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第5回 国産テレビゲームを準備した玩具メーカーたちの文化素性

(前回までのあらすじ)
高度経済成長期、アメリカ進駐軍カルチャーと戦前からの遊戯場文化の混淆の中で発展したセガ、タイトー、ナムコの3社は、
1970年代後半には米アタリ社の『ポン』や『ブレイクアウト』を輸入・模倣しながら国産アーケードビデオゲームを創始する。
同時に、アメリカでの世界初の家庭用テレビゲーム機「ODYSSAY」の登場からほどなく、エポック社の「テレビテニス」を皮切りに、
任天堂やバンダイなどの玩具メーカーがテレビ受像機の電波チャンネルをジャックするかのように、新手のエレクトロニクス玩具として各種の「パドルとボール」式ゲームを遊べるテレビゲーム機を相次いで発売。
日本にも最初のテレビゲームブームを巻き起こすに至った。

■任天堂の大博打――上方アレアの殿堂として

 こうしてテレビゲームに参入した国内玩具企業のルーツは、アーケードゲーム業者のそれよりもさらに古い。

 最も創業時期が早いのは任天堂の明治22年(1889年)で、工芸家の山内房冶郎が京都の空き家で「任天堂骨牌」の店名で伝統的な木版技法を用いた花札の制作・販売を開始したことに遡る。「大統領」印を押したその高品質な札が縁起をかつぐ博徒たちの気性に合致し、京都や大阪の賭博場を中心に大きく伸びたことから、このゲーム史における最重要プレイヤーの歴史は始まっている。さらに明治40年(1907年)には国内で初めて西洋式トランプの製造を開始し、煙草の国営専売公社の流通網に乗せることに成功したことで、全国的な企業へと発展。日本最大のカードゲームのメーカーとして、何度かの社名変更を行いながら、昭和の敗戦までは手堅くブランドを守ってゆく。

 これが1949年に房次郎の曾孫にあたる3代目社長・山内溥の代には、まさに「運(アレア)を天に任せる」の社名通り、浮き沈みの激しい変革期に入る。1953年に初めてプラスチック製のトランプを製造し、1959年に米ウォルト・ディズニー社との困難な版権交渉を成立させてディズニーのキャラクタートランプをヒットさせるまでは「家業の延長」で良かった。しかし、1962年に証券取引市場に上場したのを機に、需要が頭打ちになり始めていたカードゲーム以外の分野での成長を余儀なくされる。そのため、翌63年には社名から「骨牌」を外して、当時流行していたインスタント食品やタクシー、果てはラブホテル経営といった異業種事業で一発当てて高度経済成長の波に乗ろうという博打に乗り出すが、ことごとく失敗に終わった。

 そこで改めて伝統的なゲームの会社たる自社の強みを見直し、任天堂は進出先を、より一般的な玩具の事業に切り替えることになる。その立役者となったのが、花札の製造ラインで設備保守の業務にあたっていた横井軍平であった。彼がたわむれに会社の機械で簡単な玩具を作っていたことに目をつけ、山内は本格的な商品開発を命ずる。横井はその期待に応え、1966年には伸び縮み式の「ウルトラハンド」を開発して140万個の大ヒットを記録。68年には電動でピンポン球を打ち出す「ウルトラマシン」、70年には太陽電池を応用した「光線銃SP」と、徐々に高度な電子技術を導入しながら新製品を次々とヒットさせ、任天堂を玩具業界の有力メーカーへと押し上げたのである。

■バンダイとエポック社が担った戦後ゲーム玩具の近代化

 ここで任天堂の挑戦を受けたのが、バンダイやエポック社といった戦後創業の玩具メーカー群であった。