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今回のPLANETSアーカイブスは『水曜日のアニメが待ち遠しい』著者で、日本のアニメ・漫画のフランスでの受容構造を研究しているトリスタン・ブルネさんへのインタビュー後編です。ブルネさんの提唱する「移体性」という概念のもつ可能性について、丸山眞男の「無責任の体系」等とも比較しながら、宇野常寛がお話を伺いました。
※この記事の前編はこちら

■ 主体性なき日本人の「移体性」

宇野:ブルネさんは研究者としては、日本の歴史を専門にされているそうですね。

ブルネ:日本の「史学史」、つまり日本における歴史の描かれ方を研究しています。博士論文のテーマは、55年に刊行された遠山茂樹らによる『昭和史』と、それへの批判から起こった、いわゆる「昭和史論争」です。この論争は、日本がなぜ戦争という悲惨な歴史を歩むことになったか、そこに至る歴史の描き方を、当時のマルクス主義者である遠山たちと、評論家・亀井勝一郎をはじめとする批判者が議論したものでした。僕はそれを、日本アニメの物語構造を読み解くヒントとしても、重視しているんです。

宇野:なるほど。僕が、ブルネさんは戦後の日本思想の研究者でもあると知って思ったのは、「移体性」という概念が、丸山眞男の言う「無責任の体系」と近いということなんです。つまり、社会にコミットしている自分はじつは自分ではなく、大きなものの顔色を伺った結果、主体的な判断なしで生み出された自分だ、と。ブルネさんの言う、主体でも客体でもない日本人の自己意識の持ち方には、これとの密接なつながりがある。戦後の中流文化を代弁しうる日本のロボットアニメは、同時に、独裁者のいないファシズムを生んでしまう「無責任の体系」と、表裏一体の関係にあると思うんです。

 これに対して日本の多くの知識人は、その移体性を捨てろと言ってきた。要するに、近代的な主体になれ、と言ってきたわけです。しかし果たして、そんな単純な問題なのか、という疑問がある。ブルネさんの本で描かれていたのは、むしろそれを捨てることで、戦後の中流家庭はアイデンティティーを見失い、新たな空白が生まれるかもしれない、ということでしょう。その意味であの本は、丸山批判でもあるのではないか。

ブルネ:たしかによく言われる「日本人の主体性のなさ」は、移体性とも関係するかもしれませんね。ただ、日本で梅本克己のようなマルクス主義者が主体性の確立を叫んでいたころ、フランスでは存在論のブームがありました。とくに作家のアルベール・カミュの存在論なんかは、主体と客体の間の不条理を強調している。フランスにも、主体性は自明的にずっとあったわけではないんですね。もうひとつ、第二次世界大戦以前のフランスを含むヨーロッパの国々には、じつは日本的な移体性や、勧善懲悪的ではない大衆文化が多くあったんです。たとえば怪盗をヒーロー化した『アルセーヌ・ルパン』もそうです。しかし戦後に残ったのは、アメリカ型の物語だけだった。善悪はくっきり分けられるようになり、移体性を可能にする抽象的なスペースは失われていった。

宇野:一方の日本の戦後アニメは、移体性を捨てずにどう成熟するのかをずっとテーマにしてきました。ヨーロッパでは失われたのに、なぜ日本では移体性が生き残ったのか。僕の仮説は、日本には元から主体性はなく、移体性しかなかったからというものです。

ブルネ:なるほど。反対にフランスでそうした文化の側面が失われたひとつの原因は、移体性に目を向けることが「ナチス的」と捉えられがちだったからかもしれません。

宇野:実際にナチスのデザイン面は、現代のサブカルチャーに大きな影響を与えていますよね。

ブルネ:そうですね。日本アニメを輸入し始めた1970年後半には、すでにエリートを中心にした大人たちが、戦うロボットに自身を投影して熱狂している子どもたちの姿を見て、「ナチ的だ」「大衆に悪い影響を与えている」「暴力の賛美」などと言っていました。もちろんそこには、戦中の日本の軍国主義のイメージから来る偏見もあります。あと蛇足的なことですが、『グレンダイザー』のオープニングテーマが仏語訳された際、そこに「土地」という単語が入ったんですね。「我々の土地を守れ」といったような歌詞として届けられた。それで「やっぱり差別的だ!」という反応を生んだんです。

宇野:そんな経緯もあったんですね。

ブルネ:ただそうやって、日本アニメが与えてくれる移体性の経験を隠蔽しようとした結果のひとつとして、一部の人々の極右化を招いたと僕は思いますね。

宇野:自分たちのアイデンティティーを表現するカルチャーを持ってないがために、ネオ・ナチのような極右化が起こってしまった、と。

ブルネ:いまのフランスが直面している移民問題の拡大も、それとは無関係ではないはずです。自分たちを物語に仮託できないこと、つまり移体性を経験できない不満を解消するために、「排外主義」という最悪の物語に染まってしまったんじゃないか。僕の少年時代の経験からすると、日本アニメは差別的でも何でもなく、フランス人の子どもも移民系の子どもも、同じように楽しむことのできる、共通の話題だったんですよ。

宇野:日本は先進国の中でも階級差が少ない国だと思うんですが、日本のサブカルチャーの特徴は、エリートからブルーカラーの子どもまで、みんな同じ作品を愛していたことにあると思います。戦後の中流化、つまりフラット化と、アニメ受容のフラット化は重なりながら進んだ。しかし問題は、いまそのアニメの力が失われていることです。

 日本では80年代前半に若者向けのサブカルチャーが大きく発展するのですが、その受容者というのは、基本ノンポリです。彼らはベビーブーマーたちを揶揄して「政治的な話をするのはカッコ悪い」と主張していた。ただ、サブカルチャーの受容者たちの中でも、アニメファンを中心とした今で言う「オタク」たちはちょっと違った。彼らは同世代の中では相対的にだけど政治的だったと思います。ただ、それは旧世代のようにイデオロギー回帰しているという意味ではなく、プラグマティズムとリアルポリティクスに基づく態度でした。ところが90年代後半以降になると、このオタクたちの多くは排外主義的な右翼になってしまった。その背景には、かつてアニメが持っていた移体性の力を、日本のアニメファンたちが信じられなくなったことがあると思う。

 僕の理解では、かつてのオタクたちが保持していたプラグマティックな政治性は、戦後中流文化の生んだ独特の社会的な立ち位置と、その表現としてのブルネさんのいう「移体性」と深く結びついていた。要するに、戦後中流的な「移体性」的な社会へのコミットの抽象化された表現が「ガンダム」の代表するロボットアニメだった。

 しかし、日本社会からは戦後的中流文化は後退し、アニメも移体性の表現を担いきれなくなっていっていると思うんです。

ブルネ:移体性には、自分の欠落を埋め合わせる部分があるので、それがアニメなどのカルチャーから与えられないと、「国民的なプライド」という方向に向かってしまうんでしょうね。アニメも誰かから与えられたものである点は変わらないけれど、想像力という媒介を経ていました。いまの排外主義には、想像力の枯渇しか感じません。


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