今朝のメルマガは、宮城県石巻市で単なるボランティア活動にとどまらないユニークな取組みで注目されてきた団体「石巻2.0」代表の松村豪太さんへのインタビューをお届けします。東日本大震災から10年。石巻で地道に活動をつづけてきた松村さんに、石巻のこれまでとこれからについて伺います。
石巻の10年で変えられたことと、変えられなかったこと
「震災以前には戻さない」──「闇鍋」から始まったまちづくり
▲石巻2.0が運営する「IRORI石巻」。コワーキングスペースとしても、カフェとしても利用できる。(撮影:蜷川新)
宇野 僕が今回石巻を訪れたのは2度目で、1度目は10年前の6月あたりでした。区画によってはまだ瓦礫のようなゴミのようなものが積まれていて残っていて、商店街も、津波の影響で損傷しているところが多くて、商業地としては機能していない状態でした。
友達と二人で仙台でタクシーをチャーターして案内してもらったんですが、偶然タクシーの運転手さんがこの辺の出身の人だったんです。その運転手さんが石巻のひどい状態だった商店街を通ったときに、「この街は津波が来る前からどこも潰れているようなもんだったんだよ」と、自虐的に話していたのが記憶に残っています。
東京の学者先生なんかがわかったふうな口でそんなことを言うのではなく、こうやって地元のおっちゃんが普通に言うのだから説得力があるな、と思いましたね。僕も地方出身で、それなりに地方の現状は知っていたつもりで、やっぱり石巻も例外じゃないんだな、と思いました。要するに震災は既にひどい状態だった地方の現実をむき出しにさせたものでもあったわけですね。
松村 2011年の6月というと、石巻2.0のコアメンバーが集まって、団体の名前がついたくらいですね。この辺りは中心部の瓦礫は一応片付けられたものの、まだ船が突っ込んで穴が空いたりした建物が町中に溢れていたと思います。僕はまさにタクシーの運転手さんが言っていた「津波が来る前から潰れているような街」というふうにこの街をみていた代表で「絶対に震災以前には戻さないぞ」と言っていた頃です。
僕はもともと震災以前、NPO団体で総合型地域スポーツクラブのマネジメントをやっていて、夜はバーテンダーとして働いたりなんかして、活発なニートみたいな感じで(笑)活動していました。そんなときに地震ですべてが壊滅するような状態になってしまって。誤解を恐れず言えば、この靄がかかったようなつまらない世界を変えられるんじゃないかと思って、わくわくした部分もあります。
最初の頃は本当にいわゆる復興ボランティア的なことをしていて、被災地の情報を発信していたブログを通じてアクセスしてくれた方を中心に一緒に泥かきをするプチボランティアセンターみたいなかたちで活動していました。石巻は石巻専修大学という大学があるんですけれども、そこの敷地を開放していてボランティアが集まりやすかったんです。当時もピースボートさんや、オン・ザ・ロードさんのような大きな組織は動いていたんですけれども、活動していく中でもっと細かいニーズ……たとえばヘドロにまみれた中華料理屋で大型冷蔵庫を起こすみたいなことにスピード感を持って対応する必要性を感じて活動していました。
こうしていろんな人が集まってくる中で、建築家や、都市計画の研究者や、広告代理店のプロデューサー、ITやデザインを仕事にしているような、クリエイティブな職能を持った人たちと意気投合するようになりました。昼間のガレキ撤去や泥かき、物資の配布といった労働的な仕事の合間に、夜な夜な「闇鍋」と称して石巻を好き勝手に面白く、ある意味つまらなかった地方都市をここから面白く変えていこうという作戦会議をしていました。これが「石巻2.0」の原点です。
▲2011年、オンデザインの西田司さんとそのスタッフさん、学生さんたちと一緒に中華料理店の泥かきをしたときの様子。
▲石巻2.0の原点、2011年の闇鍋のようす。石巻2.0最初のコアメンバー・石巻工房の芦沢啓治さん、ワイデン+ケネディトウキョウ(当時)の飯田昭雄さん、建物の持ち主の阿部久利さんなど。
「闇鍋」を開催している場所は、津波で船が突っ込み全壊する前は旅館でした。だから、泥に埋まった1階からお酒を掘り起こして、東京のメンバーが石巻に来る途中のスーパーでお肉や野菜を買ってきて、発電機の明かりで鍋をつつきながら「フリーペーパーかっこいいの作りたいね」とか、「自分たちでバー作ったら面白くない?」とか、「フェスをやりたい!」とか、自分たちが面白いと思えることを思い思いに語り合って、ひたすらブレストをしていました。
そして7月には「STAND UP WEEK」という、街のいろんな場所を使った、実験的な文化祭のようなイベントを開催しました。テーマごとにさまざまなスピーカーを連れてきて語り合う「まちづくりシンポジウム」や、「野外上映会」、「フリーペーパー」、「復興バー」など、ブレストで上がったものをかたちにしていきました。もう先にポスターを作って街中に貼り出してしまって、見切り発車的にすべてを進めていった感じでしたけど……(笑)。
「太陽光カフェ」という、ちょっと変わったカフェもやりました。並べられたペットボトルに入れた水が太陽光で温かくなって、子ども用のビーチプールでシャワーを浴びることができるというカフェで、今思うとよくあれをかたちにできたなと思いますね(笑)。今はコーヒーショップをやっている方が発起人だったんですが、もともと学生服なんかを扱う洋品店のオーナーさんで、ご夫婦ともに相当な「デッドヘッズ」で(笑)。古き良きアメリカのフェスがすごく大好きな方だったのでああいう企画を思いつかれたんだと思います。今はラスタカラー調の素敵なカフェをやっているんですが、そんな地元の面白い人たちにも参加してもらえました。
石巻市には2011年の1年だけで延べ28万人以上がボランティアで訪れていただいていますが、我々のイベントにはその中でも特に学術系のバックグラウンドを持った人や、まちづくりに興味のある建築系の人が多く参加してくれました。街の人もまったくいなかったわけではなく、新しい若者たちを歓迎する老舗の商店さんなんかももてなす側になって応援してくれましたね。
宇野 活動資金はどうされていたんでしょうか?
松村 はじめは東京のメンバーを中心としたポケットマネーですね。僕ら現地の人間も当然なにか対価を得るわけでもなく、国から助成金をもらっていたわけでもありません。基本的に自分たちが勝手にやりたいからやっていたし、自分たちのものは自分たちで賄っていました。ちょっと経営者寄りのお仕事をしていて、ある程度自由に使えるお金がある人たちが手弁当でやっていた面もあります。
公の紐がついていない分好き勝手できたのと、早くから他の団体よりもボランティア寄りではない、おもしろいことができたことで、注目してもらったり、これから組んでいきたいと思えるような仲間が見つかったのは、とても大きかったと思います。
▲「STAND UP WEEK 」野外上映会の様子(出典)
石巻2.0の10年間
宇野 それが始まりというわけですね。その後からこの10年間、どのように活動を広げていったんでしょうか。
松村 最初の年の好き勝手やった成果をもとに、2012年から復興系の助成金が取れたり、またその後県からの委託事業としてPR用の冊子をつくったり、調査事業やコミュニティ形成支援を市の委託事業として手掛けるようになりました。
はじめは持ち込まれた企画はとりあえずすべてやるという気持ちで、最初の1年だけでもいろんな方と組んで50ほどの事業をやりました。楽しくいろんな広がりを持てたのは狙い通りだったんですが、2〜3年目くらいから入ってくる若手のスタッフ・メンバーが疲弊していきました。「なんで自分はこんなことをやっているのかわからない」というような、フラストレーションと摩擦が大きくなっていって……。そこで3年目からは選択と集中を意識して、特にリソースを集約すべきニーズと、僕らがやりたいことで集約していきました。
今もつづけて行っているのは、大きく分けると三つの柱+1です。
一つは教育事業、二つめはコミュニティ事業、三つめはいわゆる地方創生的な移住促進やベンチャービジネスの創出。そしてプラスαとして、この「IRORI石巻」や「復興バー」、「まちの本棚」という本のコミュニティスペースなどに代表されるような、場の運営です。
コミュニティ事業は、大きく2種類の属性があります。一つは言うなれば「守り」のコミュニティで、「誰もやりたくないけどやらなきゃいけないよね」というようなコミュニティ運営です。具体的に言うと、石巻はお家がなくなった人たちがまずは仮設住宅に移り住んで、その次に復興公営住宅に移り住む……といった具合に、どんどんコミュニティがシャッフルされていくような状態でした。そうなると必然的に、新しい地域の班長さんや、動けない人の見守りとかを誰かがやらなきゃいけなくなってしまった。そういったことを誰がやるのか決める話し合いなどのサポート活動を市の受託事業として我々がやっていました。
▲復興公営住宅入居におけるコミュニティ形成支援業務のようす(出典)
もう一つは「攻め」のコミュニティです。全国的には「小規模多機能自治」、石巻では「地域自治システム」と呼んでいるんですが、要は従来の町内会単位ではなく、小学校区単位くらいで地域住民たちが自分たちの地域を経営していきましょう、という制度ですね。これは全国的に見てもあまりうまくいっている例が少ない制度で、石巻は当時の市長が公約として掲げていたんですが、なにをやったらいいか、本当に誰もわからなかったんです(笑)。「ちょっと若くて元気なやつらがなにかやっているから、あいつらにやってもらおう」ということで、僕らが受託することになりました。
そこで、二つの地域で自治組織を立ち上げました。一つは市街地・住宅地エリアに近い山下地区。ここでは、「子育て部会」や「街歩きマップつくり部会」といった部会を立ち上げて活動しました。60代〜80代の人から若い人が一緒になって街を歩いて、濠とか、危ないところとか、子供が集まれそうなところとかを、あとで集まってから模造紙を広げてマッピングしていくような活動です。
もう一つは農村エリアの桃生地区です。地域のことがより広く知られるように、広報誌を作ったり、「お嫁さん問題」を解決するために「恋活事業」と称して、みんなでお見合いパーティーを楽しく企画するといった活動をやっていました。
▲地域自治システムサポート事業のようす(出典)
▲ワークショップのようす
とはいえ、もともと小規模多機能自治は、もともと後ろ向きな政策と言えます。国にお金がなくなって今までのような手厚い行政のサポートができないから、住民になんとかしてください、と丸投げしていくという発想から作られている。うまくいけば、たとえばもともと行政のルールで公園では火を焚いちゃいけない場所でも「住民の自治組織がやるという大義名分があれば火を焚いていいよ」とか「このエリアで商業活動していいよ」といった権限移譲ができて、稼げる状態をつくることができる。これが理想とされていると思うんですが、全国でもあまりうまくいっている事例はないんじゃないでしょうか。
宇野 お役所の側の見回りや共有地の管理などの人的リソースがかかるところを住民に投げてしまえ、という発想をハックするところから始まっているわけですよね。
ちなみに、教育事業では、具体的になにをやられているんですか。
松村 最初の1年は慶応義塾大学のSDM(システムデザインマネジメント学科)の方たちと一緒に、東京のビジネスマンや、大学の研究者をお客さんとして、課題解決をするプログラムを実施していました。当時の被災地はとにかく課題だらけだし、もともと斜陽産業がたくさんあったので、課題ホルダーがたくさんいました。そういう課題ホルダーがお題を提示して、デザイン思考、システム思考で事業化していくという内容でした。
ただ、やはり絵に描いたようにはうまくいかなくて……。地元の課題ホルダーの方に来てほしかったんですが、みんな復興でそれどころじゃなかったんです。相当がんばって頼み込んで来てもらったりしたんですけど、疲弊してしまって。
そこで途中から方針を変えて、むしろこれから街の未来を担うのは高校生や大学生だ、ということで、ターゲットをがらっと変えました。教育分野では、当時NPO団体がすごく活躍されていて、お家が流されて教育を得る機会がなかった子に私塾的な学習の機会をプレゼントするとか、宿題をサポートするといった活動をしていました。
でも、僕らはどちらかと言うとクラスの隅の方で「こんな街出ていきたい」「こんななにもわからない周りのやつらは嫌だ」みたいな、いわゆる悪い意味で意識の高い、「出る杭」的な生意気な若者をターゲットにしたかったんです。彼らを集めて、東京から来ているカメラマンやライター、プロデューサーなどの専門的な技術を持つ人と交流することで、お題に対して表現する力、アウトプットする力を養う。こういったクリエイティブな能力を磨くための場として、「いしのまき学校」というプロジェクトを立ち上げました。
だいたい1年あたり10人くらいの少数精鋭でやったんですが、もともと偏差値はそれほどでもない子がSFCにAO入試で合格する、といった成功事例はいくつか生み出すことができました。
▲「いしのまき学校」の様子(出典)
宇野 三つめの地方創生事業では、具体的になにをされているんでしょうか?
松村 まず一つに「石巻らしい移住の推進」ということで、移住コンシェルジュをやっています。僕らとしてはリタイア層がほっこり田舎暮らしをするために来るよりも、東京で居場所がなくて「自分はもっと自己実現できるはずだ」という人がチャレンジする場として石巻を選んでほしい、というコンセプトでPRしていますね。
もう一つがローカルベンチャーの立ち上げです。これは地域資源を活用して、ベンチャー的な思考とリテラシーで、おもしろおかしく事業を起こしていく人たちを外に向けてPRしたり、そういう新しい担い手を作っていくワークショップをやったり、リサーチ事業や、東京でトークイベントをやることで盛り上げていく、といったことをやっています。
石巻から考える地方創生の鍵とは
宇野 震災から10年というのはいろいろな意味で節目にならざるを得ないと思うのですが、これからの活動についてはどう考えていますか。
松村 想定はしていましたが、今は大きなターニングポイントですよね。国の地方創生推進交付金を石巻市がもらい、我々が委託事業として活動資源としていたのですが、ちょうどこの3月で当初予定の5年事業が一旦終了したかたちになります。
宇野 今後も持続可能な運動をしていくために、一番の踏ん張りどころですね。
松村 良くも悪くも「復興」という色が消えていくのを感じています。そもそも本来僕らは「復興」というよりも、震源地に近い、なにもなくなったところで、全国的に地方が疲弊していた中で面白い地方都市のモデルを作っていこうとしていたので、この10年のいろんなアイディアを他の自治体を含めて横展開してスケールしていきたいという大まかなプランを持っていますが……なかなか難しいとは思います。
▲松村さん(撮影:蜷川新)
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