今回のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』論をお届けします。なぜ村上春樹は決定的な問いを避け続けてしまうのか。常に物事から距離を置く主人公が葛藤を乗り越えて他者と関わろうとする、作者の二十年来のテーマを扱いながらも中年男性の自己回復の物語に終始してしまった本作について宇野常寛が考察します。
※この記事は2013年12月9日に配信した記事の再配信です。
(初出:「ダ・ヴィンチ」2013年6月号)
〈文芸春秋は18日、村上春樹さんの新作小説「色彩を持たない多崎(たざき)つくると、彼の巡礼の年」を20万部増刷することを決め、累計発行部数が100万部に達したと発表した。
12日に発売されてから7日目。文芸春秋は「文芸作品では最速でのミリオン到達では」としている。村上さんの作品では前作「1Q84 BOOK3」が発売から12日目に100万部に到達している。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はネット書店での予約などが多かったことを受け、発売前から増刷を重ね、計50万部で売り出された。発売初日にも異例の10万部の増刷を決めたが、売り切れ店が続出。15日にも20万部の増刷を決め、6刷80万部に達していた。〉(産経新聞2013年4月18日)
村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が発売直後からベストセラーになっているという。
僕もまた、村上春樹の愛読者のひとりだ。僕の代表作『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)は村上春樹論でもある。「リトル・ピープル」とはこの本が刊行された当時の春樹の最新作『1Q84』に登場する超自然的な存在にして「悪」の象徴だ。この『1Q84』という小説に、僕は不満を覚えた。正確にはこれまでの村上春樹の長編小説に比べて、あまり想像力を刺激されなかった。そしてそのことが、僕がその本を書く動機になった。
春樹は二〇〇八年、おそらくは『1Q84』執筆初期に行われたインタビュー中の発言にてこう述べている。
〈「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」〉
(毎日新聞 2008年5月12日 僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉)
リトル・ピープルとはまさに、人々を「精神的な囲い込み」にいざなう社会構造の象徴だ。このリトル・ピープルに対抗するために主人公とヒロインたちが行動を起こす─それが『1Q84』の物語の骨子だ。しかし『1Q84』は完結編であるBOOK3で、それまで中心にあったこの主題─リトル・ピープルの時代への「対抗」という主題─を大きく後退させて(事実上放棄して)しまう。前半に物語を牽引したリトル・ピープルとそれを奉じるカルト教団はほとんど姿を見せず、主人公の「父」との和解と、ヒロインの一人との再会がクローズアップされる。主人公=中年男性の自己回復と自分探しの物語が全面化し、時代へのコミットメントという主題は後退するのだ。僕はここに村上春樹の想像力の限界を感じて、そして前述したあの本(『リトル・ピープルの時代』)を書いた。現代=リトル・ピープルの時代へのコミットメントのかたちを模索する、という春樹から引き継いだ主題については、まったく別の作品群を用いて考え抜いた。
しかしその一方で、僕は春樹自身がいつか、それも近いうちにこの問題に彼なりの回答を示してくれるのではないかと期待していた。もちろん、これは僕の勝手な期待であり、作家が答える必要もなければ、答えないことで責められる必要もない。だから、僕は続く村上春樹の新作長編『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』を一読したとき、個人的に落胆はしたがこれを批判しなければならないとは思わなかった。だから発売当日にこの本を買って読み終えた僕は、その日の夜に放送するこの春から担当することになったラジオの深夜放送番組で、この本はそもそも肩慣らし投球のようなもので、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』のような総合小説を期待してはいけないと釘を刺したうえで分析を始めた。
そう、『色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年』は発売されたことだけで「事件」となる社会的インパクトとは裏腹に、作品自体はいわゆる「小品」だ。