オバケの存在、信じる?
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梅津くん、こんばんは!
ブロマガの更新ありがとうございます。
なんだか今日は梅津くんのSNSにコメントを沢山させてもらっていて、なんだか申し訳ない気持ちですが、こちらにも失礼します。
今回のブロマガも興味津々で読み進めさせて頂いたのですが…確かにそうですよね…
スピリチュアルとオカルト…何が違うんでしょう…。
でも「幽霊」という事だけで考えると、怖いと思った幽霊はオカルトで、怖くないと思った幽霊(例えば身内や知人の幽霊)はスピリチュアルって思ってしまうかもしれないです。
ちなみに何度か幽霊見ちゃった事があるんですが、ランニングシャツを来たおじいさんが道路の真ん中に立っていた時は怖いと思ったので、私の中ではオカルトに分類されました。
そして、いつも素敵な絵とお写真本当にありがとうございます!毎週楽しみがいっぱいでとっても幸せです!
UFO、UMA、幽霊。その他、怪奇現象やポルターガイストと呼ばれる類のどれにも遭遇したことがない。信じていない、訳ではないが見たことのないものをどうやって心から信じろというのか。テレビで特集を組んでいる恐怖映像なんかを少しの好奇心を持って見てみるが、あまりにもの胡散臭さに開始数分でチャンネルを変えることもしばしば。
あれは信憑性云々よりも大きな音、ドアップに映し出すことによって効力を発揮する異常さを感じさせるような人面など、見ている人を驚かせるという演出に力を入れている感じがする。
本当の霊的な現象はあんなにド派手なものではなく、もっとしめやかに行われるのだ。
今日は私が一年ほど前に体験した事をお話しよう。
祖父が亡くなった。
それを知らされたのは亡くなってから数時間後の早朝だった。
私はあの夜のことを今でも悔いている。
私が人生に於いて何の苦しみも知らず穏やかに眠ることの出来た最後の日。
しかしどれだけ悔いたところで祖父が帰ってくることはない。
遺体と対面してからは冷たくなった祖父の頬を何度も何度も撫でた。嗚咽が止まらない。理性が矜持で塗り固められているような私が人の目も憚らずみっともなく泣いた。腹も空かない。
いくら悔やんでも時は進み続けた。
ドライアイスに囲まれた祖父の手を握り続けているとある事に気付いた。
布団を掛けられている祖父の腹部が呼吸をしているかのように上下しているのだ。いや、そんなはずはない。もう二度と目を覚ますことはないのだから身体が動く筈はない。
私の見間違いだろう。
いや、しかし確かに動いている。
親戚も揃っている中でその事を口に出すことは出来無かった。あまりの悲しみから気でも狂ったのかもしれない。
通夜は翌日行われることとなった。
今夜は母と祖父の三人で枕を共にする。(遺体安置の場所は普通の部屋のようになっていて布団まで用意されていた)
そういえば、祖父と眠るのはこれが初めてかもしれない。思返せば悔やむことばかりだ。
祖父の腹部が上下していたのを目撃したのは私だけではなかった。もう一人は母であった。私たちは二人、不思議に思いながらも一度も怖いとは感じなかった。
昨日まで生きていた人間が急に息を引き取ったとて、そう簡単には完全に静止させてはくれないようだ。
よく、ドラマなんかで遺体安置のシーンを見ているとこの人はもう死んだことになっているのか…本当に死んだ人の顔を見るというのは恐ろしいだろうなと思っていたが、全くそんなことはなかった。
私はその夜何度も祖父に触れ、まるで生きているかのように話しかけ三人で夜を明かした。沢山の思いをぶつけた。祖父が持ち切れないほどのそれを吐き出して、全て許されたような気持ちになった。ただの自己満足だ。
翌日、葬儀場へと運ばれた祖父の腹部はもう上下していなかった。本当に死んでしまったのだ。棺に入れられた姿を見てまた泣いた。親戚みんなで泣いて、その後すぐにパンを食べた。数分前まで大泣きしていた女たちは涙で化粧の崩れた顔を突き合わせながら談笑した。
死に慣れてしまった、訳ではないが少しだけ笑えるようになった。
葬儀、告別式と順に終えても私たちの日常は数日前とは別物だ。
しかし人としての営みは続く。
一般的に四十九日を終えるまでは死者の魂はまだ私たちの傍にあると言われている。
本当は四十九日を過ぎたって此処にいて欲しいが我儘を言うわけにはいかない。
そんなある日、夢を見た。
祖父が泣いている。誰もいなくて暗い、寂しいと言いながら。祖父の泣き顔なんて生前殆ど見たことがないのにどうして今…。
私は跳ね起きてすぐに夢のあらましを母と祖母に伝えた。
祖父のお位牌の置かれている場所は昼間は日の光も入り、それに加えて電気も付けているため明るい。しかし夜眠る時は消灯し真っ暗闇だった。
一度もそれを意識的に気にしたことはなかった。寧ろ祖父だって眠る時くらいは暗い方が良いだろうなんて思っていたくらいだ。
だから驚いた。確かに連日、祖父のことで脳内は殆どを占められているが内容がピンポイントすぎる。
その夜から眠る時でも祖父の部屋には灯りをつけることになった。今でもそれは守られていると思う。
私と母はそのようなピンポイントな夢をしばらくの間よく見るようになった。自分で言うのもなんだが、私たち母子は特に祖父に目を掛けられていたので頼み事をするならばやはり私たちか、なんて少し浮かれた。それが現在の私たちが持っている祖父との唯一の繋がりだから信じたいと、縋るような気持ちだった。
この頃から死者からのメッセージなんてものは本当にあるのではないかと思うようになった。でもこれはオカルトやスピリチュアルの類とはまた違っていて、人間同士の絆の形だと思う。
だからそのような世俗的なジャンルで括りたくないなんて思ってしまったのが本音だ。
そんなこんなで一年経ったが最近、仏眼相なんてものを親指の第一関節に見つけてしまった私は手相なんてものを信じてもいなかったのにその意味を調べて見てやはり霊的な力があるのかもしれないなんて愉悦に浸りながら日々を過ごしている。
梅津くん、こんばんは。
霊的なものも生きている人間も自分の認識や意識下にあるかどうかで捉え方も変わってきますよね。
人間ではないですが、私自身、亡くなってしまったネコちゃんの死を受容しつつも側にいるような感覚のため、同時的に存在していることに当てはまるのかな…?となんとなしに思いました╰(*´︶`*)╯
梅津くんのブロマガは、毎回1つのテーマでの掘り下げや広げ方が上手くて、梅津くんの哲学を垣間見れるようでとても楽しく読ませて頂いています。
今後、ブロマガをまとめた本など出版されたら是非ほしいです!
気配はあるから「いる」んでしょうねぇ。亡きオカンなら勿論喜んでお迎えしますよ笑 オカルトとスピリチュアルの定義は人其々ですが、どちらにせよ、そこに集うコミュニティが健全であれば「いる」事を否定しませんね。搾取する者、される者…残念ながら欲に塗れたコミュニティはこれから先も確実に「いる」。そこに浪漫は「ない」。今回のテーマでふと思い出しましたが、幼き頃、知らずテレビで観た映画「HOUSE」が何故か今でも鮮明に覚えています。誰の作かも知らないまま幾年月、つい最近その製作者があの偉大なる巨匠、故大林宣彦監督だった事実に驚きました。当時SFXなる技術もない昭和の時代、ああも見事な絵画的且つエキセントリックなゴシックホラーを生み出したと思うと流石としか言いようがありません。私が唯一観たホラームービーです。お薦めです笑
超常現象においてオカルトは自分から探しに行って知る
能動的なもの、スピリチュアルは他人や物質を通じて
授けてもらう受動的なものと捉えていたので、梅津さんの
話される事がなんとなく分かるような気がします。
以前何かのインタビューで自分を理解し続けたいと仰って
いたのを拝見した覚えがあるので、それなら癒しなど数個の
言葉で他者から簡単にカテゴライズされるのは不本意ですよね(>
連投すみません!何故か途中で切れてしまうので・・。
フィクションの世界ではそうした区切りなく井戸系女子
(命名が最高です!笑)や「ゴースト」のようなロマンチックな
幽霊達が泣かせたり怖がらせてくれるので、霊感0かつビビりの
私はそちらで満足していたのですが、今回の梅津さんのお話を読んで
一生に一度くらいはオカルトな体験をしてみたいかも・・と思いました。
でも、できればイラストのような可愛いゴーストが希望です(笑)
霊的なことはとんと苦手ですが人生で一度だけ不思議な体験をしました…
数年前、祖母のお通夜が終わった丑三つ時、肌寒くてふと目を覚ますと棺桶の蓋が開いていて祖母がむくりと起き出したのです。そのままじっと何かを訴えるようにこちらを見ていたのですが、いつの間にか意識を飛ばしたようで気づけば朝でした。
あれは夢だったのか現実だったのか定かではありませんが、祖母へのあるいは祖母からの『想い』がみせたモノだと思っています。
以後、みえなくても感じることは稀にあるので所謂霊的なものは人の想いと繋がってるのだと思います。
ブロマガを読んで小学生の頃に某ホテルの部屋で赤い着物を着た女の子を見たことがあるなぁと思い出しました。怖いというよりはなんでそんなとこにいるんだろう?と興味の方が上回ったので会話を試み、瞬きすると絶対いなくなるなと当時冷静に思い、眼球が乾燥するくらい目を見開いて女の子に迫った思い出があります。でもまぁ眠かったので夢だったかもしれんなと今になっては思いますが。
霊的な存在、私は信じてます。身近な人であれば見守っていてほしいなと。怖いと思うのは作り物のお化けですね。生身の人間が一番怖いです。
こんばんは。みなさんのコメントもとてもおもしろかったです。人間の感覚器官で捉えられないから存在しないとは言えないものは多いように思います。まだ人間が解明できないだけかも。ただそういうスピリチュアルやオカルトに向かう人の心性は歴史的な背景もあると思うので、私はそういう社会事象として考えることもおもしろいと思っています。スピリチュアルもオカルトも「スーパーナチュラル」でひとくくりにする考え方もありますね。(これらの言葉の出てき方も、時代の背景があると思います。オカルトはわりと古い言葉ではないでしょうか。)『スーパーナチュラル・ウォー 第一次世界大戦と驚異のオカルト・魔術・民間信仰』(ヒカルランド)『英国心霊主義の抬頭―ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』(工作舎)などおもしろい本だと思います。余計でした。失礼しました。
梅津くんこんにちは。
ブロマガ更新嬉しいです。
オバケなど目に見えないものの存在の有無を考えることって楽しいですね。
梅津くんが書いたように人は生きている人間本位尚且つ自分本位に生きてるから、自分に見えないものや都合が悪いものの存在を限りなく薄くしたりもするし、一方で必要ならば見えないものの存在を信じたり主張したり意味付けしたりしますし。
存在しないと思えば無、すると思えば有という非常に可能性を秘めたテーマですね。
生と死についても対になるものという考え方が多数派かもしれません。
でも生きている限り死についてなんてわからないし、こうして生きていても生についてなんてわからないし、ましてや世界の仕組みなんてもってのほか。
認識できないだけでオバケも魂も得体の知れない怪物も、この人間の世界に一緒くたに存在しているかもしれません。
だとしたら生と死はほぼ同じものという可能性だってあるわけで。
私は霊感がないので今まで不思議なものを見たことないのてすが、霊感があったら新しい世界、というか真の世界を垣間見れそうで楽しいだろうなと思ったりします。
今回のテーマもとても面白かったです。
また梅津くんの色んな思考を書いてもらえること、楽しみにまっています。