メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、いよいよ第2章の公開です。
ウイルス感染症という、人類がしばらく忘れていたタイプの自然の猛威が地球を覆っていった2020年を境に、デジタル環境は人間にとっての「新しい自然」としての浸食度をますます強めています。そうしたデジタルネイチャーの変化の行く先を、「人工生命」技術の進展や西洋と東洋の自然観の違いに立脚しながら展望します。
落合陽一 マタギドライヴ
第2章 デジタルネイチャーとはいかなる意味で「自然」なのか
「質量のある自然」のインパクトが、「質量のない自然」の変化を加速する
前章では、デジタルネイチャー下における「人間」の在り方がどのように拡張されていくのか、身体や言語という観点から考察しました。では、デジタルネイチャーとはいったいどのような「自然」なのか。本章では、我々を取り巻く「自然」との関係を、改めて捉え直していくことにしたいと思います。
奇しくも2020年は、人類が忘れていた不可視の自然の猛威に直面する年になりました。細菌やウイルスによる感染症の拡大は、文明史の節目節目で大きな影響をもたらしてきた要因でもあります。14世紀のヨーロッパではペストが大流行し、20世紀初頭にはスペイン風邪が世界中で猛威をふるいました。ここで注目すべきは、細菌にしろ、ウイルスにしろ、もちろん自然発生するものではありますが、その感染拡大には人間の営みを含めた環境変動が無視できない要因になっているという点です。
たとえば、ペストの流行の背景には、キリスト教がヨーロッパ各地に布教を進めていく過程で、教会を建てるために次々と森を切り出していったことにより、森に生息していた動物が市街地に居住空間を移した結果としてネズミが市中に増え、ペスト菌の媒介になったことがあると言われています。諸説ありますが、都市の発展に応じて人間が自然を切り開いていったことが影響していることは確かでしょう。
この開墾のモチベーションが、カトリック教会の布教活動の裏返しだったという点は注目すべきです。すなわち、天上にある神の叡智を地上に顕現しようとする情熱が、森を伐採して耕作地を築いたり、ワインを醸造したり、鉄を鋳造したりといった技術文明を、中世のキリスト教世界にもたらしてきたわけです。これは、オリジナルの生態系を、ヨーロッパ人のコモンズ(共有地)が上書きしていったという事態に他なりません。その過程で起きた、自然生態系との不測のコンフリクトが、ペスト菌の猛威だと言われています。
そしてペストによって全人口の1/3ほどにも到達する死者が出た後のヨーロッパに訪れたのが、ルネッサンスの大きな波でした。ペストに対して無力だったローマ教会の権威はしだいに失墜し、ギリシャ・ローマの人文主義を範とする文芸復興の機運を生むとともに、やがて宗教改革の遠因ともなったと考えることもできるでしょう。
加えて、人口が減ったことによって生き残った人々の栄養状態は相対的に改善され、その中で産業構造も変わっていきます。農作を中心とする構造から、家内制手工業を中心に都市構造の中で人々が集団で働く構造への移行が進みます。これを象徴する現象として、ヨーロッパ中の都市で時計塔が普及しました。これは大量の人間が同期して働くという、都市生活のライフスタイルが定着していったことを意味します。
このように西欧が精神革命や産業革命を起こして「近代」というものを生成していく過程には、ペスト以降の都市構造の変化が、分かちがたく結びついているわけです。つまり、世界を構築していく主体を神から人間に移管していこうとする文明のプロセス自体が、ある時点で自然がもたらしたイレギュラーに後押しされて成り立っている。我々の都市環境や歴史は、このような人外の存在との相互作用を含んだ系として捉え返していく必要があるということが、改めて問い直されているのだと思います。
そして、withコロナという思わぬかたちでの「自然との共生」を余儀なくされる経験を経て、ペストが都市化による近代への移行を促したのとは逆に、今度は都市構造からの離脱を促すデジタル化への早急な移行を後押しするインパクトになりつつあります。ペスト以降にも、スペイン風邪や第二次世界大戦、石油ショックにリーマンショックなど、人類の歴史は自然条件と社会的要因が渾然となった様々なショックに揺さぶられてきましたが、人々の広範な生活にまつわるデジタル環境の普及に関するインパクトをもたらす歴史的なショックは、過去にはなかったと思います。
このような破壊的なショックの後には、破壊的イノベーションが起こっていきます。たとえばリーマンショックで金融の価値が揺らいだ後には、その信用を別の形で担保するブロックチェーンという技術が浮上しました。では、コロナ禍の後にはどんなイノベーションが起きているのか。
それは明らかに、人間のデジタルトランスフォーメーションに他なりません。全世界の人間がオンラインでビデオ会議に接続し、日常的にコミュニケーションを行うという状態は、わずか数ヶ月前にはまったく想像もできなかった事態でした。いまや人間のコミュニケーションそのものが、アトムからビットにシフトしているのです。これはビットからアトムへの変換がトレンドでもあった2010年代のインターフェースカルチャーが変化しつつあるものかもしれません。
しかしながら現状の手法論としてはこれらの技術的コンセプトは、1990年代のテレビ会議や2000年代の「Second Life」から脱却できていません。普及率こそ爆発的に高まりましたが、本質的なパラダイムとしては20年前に構想されたものと同じ手法を突き詰めた、漸進的なものに留まっているとも言えます。他方、萌芽的なイノベーションはたくさん起こっており、ディープラーニングによる顔認識や背景差分法などのスピードが上がって実用レベルになり、たとえばZoomのバーチャル背景機能で遊ぶ人たちがたくさん出てきました。また同時多数接続と低遅延化によってClubhouseのような常時接続型のSNSも流行しています。
今回のコロナ禍によって、社会がデジタルトランスフォーメーションを経験している中で起きている重要な社会的な変化を、2つほど挙げておきましょう。
1つは、人間が生得的に持っている「人は見た目が9割」といった印象を左右する要素が、ほぼハードウェアに置き換えられているということ。先日、日本テレビの報道番組「news zero」で共演している有働由美子さんに「オンラインで営業活動をするときに何が大切ですか」と聞かれて、「1にいいカメラ、2にいいマイク、3、4がなくて、5に回線速度」と答えました。つまり、デジタルのインターフェースとソフトウェアによって、印象の大部分が決まってしまうわけです。これは第二の身体としてのデジタルインターフェースの比重が変わったことを意味しています。
もう1つが、リアルタイムでのオンラインコミュニケーション環境の日常化により、「自然」が入り込む余地が確実に増えつつあるということです。2000年代後半のウェブ2.0の時代にも、かつて濱野智史さんが『アーキテクチャの生態系』と呼んだように、予想外の出来事がたくさん起こるSNSのコミュニケーション環境は、かなり自然に近い自律分散性や予測不可能性があると論じられていました。ただ、それがデジタルネイチャーと呼べる域に到達するには、SNSでのテキストベースのコミュニケーションよりも、はるかにリッチな情報が生成されて、対象の変化がそのまま世界の変化につながるような環境である必要があると思います。
その意味では、目下のZoomなどのオンライン環境の日常化は、より自然に振る舞うことになるのは間違いないと思います。もし現在の変化の延長線上に、全世界の人が1つにつながるようなレベルでの巨大なウェビナーのようなものが登場した時には、それぞれの人が生きる元来の自然からの影響をもろに受けるような、新たなデジタル自然が生まれてくるかもしれません。
こうした視座から、アナログとデジタル、「質量のある自然」と「質量のない自然」の関係性を捉え直しながら、変化の行く先を展望していくことが、まさに文明史的な契機を経験している私たちの課題と言えるでしょう。