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1990年初頭における日本マンガブームとその立役者|古市雅子・峰岸宏行
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1990年初頭における日本マンガブームとその立役者|古市雅子・峰岸宏行

2020-12-09 07:00
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    北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第3回。
    冷戦体制が終焉した1990年代初頭、台湾を経由して中国本土でも日本マンガの海賊版ブームが巻き起こります。とりわけ海南美術撮影出版社が刊行した『女神的聖闘士(聖闘士星矢)』は中国オタク文化の火付け役となり、さらに日本の各マンガ雑誌からのコピーに加えて国内作家の作品を掲載した「画書大王」の創刊で、中国オリジナルのマンガ史が切り拓かれていきます。

    古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究
    第3回 1990年初頭における日本マンガブームとその立役者

     今回は、コミック出版のさきがけとなり、中国全土に大きな影響を与えた「海南美術出版社」や漫画連載誌「画王」等を取り上げて、テレビと同時に中国の青少年に与えた漫画による日本コンテンツの影響をお伝えしたいと思います。

    1.台湾から波及した日本マンガの海賊版ブームの勃興

     改革開放によって民間や個人でビジネスをし、稼ぐことができるようになり、少しずつ財を築く人が出てきた1990年代初頭。WTOへの加盟は2001年まで待たねばならず、新しい時代のビジネスルールを模索しながら経済発展に向かっていた中国に、アニメに牽引された日本マンガのブームが訪れます。『鉄腕アトム』や『トランスフォーマー』の爆発的な人気を受け、中国の子供たちはより多くのマンガやアニメに触れたくなっており、それに応えるようにマンガが出版されていきます。1993年前後にはのべ1億冊以上の日本のマンガが中国で出版されていたとの考察もあるほど、まさに子供向けの出版市場を席巻していました。[1]
     しかし市場経済における著作権に対する理解はまったくと言っていいほどなく、連絡方法や言語の違いなど様々な壁があり、海外の出版社と連絡を取ることもなかなかできなかったため、出版されたマンガの多くは版権を取得していない、いわゆる海賊版でした。そのため、それぞれ出版に至るルートをたどることはかなりの困難を伴います。ネットの情報を調べ、実際に携わった人、当時消費者であった人達に対して取材を行い、当時の法律や政策等を見ていくと、そこにはテレビ業界の改革、海外コンテンツ輸入、海外アニメググッズ販売店の出現、国営出版社の新興と衰退など、複雑な背景がありました。そしてその根底には、70年代に台湾で巻き起こった日本マンガの一大ブームがあることがわかりました。

     台湾では1966年、蒋介石政権がマンガに対する検閲を始め、それまで順調に成長していた台湾漫画産業は大きな打撃を受けます。当時の台湾では、政治に対する風刺画と、戦前の日本マンガの影響を受けた3段組のコマ割で子供向けの「連環図画」の大きく二つのジャンルがありましたが、そのうち、子供向けのマンガに対して厳しい出版規制の措置が取られ、台湾における創作漫画市場にとっては壊滅的な打撃となりました。[2]
     70年代の台湾では台湾の作家によるオリジナル漫画がほぼ姿を消すこととなり、それを見た国立編訳館[3]は、それまで禁止していた日本マンガの翻訳、出版を許可します。実際にはほとんどが版権を取得していない状態での出版でしたが、オリジナルマンガの消えた台湾のマンガ市場を、日本のマンガがまさに占拠することになりました。日本のマンガばかりが溢れかえった結果、80年代に入ると、これは日本の「文化侵略」であると排斥運動が起こり、オリジナルマンガも徐々に復興。92年には新しい著作権法が施行されて、台湾のマンガ市場は徐々に正常化していきます。

     こうして、台湾のマンガ検閲によって突如起こった日本マンガブームにより、中国に翻訳された日本マンガが大量に出現し、大陸でのマンガブームにおいて大きな供給源として影響を与えていきます。

     海賊版マンガの製造販売卸元は、台湾や香港にほど近い広州や福建などの南方に数多くありました。1979年に深セン、珠海、汕頭、廈門が、1988年には海南省が経済特区として開放され、台湾や香港企業が大挙して進出し、徐々に海外との往来が増えるにつれ、非正規である海賊版のマンガも出版点数が増えていきました。

     当時、中国の法律では香港や台湾を含む本土以外の企業が出版業務に直接関わることはできなかったのですが、マンガのソースを横流しすることは可能です。実際、1988年に設立された「海南美術撮影出版社」は経済特区である海南島に本社をおき、その翻訳は台湾版に酷似していました。そして同社の刊行物に対しては、日本のマンガ、アニメのコアなファン、「オタク」として育っていく層の多くが、以後特別な思いを持つようになります。

    2.海南美術撮影出版社版『聖闘士星矢』が引き起こしたオタク文化の爆発

     1988年に『トランスフォーマー』が上海テレビで放映されると、一大ブームが巻き起こり、関連商品や絵本等がものすごい勢いで売れたことは、前回ご紹介した通りです。これを見て、目ざとい人たちがアニメの経済効果に目を付けます。そして1989年、『聖闘士星矢』が沈陽電視台と広州電視台共同で放送されると、1990年12月[4]、「待ってました」とばかりに海南美術撮影出版社は、簡体字に翻訳されたマンガ『女神的聖闘士』を発売しました。この『女神的聖闘士』で、日本マンガブームに火がつきました。海南版[5]『聖闘士星矢』は、それまでの『鉄腕アトム』のように単行本を無理やり連環画サイズに切ったものではなく、サイズはほぼ単行本と同じもので、1冊を3~4冊に分冊し、1冊1.95元で全9巻45冊を出版しました。当時の1.95元は、今の人民元の価値に換算すると10元前後、日本円で約150円ほどの感覚でしょうか。

     もちろん、『聖闘士星矢』の正規版は、この時点では中国にありませんでした。『女神的聖闘士』はすでに絶版となっていますが、比較的長い時間、全国で安定して販売されていたこともあり、今でも90年代のマンガブームを象徴する存在として愛され続けています。当時、子供たちが購入することのできた漫画の多くは海南美術撮影出版社が販売しており、その印刷や翻訳の質の高さは今でも正規出版だと一部で誤認されているほどです。中国版Wikipediaである「百度百科」において、企業のページは普通、オフィシャルHPや証券会社の会社紹介をそのまま貼り付け、写真はあっても会社のロゴや本社の写真を使用する味気ないものがほとんどであるなか、すでに存在しない海南美術撮影出版社のページでは写真に『女神的聖闘士』が使用され、ファンが書いたと思われる思いのこもった会社紹介が書かれた異質なものとなっています。
     では、この海南美術撮影出版社とはどのような会社だったのでしょうか。それには当時の国有企業改革から紐解かねばなりません。


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