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見ていてごらん、今にわたしたちの時代がくる
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見ていてごらん、今にわたしたちの時代がくる

2018-03-23 16:27


    -教育子育てコラム-


    ===ある兄弟の話===


    弟は丁度100年前に生まれた。
    中村兄弟の話だ。兄は徳郎という。弟は克郎という。
    兄は戦争で死んだ。
    弟は「きけ わたつみのこえ」(岩波)を編集した。

    兄の徳郎は学徒出陣で戦地へ赴いた。
    生きていれば日本初の仕事を多く成し遂げたに違いない逸材であった。

    岩波の「きけわだつみのこえ」を読んだときのことだ。
    徳郎が克郎に託したものがあることはその手記からわかった。

    調べるうちに、克郎が兄の手記をもとにして
    はるかなる山河に ー東大戦没学生の手記ー 」
    を編集、のちに岩波の「きけわたつみのこえ」の編集者となったことを知った。

    そのとき、「やっぱりな」という思いを持ったのだ。


    ===人柄に惚れて===


    徳郎の手記を読んだとき、その人柄に惚れてしまった。
    また、その考え方に深く共感してしまった。
    70年の歳月を超えて、わたしには普遍的なもの、時代を超えたものに触れた感慨を持ったのであった。

    中村兄弟の話を、息子に伝えたいと思ってこれを記す。
    次男は、大学受験に失敗。挫折を味わった。
    そんなとき、この兄弟の話をしてみたのだ。
    徳郎については、時折、次男に話していた。
    次男にとって、中村兄弟はすでに、身近な存在ではあったのだが。


    === 中村徳郎の考え方 ===


    国は滅んでも偉人が人類に成した業績は滅ばない。
    たとえば、ポーランドは滅び興りまた滅ぶという歴史を繰り返してきたが、
    ショパンやキューリー夫人の功績は滅ばない。

    自らがやろうとしていたのは人類への貢献であって、
    それを通して日本へも貢献するというのが兄徳郎の考えであった。

    人類の生活の根底を豊かに富ます機縁となるべき人材を育てることによって、
    その民族の偉大さを価値付けようとしていた。
    自己には絶えず厳しく、学問に身を捧げることで日本を含む世界に貢献するんだという強い気概を持っていた。


    ===徳郎の言葉===


    また、出征の折に、彼は語った。

    「ともかく早く教室へ帰って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります」

    「自分がこれからしようとして居る仕事は、日本人の中には勿論やろうという者が一人もいないといってよい位の仕事なのです」

    「その仕事をやり遂げることが、戦に勝って島を占領したり都市を占領したりすることよりもどれほど真に国威を輝かすことになるなるかしれない」

    「自分を斯く進ましめたのは言うまでもなく辻村先生の存在があります。同時にモリス氏の力を除くことができません。氏は私に、真の人間たるものが、人類たるものが何をなすべきかという事を教えてくれました。又学問の何物たるかを教えられた様な気がします」

    国家の決まりも、目先の勝敗も、大事だが、だが人として生きることも同時に大事である。
    学問を志すならば、その業績は国家というよりも人類共通の遺産となる。

    そう考えていたと私は思う。

    多くがサラリーマンとして組織人の立場を意識しなければならない時代。
    国家官僚においても、出世のためか、国家権力になびいてしまう。
    人は追い込まれると弱いものだ。

    だが、組織よりも、人格。人としての生き方を優先したい。
    また、国家の利益を人類の利益の中で実現しようとした徳郎の思想に
    わたしは深く共感をするしかなかった。


    ==徳郎の日誌 抜粋 ==


    1943年2月20日

     学問が時世をリードすると言ふのでなくてはならぬ。
     然し現在では学問が時世にリードされて居る。

     一体どうしたのいふのだらう。寒心に堪へない。

    1943年4月13日

     「目前の利益に捕らはれて、過去を鑑み歴史の重ずべきを識らず、前途を望み将来を夢見て、理想に憧るる事を識らず、永遠を思慕し、無窮を追求し、大局を洞察することを忘れるものは、個人も、時代も、国民も、危ないかな、危ないなだ。」
     (立沢先生)

    1943年8月5日

     稲田兄の追悼録が送られた来た。一日これを読む。
     一人感慨無量なるものがある。
     市川の静養所に在った彼が、余命幾何もないのを知ってか知らずでか、
     「複素函数論」「仏蘭西語四週間」を読み、歌句をものしていたのを知っては深く我々の胸をえぐられるやうな気がした。

     我々は我々の最後まで自己に忠実でなければならぬ。
     最後まで我々の本分を放擲してはならない。

    1944年3月5日

     人々の邪悪さと運命の酷薄さとの間にありながら善良であり、
     いつまでも善良であらねばならぬ。
     最も激しい逃走中にも温和であり、悪い人間にあっても善良えあり、
     戦いの最中にも平静でありたい。
      -中略-
     真理への思慕を喪って国家の隆昌はない。

    1944年5月13日

     生かされているのはではない。生きるのだ。
     すべて待つがいい。


    ==ローリングストーンズ、転落する石(絶望の中に、それでも光を持て)==


    「もっと勉強がしたかった」と手記に書いている中村徳郎は、
    旧制一高の旅行部あるいは山岳部に在籍していて、
    穂高東面の往時の山行を撮影した写真集もあり、
    また北アの霞沢岳三本槍の初登攀をし、
    ドイツ人登山家カールビルス氏の遭難救助した。

    そのころ、東大理学部地理学科の辻村太郎(地理学者 1890-1983)教授と兄の徳郎は日本初のエレベスト登頂を目指す計画であった。
    徳郎は、第一高校時代は、中国からの留学生と親交を深め、
    来日していた英国人の登山家・探検家であるJohn Moris氏を敬愛していた。
    (Moris氏は英国BBC放送の解説者であった)

    徳郎は、日本というよりも日本を含む世界、
    日本人というよりも日本人を含む人類を念頭に置いていた。
    真理への思慕を持ち、ジョン・モリス氏から贈られた言葉、
    Devote yourself to Science!
    をいつも胸に秘めて軍隊生活を送った。

    徳郎はずっと一兵卒であった。
    なぜならば、第一高校時代、教練の授業をすべて欠席したからだ。
    軍事教練の単位は落第。そのため、将校幹部にはなれない。
    あえてそうしたのであった。

    第一高校は、徳郎に卒業せずに軍事教練の単位のために一年の留年を勧めたが、
    すでに徴兵令状が届いていた。
    辻村教授が一高の安倍校長に掛け合い、一高所属ではなく、東大理学部地理科の学生として行かせたいとして、徳郎の卒業を認めさせたという。

    東大理学部に入学したその日に軍隊に入ったので徳郎は入学式には行けなかったという。
    徳郎は習志野の戦車部隊に配属されたのであったが、辻村教授の計らいで、
    比較的安全な事務職である陸軍の気象班への移動を打診されるが、
    「不正を働いてまで生きたくはない」
    と徳郎はその話を断ってしまう。

    その後、医師の父親が友人の習志野陸軍病院の院長を説得。
    徳郎が病院を訪れるならその場で診断書を書く段取りを整える。
    そして徳郎を除隊させるようとするが、肝心の徳郎が度重なる催促にも病院を訪れない。

    「要はニセ診断書を書いてもらうということだろう?」
    と、その話も断ってしまう。

    徳郎は自分の命が惜しくなかったわけではない。
    ただ、自分が不正を働くと、そのころは、特高警察や隣組制度など、
    家族や親戚までが吊るし上げにあう社会であった。
    「あの家族はみんなグルだ。非国民だ」といわれることがわかっていた。

    そういう卑劣極まりない社会であった。
    だから、徳郎も、わたしは病気です。
    だから、除隊しますとは言えなかったのだ。

    軍隊から徳郎が一旦帰省するタイミングがあった。
    そのとき、父親は、徳郎を木刀で殴り
    「戦争で海外で殺されるぐらいなら、俺がいま、ここでお前を殺す」
    といって殴り続けたが、弟や母が止めに入った。
    大怪我を負わせて診断書を書き、除隊させようとしたのであった。

    そのときも徳郎は
    「父さんが正しい」
    といって黙って殴られ続けた。

    徳郎は読書家であった。
    特に、何度も繰り返し読んでいたもののひとつが「ドイツ戦没学生の手紙」(岩波書店)だ。
    徳郎は書いている。

    「彼らは真摯だ。塹壕の中で、蝋燭の灯の下で、バイブルを読み、ゲーテを読み、ワグネルに想いを寄せる彼らは幸福である。」
    と。

    徳郎の外地出征となる日が近づく。
    一兵卒では電報も打てないので、学友の将校に頼み、実家に電報を代わりに打ってもらう。
    その日、本所の実家は疎開で慌ただしく、弟の克郎が習志野に面会にいく。
    そのとき、兄弟は1時間ほど話ができたという。
    習志野の軍隊では、克郎は「面会日ではない」といって面会を拒絶されるが
    「どうしても今会えないともう会えない」
    といって必死で門番を説得した。

    ちょっと待ってろ、と門番兵が言って、掛け合い、面談が許可されたという。
    弟が面談室で待っていると兄がやってきて、
    「おお、あーちゃんか」
    と声をかけた。
    あーちゃんとは赤ちゃんの意味で、
    中村家では7歳年下の弟のことを「あーちゃん」といって可愛がった。

    将校が見ていない隙を狙って、兄が上着のなかに隠してあったものを、
    弟へと手渡した。
    それは一冊のノート、徳郎の手記であった。

    徳郎は
    「これは、日本戦没学生の日記だ」
    と言った。
    克郎はすぐにこれが、「ドイツ戦没学生の手紙」の今度版だ、と思ったという。

    兄は、弟に、「ドイツ戦没学生の手紙」を読むように勧めていたからだ。

    克郎は
    「兄さん、こんな戦争なんかで死んではダメだ。日本初のエベレスト登頂はどうするんだ?」
    というと、兄は、こう答えたという。

    「もう遅い。なぜ、あのとき、命がけで反対しなかったのだろう※。
     ローリングストーンズ(転落する石)だ。もう遅い。」

    (※河合栄治郎事件。東大教授としてファシズム批判の論陣を張ったが、
      1938年河合のファッショ批判の書籍が発売禁止となる。
      そして翌年、東大から休職を命じられる。
      多くの学生がこれに抗議したが、河合を守ろうとしたものも同時に摘発されたことを見て、多くは命をがけて河合先生や学友を守ることができなかったことをさしていると思われる。)

    日本はなし崩し的に治安維持法等が強化され、戦争に反対できない異常な国民管理体制へと自己強化されていった。
    徳郎は「なんとかしなければ」と思い続けた一人であったが、
    時流に飲まれどうすることもできなかった。

    そして、次が最後の言葉となった。
    「あ、そうそう、岩波文庫は全部買っておいてくれ」。

    それは、徳郎が戦争から生きて帰ったら、そのときに読むから、
    という意味にもとれたし、克郎、お前は岩波をちゃんと読め、
    という意味にもとれたという。

    出征には、カエサルのガリヤ戦記(岩波文庫)、フイヒテ・獨逸国民に告ぐ(同左)、ゲーテとシルレル往復書簡集。 Carossa Rumaenishces Tagebuch.、Mountain Essays、最近世界史年表、岩波全書数冊等を帯同した。

    兄の徳郎は、弟が戦争で死なないために、弟には医学部へ行くように諭す。
    文系はすぐに戦地だが、軍医はまだ死ぬ確率が低いと考えてのことだった。

    弟は
    「ペーペーの若い軍医は戦争の第一線に送られるからどうせ死んじゃうよ」
    と兄に告げると、兄はこう答えた。
    「それまでにこの戦争は終わっている」。

    徳郎が徴兵された後になり、克郎に東大の医学部の教授から電話がある。
    徳郎はその教授に弟が医科にいくようにと説得の電話してくれと頼んでいたのであった。
    弟はその通りに、医学部へ進学する。

    昭和19年。徳郎戦死。

    そして、戦後、兄の手記を読み返した克郎は、これをぜひ出版したいと岩波文庫の吉野源三郎氏に相談する。

    吉野氏はこれはいい、だが、分量が足りない、
    他の戦没学生の手記も集めて出版しよう、
    という話になったという。

    ぜひ、岩波でという話でもなかったので、
    克郎は東大自治会での戦没学生の手記の出版を提案した。

    戦争へと学生を送った教授たちの主導ではなく、
    自ら戦争に徴収された学生側からの出版にしなければ、
    という思いだったという。

    生協を中心にして、まず、戦没した東大学生たちの手記が集められたという。

    そのようにして、「きけわたつみのこえ」は出版された。

    戦後、徳郎の遺言通り、克郎は岩波文庫をすべて揃えた。
    克郎に長男が生まれたが、名前を徳郎と名付けた。
    塩山にある中村医院はいま平和文庫として甲州市に寄贈されている。


    興味がある方は、
    https://double-growth.com/kosodate_2018_3_11/
    を読んでいただきたい。


    徳郎を助けようとした家族の物語だ。


    リンクス リサーチ アナリスト 山本 潤


    NPOイノベーターズフォーラム理事。
    メルマガ「億の近道」執筆17年間継続。
    1997-2003年年金運用の時代は1000億円の運用でフランク・ラッセル社調べ上位1%の成績を達成しました。
    その後、2004年から2017年5月までの14年間、日本株ロング・ショート戦略ファンドマネジャー。
    みんなの運用会議では、自分のおカネを10年100倍の資産運用を目指している。
    コロンビア大学大学院修了。
    法哲学・電気工学・数学の3つの修士号を持っています。


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