもう少し生徒の意見を聞き、反映してほしい」との結論になり、耐寒訓練ボイコットの動きが出て来た。

    これを知った学校側は「生徒会の活動の範囲でない」とし、生徒会活動を抑えようとした。
    このため、生徒個々の活動としてボイコット連動が広まり、先月三十日には校内で生徒間の間で相互に呼びかけが行われて表面化、二日のボイコットになった。

    運動の中心になっている生徒は「学校は、生徒の意見を聞く種類の催しではないというが、放課後に実施するため、クラブ活動がそこなわれ、生徒の自由な時間に食い込む」と反対の直接的な理由をあげている。
    この生徒によると同校では、昨年四月、学級編制を能力別にしたが、学校側は実施直前まで生徒側に知らせなかった。
    また、昨年夏休み以降、校内販売のコーヒー牛乳が予告もなく白牛乳だけになってしまったという。

    こうしたことから生徒の間に不満が蓄積、耐寒訓練で一気に爆発したようだ。
    生徒側は「事態収拾のためには、生徒総会を開き、要望を聞いてほしい」と話している。

    同校は昭和二十七年、県立旭ヶ丘高校春日井分校として発足、三十八年四月に春日井高校として独立した。
    同市内では一番古い高校で進学率の高いこの地方の名門校。
    生徒数千二百人で、かつての高校紛争の際、卒業式問題でもめたこと以外、これまで特に大きなトラブルはなかった。

    (指導、説得を続ける)

    犬飼武教頭の話

    耐寒訓練は学校教育の一環である。生徒の都合を聞いて決めるものではない。
    生徒に対し指導、説得を続ける。
    生徒に一日も早く落ちついてもらいたい。耐寒訓練をこのまま続けるか、中止にするかもう少し検討して決めたい。
    十年ほど前の高校紛争のように発展しては困る。
    何とか早く解決したい。

    (小見出し)「『学校はき然とした態度を』県教育委」

    春日井高の耐寒訓練ボイコットについて、愛知県教育委員会では「生徒の希望を聞いて処理することと、聞く必要のないことのけじめが大切」とし、き然とした態度をとっていく考えである。

    県教委に入った報告によると、生徒会側は「年間の行事予定にない耐寒マラソンを学校側が生徒の意見を入れずに決めた」として反発。
    生徒会の役員会を開いて不参加を決定。
    先月三十一日の朝、校内放送を流してボイコットを呼びかけたという。
    事態を重大視した学校側では、二日夕、緊急職員会議を開き
    1)三日朝、授業前に一、二年生の全担任教諭が生徒に指導する
    2)授業は正常に行う
    3)授業後、生徒会の役員に指導するー
    の三点を決めた。

    県教委は、今回の事件は政治的色彩もなく、学校側の指示が徹底を欠いたことから生じた不満が一因ではないかとみている。
    しかし「指導されるものが教育活動そのものに口をはさむのはおかしい。
    一部の生徒が勝手に学校の公の放送施設を使って扇動したのももってのほか。
    学校は断固とした態度で臨むべきだ」(久野保佑学校教育部長)としている。

    県教委としては、一応事態は見守るが、状況いかんでは現地指導もする方針でいる。

    (近藤秀案教育次長の話)

    耐寒訓練が授業の一環行事なのか任意のものかわからないが、学校側で決めた行事に大量の生徒が反発、従わなかったようなことを重大にうけとめている。
    その行動がグループ化しておりなぜこうした行動をとったのかを解明したいと思う。



    ---以上、1981年2月3日中日新聞(原文まま)----


    僕はこの騒動の渦中にいた。


    記事の中の「運動の中心になっている生徒」とは僕のことである。

    県教委から「公の施設を勝手に使って扇動し、もってのほかだ」と糾弾されたのは僕であった。

    八郎校長から、「校舎に触る資格はない。お前は退学だ!」と怒鳴られたのも僕だった。


    そう、僕は退学となる「はず」であった。


    記事は間違っていて、実は、ボイコットを呼びかけたのは、当日、2月2日朝の放送であった。
    31日は、短めの放送をしたがボイコットは呼びかけていないと記憶している。

    生徒評議会とは、生徒会役員と各クラスの学級委員(評議員)2名と生徒議長で構成される生徒側の意思決定の最高機関である。
    僕はクラスメートで親友の幸宏と生徒会役員をしていたし、生徒評議会の議長も親友の富也だった。
    生徒評議会は、1月30日の夕方に開かれた。会議は学校行事は無効と決議した。
    耐寒訓練の不参加は全学級の全会一致だった。


    半年前から、管理教育批判で作詞作曲してギターの富也とベースの幸宏とボーカルの僕の三人でバンドを結成、文化祭で過激な歌の数々を発表した。
    バンドの録音テープは昼休みに放送部が流した。

    こうした学校批判さえも、自由に受け流すのは、春日井高校の自由を重んずる寛容精神であった。
    僕らはこうした自由な校風に憧れて春日井高校に入学した。


    ところが、僕たちが2年生になるころ、自由はひとつひとつ奪われていった。

    「学校に自由を取り戻す」が僕らのスローガンだった。


    ボイコット当日2月2日夜。
    先生たちは深夜まで会議をしていた。

    幸宏と僕は富也の自宅に集まり、対応策を練っていた。
    夜10時頃、チャリンコで学校をスパイする。

    すると職員室にはまだ煌々と明かりが続いている。
    先生たちが激論を戦わせているのがわかった。

    この時点で翌朝の新聞記事のことは、全く予想していなかった。
    新聞記者を誰が呼び寄せたのかも僕たち生徒会は全く知らなかった。


    当日、2月2日にボイコット集会時に校長から退学だと宣告されたのは、僕であった。

    だが、富也も、自宅からマイク、延長コード、アンプやらを集会のための機材を無断で運び入れたので学校から見たら罪は重かった。

    県教委は「断固とした態度をとれ」と校長に指示していたし、事実、校長は僕らの退学をすでに500人の前で宣言していた。


    この小さな事件を、いまさら、ではあるが、いま、書き残しておこうと思った。

    ひとつは、数年前、舌癌でこの騒動の当事者のひとりである、中村幸宏が死んでしまったこと。
    ベーシストだった彼の残したベースラインを書き残しておきたかったため。

    もうひとつは、たとえ学校には不名誉な事件であっても、春日井高校の校史として誰かが書き残すべきだと考えてたからである。


    僕らの取り戻したかった自由とは、

    「コーヒー牛乳よ、もう一度!」

    という小さなもの。


    親や先生にとっては、つまらないものかもしれないが、僕らにとっては、なぜだろう?とても、大切なものだった。


    翌朝2月3日の朝、新聞を見た。それが冒頭の記事である。
    どうして高校の行事のボイコットという小さな出来事がこんなに大きな記事に??

    新聞沙汰になってしまったことに対する狼狽、また、こんな小さな出来事がまるで大事件のように扱われてしまったことへの驚き。

    僕は、びっくりして叫んだ。「なぜだ!!」


    P.S.

    17才の僕は校則は意味がないと思っていた。嫌ならば学校を辞めるしかない。
    校則を在学中だけ守れば別にどうってことないのにね。
    守らない奴は学校から見れば悪だ。
    それは学校側の論理。校則が嫌ならばその学校に行かなければよい。以上!
    しかし、なんの予告もなく、校則がどんどん厳しくなっていくとき、それでも学校はいつでも正しいのだろうか。
    ときには生徒と学校との対話が必要なのではないか。

    昔、生徒の話を真剣に聞いてくれる先生方がいて、少しやんちゃな僕たちがいて、僕らが校則を変えた。これはそんな話だ。
    自分の規範で生きると、組織の規範とはどうしても衝突する。
    規則の中に馬鹿らしいものがあれば、それは変えるべきだ。
    そのとき、組織にも多様性を認める文化があれば進化できるのだが、問答無用の組織が多い。

    西嶋先生という倫理社会の臨時教員は男子生徒の人気が高かった。
    授業中に男と女に関するエロい話をするからである。

    西嶋先生が、隣のクラスの連中に示唆した。
    「お前たち、このままボイコットをすれば、生徒会の連中は退学になるぞ」
    それを避ける方法がひとつだけある。これを表沙汰にするのだ。

    西嶋先生は、マスコミにボイコットの情報を流せという示唆をした。
    示唆をうけて隣のクラスは「2月2日の3時に春日井高校に来れば面白いものが観れますよ」
    と朝日、読売、毎日、中日の各新聞社に匿名の電話をした。
    それで各社朝刊に大きなボイコットの記事が載ったというわけだ。


    日本株ファンドマネジャー
    山本 潤


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