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記事 28件
  • 中川大地 ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉―――『ポケモンGO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋 後編(現代ゲーム全史・特別編)

    2017-10-31 07:00  
    550pt

    文筆家/編集者・中川大地さんの『現代ゲーム全史』刊行から1年余。2015年で完結していた同書の“先”の展開を、特別編としてお届けします。〈空間〉を資源化する脱ソーシャルゲームの領域を切り拓いた『ポケモンGO』、現実の〈時間〉と連動しリアルタイムな臨場感で再神話化を試みた『Fate/Grand Order(FGO)』。2016年に誕生したふたつの「GO」が照らす、翌17年以降の〈複合現実の時代〉の展望に迫ります。 ※本稿は『ユリイカ』2017年2月号特集「ソーシャルゲームの現在」寄稿の同名原稿に加筆修正したものです。 ※この記事の前編はこちら。
    中川大地さんの『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』 好評発売中!『ポケモンGO』現象の限界と特質
     とはいえ、あくまで萌芽は萌芽である。  現状の『ポケモンGO』には、スマホのカメラで採り込んだ周囲の風景にポケモンの姿を重ね合わせて記念のスクショを撮るといった以上のARらしい仕様はなく、効果的に捕獲していくためには、むしろ余分なAR機能を解除して仮想フィールド画面の中央にポケモンを固定し、まっすぐモンスターボールを投げるという遊び方へと通常は収斂していく。そうなると、プレイ環境こそ野外であれ、そのロケーションであることの意味は実質なく、あくまでスマホ画面の図像を睨みながらタッチパネルをなぞるだけの簡易ビデオゲーム的な作業に終始してしまう。  それゆえ、多くの場合は周囲の現実空間の場所性に注意や関心が払われることはなく、『ポケモンGO』を地域観光に利用しようとした町おこし担当者らの幻滅を招いてもいる。そのような行為性は、本人および周囲にとって危険か安全かという程度問題とは別の次元で、はたして人間の身体経験として、本当に健全で豊かなものと言えるのか。「『ポケモンGO』は引きこもりゲーマーを外に連れ出したのではない、屋外ですら引きこもれるパーソナルスペースと化しただけだ」という批判は、確かに本質を衝いている。
     実際、プレイ体験の多様性やユーザー間のコミュニケーションが織りなす創発性、土地性と結びつきやすい現実のロケーションへの関心喚起といった特性では、むしろ『Ingress』より多くの面で後退している。『Ingress』の場合は、二大勢力による陣取り合戦という基本設計や、クローズドサロン型のSNSである「Google+」との連動により、比較的知的レベルやITリテラシーの高い層に訴求した。そのため、両陣営のエージェント同士が常軌を超えたチーム連携で競い合ったり、本来のPvPのルールの縛りを超えた協働で、各地のモニュメントにちなんだフィールドアートを構築したりといった事象が世界中で展開され、その高度な創造性が注目を集めたのである。  対して『ポケモンGO』にあっては、現状そこまでの高度な組織性が発揮された現象は確認されておらず、公共的な社会実験としてのインパクトはいささか見劣りするものに留まっている。逆に『ポケモンGO』のムーブメント性が際立っているのは、参加ハードルの低さによるプレイヤーの裾野の広さと、ポケモンたちのキャラクター性が駆動する欲動の無軌道な強さだ。本作ではPvP的な要素がジムでのオプショナルなバトルに限られ、マルチプレイヤー型の連動性を喚起するゲーム内要素は「ルアーモジュール」によってエリアのポケモンの出現確率を高めて周辺のトレーナーに恩恵を及ぼすといった程度だ。そのため、ユーザーコミュニケーションの在り方も、オープンフロー型のSNSであるTwitterや口コミで拡散された「ポケモンの巣」に大勢のトレーナーが殺到するといったように、ソーシャルというよりも匿名的な准マス型の動員効果として帰結しやすい。
     つまり、『Ingress』が言葉の正しい意味で人間同士の社会性に依拠した「ソーシャルゲーム」であったとすれば、『ポケモンGO』もまた、多くの日本型ソシャゲが辿ったのと同様、相対的に「脱ソーシャル」なベクトルを帯びていたとも言える。その代わりに、図像とパラメーターによって表象される人間ならざる擬似生命との、知的なコミュニケーションには至らない感性的なインタラクションにリソースを割くことで、初めて〝普通の人々〟にも本格的な拡張現実型の位置情報ゲームに挑戦するだけのモチベーションを与えることができたのだと言えるだろう。  そうした特質が、かつて中沢新一が『ポケモン』が内包する可能性として指摘したような、人類の原初的な心性たる「野生の思考」の恢復と呼びうるかどうかについては、慎重な留保が必要だ。普通に考えて、現生人類のゲノムセットが進化的適応を果たして狩猟採集社会やアニミズムの心性を発達させた熱帯雨林などの複雑多様な自然環境に比べて、現行のスマホ程度のデバイスで合成できるレベルの擬似自然が情報環境として貧弱に過ぎることは言うまでもない。『ポケモンGO』のアプリそのものは、ヒトの環境認知を拡張するデジタル・アニミズムを直接的に実装したものではなく、あくまでもその状態に至るための人間の側の能動的な想像と行為を触発する契機となりうる補助具に過ぎないものだからだ。
     そのように捉え直すならば、現行のプロダクト条件において『ポケモンGO』の人類学的な可能性を最も濃密に体感させてくれるのは、スマホ画面を確認せずにポケモンの出現やポケストップへの接近を振動やLED発光によって通知し、捕獲やアイテム取得をボタン押しで簡易化してくれるオプション機器「ポケモンGOプラス」を使用した場合なのかもしれない。  このデバイスを用いる利点は、人間の認知にとって支配的すぎる視覚をスマホに占有されることなく、現実世界では見えないはずのポケモンの〝実在〟を、より原初的な体性感覚というチャンネルで感知させてくれることにある。「プラス」の操作性はきわめて記号的でミニマムなレベルに抑えられているが、それだけにトレーナー自身が『ポケモンGO』のプレイングプロセス全体を内面化していることを強く自覚させてくれるのである。本作の体験に野生の思考への接近を見出すとすれば、仏教的な色即是空の洞察にも通ずる、そのような局面を措いては考えられないだろう。
    ソシャゲのメディア特性を捉え直した『FGO』
     かようなかたちで、『ポケモンGO』は日本ゲーム外部のグローバルなITカルチャーの脈絡から、現実の〈空間〉を資源化する脱ソーシャルゲームの領域を切り拓いてみせた。それは結果的に、歴史以前の人類の精神性にテクノロジカルに条件付きながらも漸近してゆく、デジタル・アニミズムへの道筋を示唆するムーブメントとなった。  他方、『ポケモン』の鬼子として奇形的なガラパゴス的進化を遂げていた日本型ソシャゲの内的な脈絡にあっては、このカテゴリーのゲームサービスが資源化してきた〈時間〉のモチーフを主題化し、現実の年月の推移と同期しながら人類史のフィクショナルな捉え直しを試みる高度な物語が展開されていた。  2015年7月30日にサービス開始された、『Fate/Grand Order(FGO)』である。
     本作は、同人ノベルゲーム『月姫』(2001年)のブレイクを機にメジャーシーンに躍り出たインディーズ出身のレーベルTYPE-MOONが、『Fate/stay night』(2004年)以来積み重ねてきた人気ジュヴナイル伝綺シリーズの系譜の上に、初のスマートフォン向けオンラインRPGとして送り出したタイトルにあたる。ソーシャルゲーム以前からの人気IPを活用したアプリゲーム自体はごくありふれたものだが、『FGO』が傑出していたのは、それまで「Fate」シリーズが築き上げてきた世界観をトータルに捉え直しながら、「たかがソシャゲ」な先入観やジャンル制約にとらわれることなく、質・量ともにシリーズの総決算となるに相応しい正統性と壮大さを備えたシナリオを、惜しみなく展開してみせたことにある。
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  • トランスフォーマー:ロストエイジを生き延びた、日本ものづくりを継ぐ者――デザイナー・大西裕弥インタビュー(PLANETSアーカイブス)

    2017-10-30 07:00  
    550pt

    今回のPLANETSアーカイブスは、デザイナー・大西裕弥さんのインタビューです。 リアルなメカがロボットに変形する、という斬新なコンセプトを持ったタカラトミーの玩具、トランスフォーマー。2017年で33周年を迎えた異例のロングセラーです。この世界中で大人気の日本発プロダクトは、果たしてどのように作られているのでしょうか。2014年、PLANETS編集部と宇野常寛は葛飾のタカラトミー本社を訪ね、新進気鋭のトランスフォーマーデザイナー、大西裕弥さんにお話を伺いました。大西さんのデザイナーとしての美学から、日本のものづくりの文化と思想が見えてきます。(司会・構成:池田明季哉) ※本記事は2014年9月12日に配信した記事の再配信です。
    トランスフォーマーとは?株式会社タカラトミーが発売している玩具ブランド。車のように現実に存在するさまざまなプロダクトがロボットに変形する。2014年で30周年を迎え、累計出荷数は5億個、販売地域は130カ国にも及ぶ大人気玩具。ハリウッドで映画化もされている。 http://tf.takaratomy.co.jp/toy/トランスフォーマーデザイナーという職業
    ――今日は大西さんに、トランスフォーマーとものづくりの美学について伺いたいと思って参りました。トランスフォーマーは世界中に展開されていて、今や知らない人がいないほどの存在感があるブランドです。これほどまでに世界に受け入れられているおもちゃが日本のデザイナーによって作られているということは、これからの文化やものづくりを考える上で、重大な意味を持っているのではないか、と考えています。
    ですので今日は、トランスフォーマーというプロダクトの何がこれほどまでに世界中の人を惹きつけるのかを伺っていきたいと思っています。大西さんは近年トランスフォーマーのデザインを手がけているということなのですが、どういった部分を担当されているのでしょうか。
    大西 僕は企画からデザイン、開発、そして金型のシミュレーション、さらには試作品をチェックして、生産に回すところまでを一貫してやっていますね。
    ――なるほど、それは要するにほとんど全てのプロセスに関わっているということですよね。おもちゃのデザイナーって「おもちゃの外見を絵に描いて決める」という部分だけを担当することがほとんどだと思います。デザイナーが企画から金型のシミュレーションまでしているのというのは珍しいですよね。
    大西 普通、変形機構を除いた表層的なデザインなどに関しては外部に依頼したりもするのですが、僕は全部自分でやっています。僕を含めた8人ほどのチームで年間120体程度のトランスフォーマーの開発を行っているのですが、全員で制作プロセスのほとんど全般にわたって踏み込んで関わっていますね。
    ――トランスフォーマーって、ものすごく高度なプロダクトですよね。例えば車のトランスフォーマーだったら、実車のデザインがあって、それと全く異なる形状の人型のデザインがあって、それを繋げて実際に変形できるようにしないといけない。どのようにして実現されているのかずっと不思議だったのですが、デザイナーが全体のプロセスに関わっているからできるということだったんですね。
    車をいかにして解剖するか
    ――実は僕、20年来のトランスフォーマーファンで、今日も私物のトランスフォーマーを持ってきているんです……。

    これ、大西さんがデザインされたトランスフォーマー、「ドリフト」です! 世界で最も高級と言われるスーパーカー「ブガッティ・ヴェイロン」が、サムライをモチーフにしたロボットになめらかに変形します。個人的にはトランスフォーマー史に残る傑作だと思っています(笑)。

    なぜかというと、このフロントグリルが車とロボットで共通なんですね。非常に細かい話のようですが、ここが重要だと思うんです。映画のデザインに忠実にするのであれば、車のグリル部はダミーと割り切って、ロボットのグリル部を専用のパーツにした方がいいはずだし、構造上はそれが可能です。にも関わらず、敢えてダミーパーツを使わず、共有のパーツを使っている。僕はこのことにすごく驚いて、これを作ったデザイナーさんは絶対に、確固たる美学と思想に基づいてデザインをされていると思ったんですね。
    ▲ドリフトの変形プロセス。複雑に見えるが、手に取ると意外にも直感的でわかりやすい。車のフロントグリルがそのままロボットの胸部になっているのがわかる。
    大西 こんなマニアックな取材は初めてですよ(笑)。ありがとうございます。
    宇野 ちょっと僕のほうから聞いてみたいのは、例えば二次元で変形を考えるのと、実際に三次元にしたときにかっこよく変形させるのでは、使う脳がぜんぜん違う気がするんです。「この車をロボットに変形させるときには、このパーツをどこに配置しよう?」というようなことから考えていくんでしょうか。
    大西 最近は映画のトランスフォーマーのデザインをすることが多いのですが、映画の変形シークエンスは全てCGで作られていて全く再現が不可能なので、そこはほぼ無視しています。
    ▲劇場最新作(取材当時)「トランスフォーマー・ロストエイジ」の変形プロセスを含む予告編。15秒あたり、55秒あたりがわかりやすい(YouTube)
    その上で、元々の素材の象徴的なパーツを中心に変形を考えていきますね。例えばこのドリフトであれば、このフロントグリルのパーツが象徴的だったので、この部分を胸のパーツにしてやろう、というところからデザインをスタートしていきました。
    実車も参考にしたいところなのですが、ブガッティ・ヴェイロンは2億円以上するのでさすがに無理でしたね(笑)。でも仮に実車が見られなくても、海外のおもちゃメーカーでライセンスを取って実車に忠実につくっている模型は必ず買って参考にしています。モチーフが動物であれば動物園に行ったりもしますし、元の素材をしっかりと観察するということは大切ですね。
    宇野 なるほど、解剖学的なところがあるわけですよね。車を本来の構造とは別の方法でこんなにバラバラにしている人って、世界中でトランスフォーマーのデザイナーしかいないかもしれないですね。
    ▲大西さんの開発画稿。車に分割線が引かれている
    ダミーパーツを使わないということ――機能と表層を一致させる美学
    大西 最初にトランスフォーマーに関わったときは僕も「一体どうやるんだ!?」と思いましたね(笑)。
    配属されて最初に作ったのが、飛行機から変形するこの「スタースクリーム」です。非常に苦労したのですが、一週間で全部考えてやりました。
    ▲「スタースクリーム」。基地遊びを中心にした「メトロマスター」というカテゴリの小型商品。
    考えてみれば、この作品からドリフトまで、ダミーパーツを極力使わないという点は僕がデザインをやる上で一貫しているかもしれないですね。スタースクリームは、ロボットに変形したときに胸部に飛行機の機首が来ているという特徴的なデザインのキャラクターなんです。本当は、機首を後ろに倒してしまって、飛行機のときは見えないロボットの胸部に最初からダミーの機首をつけておいた方がデザインをする上では楽なんです。でもどうしてもダミーパーツを使いたくなくて、この小さいサイズでもちゃんと本来の機首が胸に来るようにこだわりました。
    ▲こだわりの機首の変形
    ――大西さんがダミーパーツを極力排そうとしているのはなぜなのでしょうか。
    大西 近年のトランスフォーマーは、デザインも変形プロセスも複雑化してしまったために、ダミーパーツを多用せざるを得ない時期がありました。ですが、そもそもトランスフォーマーは工業製品ではなくあくまでおもちゃなので、「子どもたちに遊んでもらいやすい」ということが重要なはずだと思ったんです。
    例えば同じ車でも、どういったプロセスでロボットになるかは一体一体違う。「どう変形させればロボットになるのか」というヒントがあるからこそ、子どもたちは想像力を働かせることができます。ロボットの完成形を見たときに印象的な部分をダミーパーツにしてしまうと、そういった想像力を働かせる回路が機能しなくなってしまう。それではおもちゃとして面白くないんじゃないかと思ったんです。
    宇野 ダミーパーツを使うというのは、変形前と変形後が両方かっこよければそれでいい、という思想ですよね。変形はあくまで手段でしかない。ひとつのアイテムでふたつの形が楽しめればそれでいい、という考え方です。でも本来のトランスフォーマーというのは、変形することそれ自体が目的だという美学があるので、本当ならダミーパーツはないほうがいいわけですよね。
    「プロダクトとしての『モノ』そのものの使いやすさを追求したい」(大西さん)
    ――ファンの目線から言うと、トランスフォーマーはハリウッド映画になったときに、ひとつ大きな転機があったと思うんです。2007年にマイケル・ベイ監督の映画が公開されたとき、実際に走っている車がロボットに変形する衝撃的な映像が全世界に発信された。でもその表現は、いわゆる二次元の嘘というか、超絶CGであり得ない場所からパーツがニョキニョキ生えてくるものだった。にも関わらず、全世界の観客はそこにリアリティを感じて熱狂したんです。それがなぜかと言えば、ひとつの連続したプロセスで無理なく車からロボットになるという独自の美学を持った、手に取れるおもちゃがあったからですよね。
    大西 トランスフォーマーの美学というのももちろんなのですが、これはプロダクトのデザイナーとしてのこだわりでもあるんです。僕は「もの」そのものが使いやすい、快適であるということをすごく大切にしています。例えばこれは、まだ発売前の商品なのですが……。
    ――こ、これは「ブレインストーム」ですね!
    ▲「ブレインストーム」。アメリカでは2014年末、日本では来年初頭発売予定(取材当時)
    大西 はい。これは小さなロボットが大きなロボットの頭部になって合体する「ヘッドマスター」というカテゴリの商品です。80年代にあったおもちゃを、現代の技術でリメイクしたものですね。これはプロダクトデザインの要素をたくさん詰め込んでいます。
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  • 脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第32回「男と食 3」

    2017-10-27 07:00  
    550pt

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。今回は敏樹先生が出会った「最悪の店」のお話です。年に数回無性に食べたくなるというお好み焼き。しかし、そこには少し暗い思い出が……?
    男 と 食  3   井上敏樹
    前回は困った料理人について書いた。今回は私の記憶にある最悪の店について書いてみたい。私がまだ小学生だった頃の話である。母親と弟と三人で、親戚の家に遊びに行った帰り、地元の商店街に新しい店を発見した。お好み焼きの店である。店先のウインドに各種お好み焼きの蝋のサンプルがテラテラと光っている。そう言えば母は着物を着ていたような記憶があるので、法事かなにかの帰りだったかも分からない。夕食を作るのが面倒だったのだろう、とにかく私たちは店に入った。ガランとした店内に、客は私たちだけだった。片隅にマンガ雑誌が積まれ、高い所にテレビが点けっ放しの、極く普通の店である。私たちが席に着くと、奥の方から女将が水とメニューを運んで来た。女将、と言ってもセーター姿に髪を引詰めにしたまだ若い女だった。暖簾に『サッちゃんの店』とあったから、多分、サッちゃんである。色白、小顔、雛人形のようで、いい感じだ。私たちがお好み焼きと焼きソバを注文すると、サッちゃんはカラカラと木のサンダルを鳴らし、奥の方に戻っていく。しばらくすると男の怒声が聞こえて来た。サッちゃんが消えた店の奥からである。そしてがちゃんっと何かが割れるような音。空きっ腹を抱えた私と母と弟は黙って顔を見合わせた。
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  • 【特別寄稿】宇野常寛「あなたはなぜ『母性のディストピア』を読むべきか」

    2017-10-26 07:00  

    10月26日(木)、宇野常寛待望の新著『母性のディストピア』が発売になりました。「新しい思考」の場となることを期待されていたはずのインターネットは、いまや自尊心を守るために他人を叩くための場となってしまいました。宇野がこの卑しさを解き放つ活路を見出したのは、アニメ、ゲーム、アイドルについて語ることでした。人々の欲望にまみれた市場の中の表現にこそ世界の真実が露呈する。宇野が思いのたけをぶつけた書き下ろし原稿を全文無料公開でお届けします。
     この1ヶ月あまり、いろいろなことがありすぎた。  ご存知の方も多いと思うのだけど、僕は先月末に2年半レギュラーを務めたテレビ番組をクビになった。この1年、日本テレビは僕の発言(特に政治的な発言とマスコミへの批判)を押さえ込みたくて仕方なかったらしく、ちょくちょく衝突を繰り返していた。特に決定的だったのがアパホテルの出版した歴史修正主義への批判だ。誰がどう
  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2017.10.25

    2017-10-25 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    今月から水曜日にお引越し!21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★テーマ「緊張した瞬間」今週の1本「本・・誰も語らなかったジブリを語ろう」アシナビコーナー「たかまつななの水曜政治塾」and more…
    今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日10月25日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:たかまつなな(お笑いジャーナリスト)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
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  • 鷹鳥屋明「中東で一番有名な日本人」第5回 中東でエンタメ大国は生まれるのか?

    2017-10-25 07:00  
    550pt

    鷹鳥屋明さんの連載『中東で一番有名な日本人』。若年層の多い中東では、年々アニメや漫画、ゲームの人気が高まっています。5〜6万人を動員するというドバイコミコンを筆頭にイベントも乱立していますが、「中東クオリティ」のトラブルが起こることも多くあり……。延期を重ねるイベント、準備体制が「マイナス」のワークショップ、いっこうにできあがらないアニメ、それに翻弄される日本企業の様子まで、鷹鳥屋さんに詳細に語っていただきます。
     前回は石油依存型の経済から脱却し、石油産業以外の産業を興そうと努力をするサウジアラビアの現状とサウジアラビアの若者が以前よりは勤勉に働きつつある近年の流れについてお話しました。今回は今後、中東各国が発展させようとしている様々な産業の中で特に注目すべき産業、日本も深く関わることになるでしょう、エンターテイメント産業にフォーカスを当てたお話をさせていただきたいと思います。それと合わせてエンターテイメント産業を活発化させて「エンタメ大国」を目指す中東各国の現状についてご紹介、さらにこの「エンタメ大国」の担い手が人口の多くを占める若年層たちを盛り上げるために行っている投資やイベントの様子についてお話させていただければと思います。
    ▲政府主催イベントで『まどマギ』について語る女性スピーカーと聴衆
    乱立する中東アニメ・漫画イベント戦国時代
     近年、中東の各国ではアニメ、漫画系のイベントが乱立しています。小規模なイベントから大規模なイベントまで行われており特にこの2〜3年の間に中東の様々なイベント会場で行われ吸収、合併、解散など動きが激しくなっております。 ある意味、エンタメ系イベントの戦国時代と申しますか、激しい競争が行われています。一番大きなものはドバイコミコンで3日間に5〜6万人近くの来場者数を誇ります。この後の表以外にも水面下で動いているイベントなども多数存在しており、11月のコミコン・アラビアや12月の日本村イベントなど小規模、中規模のものは除いて大規模なものをピックアップしてみました。
    ▲乱立する中東各地のアニメ、漫画イベントの一例(10月以降の内容は仮予定)
     現状ではアラブ首長国連邦がその利便性と会場の融通性、展示物、販売物の規制の緩さ(展示物や販売物の肌の露出の問題など)によりリードをしていますが、皆ドバイコミコンに対抗してより良い集客のためにクウェートやサウジアラビア、カタール、アブダビでは有名なアーティストを呼ぶべく、招致合戦を活発化させております。ただ同時にその裏で、例えばこれは某北アフリカのイベントなのですが、肌の露出が多いコスプレイベントを反イスラム的と考えるイスラム過激派がイベントを中止させるため主催者の一人を拉致する、などという事件が起きています。主催者は後ほど無事解放されました。今までの保守的な文化と開放的な文化とのせめぎ合いのトラブルもそこそこ聞きますが、やはり中東各国の多数派を占めるのは若年層であり、この層はゲームやアニメに対して親和性が高いため徐々に受け入れられており、年々この種の規制が緩くなっているという印象を受けます。戒律などで女性の肌の露出が厳しいサウジアラビアでも去年のサウジコミコンではコスプレゾーンを男女それぞれのゾーンを完全に区切ることでこれらの問題に対処しています。
    ▲中東一の来場者数を誇るドバイコミコン会場(DWTC) ▲アブダビ開催のアニメイベントの広告に集まる観客 ▲ドーハで日本のアイドルに笑顔のカタール人©「みちのく仙台ORI☆姫隊」 ▲クウェートのアニメイベント内のコスプレ大会の様子■PLANETSチャンネルの月額会員になると…
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  • 中川大地 ふたつの「GO」が照らす〈空間〉と〈時間〉―――『ポケモンGO』『Fate/Grand Order』が体現する脱ソーシャルゲームの道筋 前編(現代ゲーム全史・特別編)

    2017-10-24 07:00  
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    文筆家/編集者・中川大地さんの『現代ゲーム全史』刊行から1年余。2015年で完結していた同書の“先”の展開を、特別編としてお届けします。日本ゲームのソーシャル性の原点とも言える『ポケットモンスター』から20年。2016年に登場した『ポケモンGO』は、国産ゲームの発展とは切り離された脈絡から逆輸入され、人々に衝撃を与えました。今回は日本型ソーシャルゲームの発展と現状を踏まえつつ、『ポケGO』が見せた文化的な意義に迫ります。 ※本稿は『ユリイカ』2017年2月号特集「ソーシャルゲームの現在」寄稿の同名原稿に加筆修正したものです。
    中川大地さんの『現代ゲーム全史──文明の遊戯史観から』 好評発売中!「脱ソーシャル」ゲームの時代
     はじめに、そろそろ古めかしさの漂いつつある「ソーシャルゲーム」と呼ばれるゲームジャンルの成り立ちと現状を確認しておこう。  元々この語は、2000年代後半に登場したPCやフィーチャーフォン(ガラケー)ベースのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で構築されたソーシャルグラフ(登録会員のネットワーク)を利用して行われる、簡易な多人数参加型ブラウザゲームを指すカテゴリーとして登場した。  日本での大きな転機としては、『サンシャイン牧場』(2009年)や『怪盗ロワイヤル』(2009年)における、基本無料のアイテム課金型ビジネスモデルの成功によって、「Mobage」と「GREE」を双璧とするソーシャルゲーム市場は急拡大。さらに『ドラゴンコレクション』(2010年)などで確立された、ガチャ等によるコレクション要素のある簡易トレーディングカードゲーム(TCG)型のゲームデザインが驚異的な課金ユーザーの増加を促し、わずか数年で従来の家庭用ゲーム市場を抜き去るに至った。
     しかし2010年代に入ると、スマートフォンの普及が進行し、ガラケー時代のゲームSNSは成長期に劣らぬ急速さで衰退。とりわけ『パズル&ドラゴンズ』(2012年)のブレイク以降は、モバイルゲームの主流はネイティブアプリ型へと一気に移行し、SNSに立脚するという元来の意味でのソーシャルゲームは、ほぼ衰滅したも同然の状態となっている。  したがって現在「ソシャゲ」と略されながら慣習的に用いられているこの俗称は、『ドラコレ』以来のカードコレクション型のシステムを踏襲している、単なるフリーミアム課金型モバイルゲームの謂となりつつある。のみならず「ソーシャル」の原義に反し、2012年のコンプガチャ問題や2016年頭の『グランブルーファンタジー』(2014年)でのレアキャラ登場確率問題でしばしば槍玉に挙げられるように、反社会的な業態のレッテルに堕している面さえある。
     ソシャゲにおける有料アイテムの価値の多くは、究極的には時間経過によって無料でプレイできる権利が回復していく「スタミナ制」のゲームデザインに立脚している。つまり、良心的なタイトルであれば、無課金でも時間をかけたり戦略を工夫をしたりすることでゲームを楽しめるのだが、少なからぬユーザーがそれでは不足を感ずる難易度バランスになっている。それゆえ、様々なアイテムを購入したり、強いユニットのカードを引き当てることでハードルを引き下げ、トライアルの時間を短縮するために、人々は課金に誘導される。  これは悪く捉えれば、ユーザーの可処分時間を搾取してカネに換える〝時間泥棒〟なビジネスモデルに他ならない。加えて、その価値の正味の多寡がカードガチャのような射倖心を煽る手法によって不透明になっているため、パチンコ同様の情弱騙しのビジネスと目され、現在の日本型のソシャゲは、従来のゲームファンやコンテンツ愛好者から白眼視される蔑称としてのニュアンスをも帯びてしまっているのである。
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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第12回 「世界の終わり」はいかに消費されたか――〈宇宙戦艦ヤマト〉とオカルト・ブーム(PLANETSアーカイブス)

    2017-10-23 07:00  
    550pt

    今回のPLANETSアーカイブスは「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」をお届けします。ここからの講義録は「戦後アニメーションと終末思想」がテーマ。今回は70年代半ばに第一次アニメブームを起こした『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』におけるSF作品の内実の変化と、『幻魔大戦』に代表される「オカルト」というモチーフの浮上を扱います。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2016年11月25日に配信した記事の再配信です。)
    冷戦下のリアリティと『宇宙戦艦ヤマト』が描いたもの
     今回からは、マンガ・アニメを代表とするオタク系サブカルチャーの想像力とその変質について、戦後消費社会の展開を追いながら話していきたいと思います。
     みなさんは「世界の終わり」という言葉を聞いてどんなことを想像するでしょうか? 
     ……そうですね、痛い感じのビジネス中二病のバンド(SEKAI NO OWARI)のことしか思い浮かばないですよね。  でも僕が子どもの頃は、「世界の終わり」ってマンガ・アニメの定番モチーフだったんです。「人類最後の大戦争が起こって人間は滅びるんじゃないか」「大戦争によって本当に世界の終わりがやってくるんじゃないか」というイメージがすごく強かった。  これはなぜかというと、当時は米ソ冷戦の真っ最中だったからですね。どちらも核兵器を大陸間弾道ミサイル(ICBM)に載せていつでも発射できるようにしていて、もしアメリカとソ連が全面戦争になったら報復攻撃の連鎖で世界中が核ミサイルで破壊されてしまうのではないか。そういうイメージに非常にリアリティがあったんです。
     それに加えて、特に1970年代から90年代にかけて「ノストラダムスの大予言」というものが大流行しました。「1999年7の月、空から恐怖の大王が下りてくる」というやつですね。それが日本のオカルト好きの間で広く共有されていて、「恐怖の大王って核兵器のことじゃないのか」と言われていたんです。なんとなく、「20世紀の末に世界は核の炎に包まれて人類は滅亡する」という「世界の終わり」のイメージが若者たちのあいだで共有されていたわけです。今回はそういった終末思想が、サブカルチャーの想像力によってどう描かれてきたのかを扱っていこうと思います。  また逆に、「なぜ現代ではそういうモチーフが消滅してしまったのか?」という問題も考えてみたいと思います。いまや「世界の終わり」といえば単にビジネス中二病バンドの名前でしかなくなっているわけですが、このモチーフがなぜそこまで陳腐化してしまったかということですね。
     まずはこの作品からみていきましょう。
    (『宇宙戦艦ヤマト』映像再生開始)
     みなさんはこの作品を知っていますか? あ、さすがにほとんどの人が知っているようですね。でも存在を知っているだけで、中身までは知らないでしょう?  この『宇宙戦艦ヤマト』は、一番最初のアニメブームの起爆剤となった作品です。1974年にテレビシリーズの放映が開始され、そのときはそこまでヒットしなかったんですが、再放送でじわじわと人気に火が付いていきました。  ここまでの講義でもお話ししてきたとおり、1970年代までアニメって多くが子ども向け番組だったわけですが、『宇宙戦艦ヤマト』はティーンエイジャーから20代の学生、若い社会人に支持を受け、社会現象とも言える大ヒットになった作品でした。そしてこれをきっかけに、70年代半ばから後半にかけて続々とティーンエイジャーから大人をターゲットにしたアニメが制作されるようになっていきます。

    ▲宇宙戦艦ヤマト 劇場版 [Blu-ray] 納谷悟朗 (出演), 富山敬 (出演), 舛田利雄 (監督)
     『宇宙戦艦ヤマト』は――のちに『機動戦士ガンダム』でも繰り返されることですが――全国にファンクラブができて広がっていき映画化もされたんです。
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  • 宇野常寛『宮藤官九郎と日本の「長すぎた思春期」』

    2017-10-20 07:00  
    550pt

    秋クールでも注目度抜群のTBSドラマ、宮藤官九郎脚本の『監獄のお姫さま』が今週10月17日(火)にスタートしました。そこで、今回は本誌編集長・宇野常寛による宮藤官九郎論をお届けします。2016年のテレビドラマ『ゆとりですがなにか』で描いたものと描かなかったものを通じて、東京五輪がテーマになるという次作への期待と課題を語ります。(初出:テレビの見る夢 ― 大テレビドラマ博覧会 図録)
     テレビドラマ作家としての宮藤官九郎は、自身より一世代下の男性に仮託するかたちで青春とその終わりを反復して描いてきた作家である。とりあえず今回はここから出発しよう。  宮藤は「モノはあっても物語のない」消費社会に育った少年たち――『池袋ウエストゲートパーク』は九〇年代の渋谷に間に合わなかったチーマー(都市の少年たち)の、『木更津キャッツアイ』は後に「マイルドヤンキー」と呼ばれるジモト志向のブルーカラーの現代形の――それぞれ思春期の終わりを描いていたはずだった。そして『マンハッタンラブストーリー』はそんな思春期を通過した(してしまった)三十代たちの物語だった。恋愛という自分が主役の物語しか語り得ない三十代の「現実」が『マンハッタンラブストーリー』なら、彼ら「寄る辺なき個」の軟着陸先として提示された「家族(ゴッコ)」あるいは「(拡大)家族」のビジョンが『タイガー&ドラゴン』であり『吾輩は主婦である』であり『流星の絆』だったはずだ。これらの正統なアップデート版が『11人もいる!』であり、そして家族(ゴッコ)/(拡大)家族には回収しきれないものの受け皿としての『木更津キャッツアイ』的なホモソーシャルの再検討が『うぬぼれ刑事』だったように思う。  同世代の同性たちからなる若者のホモソーシャルが加齢とともにゆるやかに解体し、やがて(擬似)家族的なものに回収されていく。しかし宮藤の想像力は教科書的な成熟と喪失の物語を選ぶことはなく、やがて男の魂は新しい、大人のホモソーシャルに回収されていったのだ。
     宮藤のドラマからいつも感じるのは、部活動的なホモソーシャルだけが人間を、特に男性を支えうるという確信と、その一方でこうしたホモソーシャルの脆弱さに対する悲しみだ。この確信と悲しみの往復運動が、宮藤作品における長瀬智也の演じるキャラクターの変遷をかたちづくり、あるいは『木更津キャッツアイ』シリーズでクドカンが描いてきた儚いユートピアのビジョンに結実していった。  この視点から『木更津キャッツアイ』について振り返るのならば、人間がこうした部活動的なホモソーシャル、同世代の、同性からなる非家族的な友愛の、「仲間」的なコミュニティに支えられたまま(「まっとうな近代人」の感覚からすればモラトリアムを継続したまま)歳をとって死んでいくという人生観を提示し、しかもそれを幸福なものとして描き出したところが衝撃的だったと言える。そして『タイガー&ドラゴン』以降の作品は、宮藤自身がこの『木更津キャッツアイ』で提示したものを自己批評的に展開していったものに他ならない。「ジモト」のホモソーシャルから、現代的な成熟の器としての(拡大)家族へ――このビジョンの集大成にしてメジャーへの応用が『あまちゃん』だったのだろうと思う。
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  • 戦後史としてのロボットアニメと〈移体性〉――フランス人オタクと日本アニメ熱狂の謎に迫る 『水曜日のアニメが待ち遠しい』著者 トリスタン・ブルネ インタビュー・後編(PLANETSアーカイブス)

    2017-10-19 07:00  
    550pt

    今回のPLANETSアーカイブスは『水曜日のアニメが待ち遠しい』著者で、日本のアニメ・漫画のフランスでの受容構造を研究しているトリスタン・ブルネさんへのインタビュー後編です。ブルネさんの提唱する「移体性」という概念のもつ可能性について、丸山眞男の「無責任の体系」等とも比較しながら、宇野常寛がお話を伺いました。 ※この記事の前編はこちら
    ■ 主体性なき日本人の「移体性」
    宇野:ブルネさんは研究者としては、日本の歴史を専門にされているそうですね。
    ブルネ:日本の「史学史」、つまり日本における歴史の描かれ方を研究しています。博士論文のテーマは、55年に刊行された遠山茂樹らによる『昭和史』と、それへの批判から起こった、いわゆる「昭和史論争」です。この論争は、日本がなぜ戦争という悲惨な歴史を歩むことになったか、そこに至る歴史の描き方を、当時のマルクス主義者である遠山たちと、評論家・亀井勝一郎をはじめとする批判者が議論したものでした。僕はそれを、日本アニメの物語構造を読み解くヒントとしても、重視しているんです。
    宇野:なるほど。僕が、ブルネさんは戦後の日本思想の研究者でもあると知って思ったのは、「移体性」という概念が、丸山眞男の言う「無責任の体系」と近いということなんです。つまり、社会にコミットしている自分はじつは自分ではなく、大きなものの顔色を伺った結果、主体的な判断なしで生み出された自分だ、と。ブルネさんの言う、主体でも客体でもない日本人の自己意識の持ち方には、これとの密接なつながりがある。戦後の中流文化を代弁しうる日本のロボットアニメは、同時に、独裁者のいないファシズムを生んでしまう「無責任の体系」と、表裏一体の関係にあると思うんです。
     これに対して日本の多くの知識人は、その移体性を捨てろと言ってきた。要するに、近代的な主体になれ、と言ってきたわけです。しかし果たして、そんな単純な問題なのか、という疑問がある。ブルネさんの本で描かれていたのは、むしろそれを捨てることで、戦後の中流家庭はアイデンティティーを見失い、新たな空白が生まれるかもしれない、ということでしょう。その意味であの本は、丸山批判でもあるのではないか。
    ブルネ:たしかによく言われる「日本人の主体性のなさ」は、移体性とも関係するかもしれませんね。ただ、日本で梅本克己のようなマルクス主義者が主体性の確立を叫んでいたころ、フランスでは存在論のブームがありました。とくに作家のアルベール・カミュの存在論なんかは、主体と客体の間の不条理を強調している。フランスにも、主体性は自明的にずっとあったわけではないんですね。もうひとつ、第二次世界大戦以前のフランスを含むヨーロッパの国々には、じつは日本的な移体性や、勧善懲悪的ではない大衆文化が多くあったんです。たとえば怪盗をヒーロー化した『アルセーヌ・ルパン』もそうです。しかし戦後に残ったのは、アメリカ型の物語だけだった。善悪はくっきり分けられるようになり、移体性を可能にする抽象的なスペースは失われていった。
    宇野:一方の日本の戦後アニメは、移体性を捨てずにどう成熟するのかをずっとテーマにしてきました。ヨーロッパでは失われたのに、なぜ日本では移体性が生き残ったのか。僕の仮説は、日本には元から主体性はなく、移体性しかなかったからというものです。
    ブルネ:なるほど。反対にフランスでそうした文化の側面が失われたひとつの原因は、移体性に目を向けることが「ナチス的」と捉えられがちだったからかもしれません。
    宇野:実際にナチスのデザイン面は、現代のサブカルチャーに大きな影響を与えていますよね。
    ブルネ:そうですね。日本アニメを輸入し始めた1970年後半には、すでにエリートを中心にした大人たちが、戦うロボットに自身を投影して熱狂している子どもたちの姿を見て、「ナチ的だ」「大衆に悪い影響を与えている」「暴力の賛美」などと言っていました。もちろんそこには、戦中の日本の軍国主義のイメージから来る偏見もあります。あと蛇足的なことですが、『グレンダイザー』のオープニングテーマが仏語訳された際、そこに「土地」という単語が入ったんですね。「我々の土地を守れ」といったような歌詞として届けられた。それで「やっぱり差別的だ!」という反応を生んだんです。
    宇野:そんな経緯もあったんですね。
    ブルネ:ただそうやって、日本アニメが与えてくれる移体性の経験を隠蔽しようとした結果のひとつとして、一部の人々の極右化を招いたと僕は思いますね。
    宇野:自分たちのアイデンティティーを表現するカルチャーを持ってないがために、ネオ・ナチのような極右化が起こってしまった、と。
    ブルネ:いまのフランスが直面している移民問題の拡大も、それとは無関係ではないはずです。自分たちを物語に仮託できないこと、つまり移体性を経験できない不満を解消するために、「排外主義」という最悪の物語に染まってしまったんじゃないか。僕の少年時代の経験からすると、日本アニメは差別的でも何でもなく、フランス人の子どもも移民系の子どもも、同じように楽しむことのできる、共通の話題だったんですよ。
    宇野:日本は先進国の中でも階級差が少ない国だと思うんですが、日本のサブカルチャーの特徴は、エリートからブルーカラーの子どもまで、みんな同じ作品を愛していたことにあると思います。戦後の中流化、つまりフラット化と、アニメ受容のフラット化は重なりながら進んだ。しかし問題は、いまそのアニメの力が失われていることです。
     日本では80年代前半に若者向けのサブカルチャーが大きく発展するのですが、その受容者というのは、基本ノンポリです。彼らはベビーブーマーたちを揶揄して「政治的な話をするのはカッコ悪い」と主張していた。ただ、サブカルチャーの受容者たちの中でも、アニメファンを中心とした今で言う「オタク」たちはちょっと違った。彼らは同世代の中では相対的にだけど政治的だったと思います。ただ、それは旧世代のようにイデオロギー回帰しているという意味ではなく、プラグマティズムとリアルポリティクスに基づく態度でした。ところが90年代後半以降になると、このオタクたちの多くは排外主義的な右翼になってしまった。その背景には、かつてアニメが持っていた移体性の力を、日本のアニメファンたちが信じられなくなったことがあると思う。
     僕の理解では、かつてのオタクたちが保持していたプラグマティックな政治性は、戦後中流文化の生んだ独特の社会的な立ち位置と、その表現としてのブルネさんのいう「移体性」と深く結びついていた。要するに、戦後中流的な「移体性」的な社会へのコミットの抽象化された表現が「ガンダム」の代表するロボットアニメだった。
     しかし、日本社会からは戦後的中流文化は後退し、アニメも移体性の表現を担いきれなくなっていっていると思うんです。
    ブルネ:移体性には、自分の欠落を埋め合わせる部分があるので、それがアニメなどのカルチャーから与えられないと、「国民的なプライド」という方向に向かってしまうんでしょうね。アニメも誰かから与えられたものである点は変わらないけれど、想像力という媒介を経ていました。いまの排外主義には、想像力の枯渇しか感じません。
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