そこで自分が最近、「クローズ」「worst」を一気に読んで、戦国漫画などとの類似性について話したところ、ヤンキー漫画の文法は独特なので参照不可能であることを説かれました。それに対する反証を次回僕がすることを約束してお開きになったのですが、まずはそのレジュメのようなものを書いておこうと思い、今回のこの語りになります。
まずヤンキー漫画について考えましょう。
はじまりは本宮ひろ志先生の番長ものだとしてみると、それは、主人公の男気で話を牽引する物語です。
それに世界観を時代に沿ったリアリティを持ち込むことで、「ビーバップハイスクール」「湘南爆走族」などが生まれます。
その一方の「ビーバップ~」から社会的なものを抜いた形として「クローズ」、「湘爆」から「BADBOYS」などが生まれて行きます。
これは小池一夫先生いうところの漫画の定義がキャラクターそのものにあるということから自明な進化だと思われます。
その一方でラブコメ漫画も変遷を経て、社会へのコミットを抜いたものとして少女たちを愛でる形の「空気系萌え漫画」になります。
つまり、ヤンキー漫画も萌え漫画も、社会的なるものを抜いた形でキャラクターだけが先鋭化していき、ストーリーは無意味化し、世界観は読者の共通認識上にあるものだけになります。
さてここで言うキャラクターの先鋭化とは何か。
東浩紀の「動物化するポストモダン」によれば、萌えとはそれまでの少女キャラクターのデータベース的集合体になります。
これは最近のヤンキー漫画にも言え、そのキャラクターはヤンキーファッションとキャラクターのデータベース的集合体といえます。
萌えのデータベースとは、美少女ゲームやアニメなどから作られているのですが、
ヤンキー漫画のそれは、過去のヤンキー漫画やヤンキーアニメはないのです。
それゆえここの類似性が見落としがちになるのですが、ではヤンキーのデータベースはどこにあるのか?
それはヤンキー系のファッション雑誌や、彼らの好む音楽の世界観(CDジャケットや、彼らのファッション)にデータベースは構築されており、そこから萌えの記号化のように、ヤンキーの記号化は行われていると言えます。
よって、ヤンキー漫画が、萌え漫画のように社会性を失って行くのは、萌え漫画と同じような構造を持つことから、自明なことだと言えるのです。
そして、「よつばと」が擬似家族を描くように、高橋ヒロシや田中宏も擬似家族に向かって行くのも、これら萌えとヤンキーが合わせ鏡のようで面白いです。