こんにちは、とつげき東北です。
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元役人、現在はITエンジニアを行いながら、『知のクリエイター』として、幅広い知見を活かして世の中の様々なことを斬新な視点から分析・研究し、書籍等で公開したり、東大で非常勤講師をしたり、卒論・修論指導などを行ったり、企業での業務効率化をしたりしている教育家・研究家のオッサンです。
オッサン情報はもういいですね。失礼。
さて最近、麻雀戦術本に6ページほどのコラムを寄稿させてもらいました。
ここでは麻雀の話をするわけではなく、何かを執筆する際の商業性と創造性のトレードオフ的な関係について、少し語ろうと思います。
実は拙著のあとがきにも以前に簡潔に書いたので、その絵を貼りますね。
……あ、言いたいことほとんど言ってもうてるやん。
ようは、「売るために執筆する」のなら、おそらくなるべく手を抜いた方がよくて、また、いわゆる万人向けでしかないようなものしか作りにくいということです。著者が「本業(執筆のみで生計を立てている)」であればあるほど、実は著者が本当は書きたい「深い」「高度な」創造性が発揮しにくくなりがちだということです。割に合わないですからねぇ。
私は『科学する麻雀』(2004,講談社現代新書)という書籍を27歳のとき出版しており、それまでの麻雀界に存在した適当な戦術書とは一線を画した、数理的な研究・データサイエンスの手法によって正しい戦術を導きました。
出版するまでの期間、ヒモ生活を送っていました。逆にいうと、それくらいの「余裕」がなきゃ、執筆では生きていけない……こんな「無駄な研究」はやっていられなかったはずです。
この本の大切なところは「麻雀戦術として新しい」というだけではなく、著書の中に数式やシミュレーションの方法を記載して、多くの人に麻雀の正しい認識のしかたや、提案手法の斬新さ、研究の素晴らしさを伝えたかった部分にあります。単に誰かが読んで、「麻雀強くなりました」では、私にとっては無価値すぎたのです。
しかしやはり多くの読み手からは「無駄な数式ばかり」「難しいページなど必要ない」といった感想が寄せられました。
それはそうなんですよ。
一般に、著書というのは決して特定の読者のために書かれたりなどしないのです。
単に麻雀に強くなりたいだけの人には不要でも、そうでない人(研究に興味を持ってくれる人など)に伝えたい何かがあったのです。
なので、今となっては「当時、『科学する麻雀』を読んで情報系に進み、統計学を学びました! 今はエンジニアで動画認識AI作ってます!」みたいに育ってくれた方からご連絡をいただくと、非常に嬉しいです。
こういった、執筆の「目的の差」として当時象徴的に思えたのは、とある麻雀ライターの方が、
「自分なら数式などをとっぱらって、もっと売れる麻雀本を作れる」
として続編を共著で出そうと提案してきたことでした。
まあ、「麻雀戦術書」としてはそっちの方が売れる可能性もあったでしょう。
でも、そんなのもはや創造性のかけらもないじゃないですか。
単にお金を増やしたいだけ、という風な。
私は新しい知をクリエイトしたいのですよ。
もちろん諸手をあげて引き受けましたよ? だってヒモ生活してて金なかったんですから。
しかしながら、やはりちょろっとお金が入っただけで、私としては満足できる内容にはなりませんでした。
最近もコラムを寄稿するという形で関与した本が出版されました。本の内容はやや「難しい」ものだけれども、その分、より新規性が高く、創造性も高いものと思われました。
ここで、とある麻雀ライターが高らかに宣言します。
「こういう本より、簡単な本の方が絶対売れる!」
私にはこういう思考は縁遠く感じられ、まさに「商業主義」に他ならず、ゲンナリしました。
せっかく「難しい」新しい知が作られたのに、そこに目がいく前に「売れる/売れない」で見ているわけです。
※ついでに言うと、私の『科学する麻雀』が24刷まで売れている事実なども無視しているので、売れる/売れないの判断自体もちょっと怪しいです
まあ、この話は置いておきましょう。
他にも、商業性と創造性の間でトレードオフが発生する例があります。
例えばせっかく描いたイラストが、一部の人たちから「気分が悪い」などと苦情をつけられて取り下げられてしまったり、文章でも、少し原理的なことを書くとクレームが入りまくったりします(私が過去に出した本でも、何度も出版社にクレームが入りました)。
商業的に無難なものを執筆しようとすると、まあ必然的に、大衆的な常識から外れないような、創造性の低い陳腐な文章しか書けません。近年ではキャンセル・カルチャーなどの影響もあって、ますます「無難な文章」しか生き残れなくなってしまっています。
執筆において、商業性と創造性とのトレードオフが発生してしまうということは、執筆に没頭して生活の糧とすればするほど、本来の執筆の目的から乖離し、凡庸な言の葉しか使えなくなってしまうということです。
これでは本末転倒ですよね。
こういった事情から、私は本業としてのモノカキにならず、ITエンジニアを主軸にしながら趣味として知を編み続けたいと思い、今のような活動形態をとっています。
ところで、この「ニコニコブロマガ」というのは、そういう意味では非常に「表現の自由」が守られた場所ですね! 最初、ドワンゴのご担当者さまからチャンネルを作らないかとお話をいただいた際、そこは思いっきり確認しました。少々他人を批判したりしても大丈夫か、キツイ言葉や思想をぶつけても消したりしないか、と。はっきりと「ウチは日本一大丈夫です!」と言われました。それは、このチャンネルを始める決め手となりましたね……。
どうかみなさんも、商業的な・金銭的な何かに囚われることなく、また、そのようなものだけを求めた低俗な書籍・文章に引っかかることなく、知的な文章に触れて豊かに生きていただくことを願っています。
どうもありがとうございました。
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商業性、創作性、創造性
それぞれの定義が曖昧で、主張がいまひとつ理解できませんでした
(創作性と創造性は同意?)
>>1
コメントありがとうございます! 表記揺れでしたので「創造性」に統一しました。ありがとうございました。
>>2
表記統一ありがとうございます
商業書籍の著者として執筆されていたからこそ得られたのでしょう
とつげき東北さんの観点、大変興味深く読ませていただきました
やはりですが、商業性・創造性の定義が不明瞭で
トレードオフの関係性について腹落ちしきれませんでした
特にトレードオフに関する例示について
科学する麻雀=創造性高
とある麻雀ライターとの共著=創造性低
だとして、前者のほうが売れたのであれば、商業性と創造性はトレードオフとは言えず
むしろ「創造性が高いほど商業性も高い」という帰結に向かうように思われます
(創造性を犠牲にすれば商業性を高められると主張した、とある麻雀ライターが狂っていただけ)
このように例示と帰結に不整合を感じるのも
文書と私の解釈の間の、商業性・創造性の定義に食い違いがあるためかと思いました
この点、もし追加解説などありましたら、いつか追記していただけると幸いです
(解説により創造性が損なわれるようでしたら、諦めます笑)
>>4
再びのコメントありがとうございます。
商業性=お金になること
創造性=ほかの人がやっていない独自性があること(+場合によっては付加価値としての知が生ずることを含む)
くらいの定義で大丈夫です。
一般的にはトレードオフだと思いますよ。典型的には国立大学の理系教授などで、固有の新しい知を生み出しまくっていますが、年収は低いですし、特に「執筆における」に限定すると、その専門書や論文を書いてもほとんど売れません。
研究者本人が論文を書くよりも、論文を適当に見繕ってなんとなくわかりやすい風にまとめる方が、ずっと売れます。
本当に新規性の高い執筆をするのは大変で時給単価などにすると目も当てられませんが、そういったいくつかの本をつまみ食いしながら不正確であってもキャッチーな本を書く方が時給単価は上がるってな感じです。
私の書籍はいわゆる「麻雀界」の大勢が買ったというだけでなく、講談社現代新書ですから、そこまで麻雀にハマっていなくても、各界の麻雀好きや理系の学生などが買ったことや、その結果非常に話題になったこと等で売れた「特殊なケース」だと思っています。
以上でいかがでしょうか。
>>5
もう1例出します。
コンビニや飲食などのヒット商品を生み出すのは、研究開発といいますか、大変なことです。
でも、他のコンビニ等が出してヒットしている商品に似た商品を作るのは簡単です。
ラーメンだって、新しい味を開拓するのはすごいですが、同じようなラーメン屋がバンバン出ますよね。
一般に、「新しいもの」を生み出す努力の方が、単にそれを模倣したり、少しそれに変化をつける努力より圧倒的に高いもので、「コスパ」が悪いことなのです。
>>6
定義の提示、ありがとうございます。
これほど丁寧な追記をいただけたこと、感激しています。
これら定義を確かめた上で、生意気にも意見を出させていただきたいです。
トレードオフが成り立つかについてですが、どこまでを比較が適正な範囲と見るかで結論が変わるように見えます。
執筆活動という括りで
・麻雀が強くなれる本
・麻雀研究に役立つ本
を同一ジャンルとみなせば、
商業性と創造性がトレードオフである、という主張は間違いありません。
ただ、これらを「執筆活動」としてひと括りに比較するのはあまり意味がない、という観点もあります。
比較可能とする範囲を広げれば、創造性の高さが商業性に結びつかない例は増えることでしょう。
一方で比較可能とする範囲を狭くとれば、おおよそ創造性の高さは商業性に結びつくのではないでしょうか。
例えば
・新規商品開発
・模倣商品開発
を同一ジャンルと捉えれば
「創造性が高い新規商品開発ほうが商業性が低い」と言えます。
しかし、新規商品開発、模倣商品開発の括り内でそれぞれ比較するとどうでしょうか。
誰も知らない優れた模倣技術、創造性の高い模倣技術は、模倣商品開発において優位性に繋がるはずです。
同様に、知られていない優れた研究開発技術、創造性の高い研究開発技術は、新規商品開発において優位性に繋がるでしょう。
このように
「商業性と創造性はトレードオフである」
が成り立つかは比較範囲に強く依存するので、一概にトレードオフを盲信せず、比較範囲が適正かに留意すべきです。
これが私が主張したいこと……そんなわけありません。
商業性の高低に関わらず、比較範囲を狭めれば創造性が商業性を奪うことはそうそうないのだから、各人が求める商業性と創造性のバランスが良い領域を選んで、存分に創造性を発揮してほしい……
などという万人受けを狙った奇麗事を言いたいわけでもありません。
そうではなく!
エッチ判定される範囲をすり抜けてエッチを感じる表現を追求すること!!
それは商業性と創造性を兼ね備えた最高の表現活動だあ!!!
これです。
これがとつげき東北さんの記事を読んで生じた胸の支えの正体。
私の魂の叫び、スピリット・オブ・シャウトです!!
そんな細かいこといっても『基本的に』『商業性と創造性はトレードオフである』ことは明白。アニメ・漫画・小説・映画などでの例としては『スターウォーズ』『もののけ姫』など、いくらでもある。涼宮ハルヒの『エンドレス・エイト』なんか『商業性と創造性はトレードオフである』ことは明白にいえる。あくまで仮にではあるが、いくら原作者から『エンドレス・エイト』はリアルで8話連続でやりましょうと提案されても、それを面白がるのはいわゆる変態技術者たちぐらいで、商業性のある素晴らしい提案ですなんて考えるのはよほどの経済オンチの馬鹿か、権力者への忖度でしかない。
>>8
ピエールさん、補足コメントありがとうございます!
そうですね、ようするに「大衆ウケする本」ほど売れるのだから、「超高度な本」なんてのは、上位1%の人にしか刺さらないのです。
ですから、「売ろう」と思えば頭がよい人はレベルを下げざるを得ないし、そうすると高度さは減らさなければいけないということです。
私も『場を支配する「悪の論理」技法』という本を執筆した際には、低レベル向けにくだらない論理学の基本を書くハメになったのです。そこに知的操作は1つたりともありませんでした。
私でなくとも名もなき誰かが書けばよい程度の内容でした!