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第25回 ブームの社会化がもたらした芸能・文化人の参入

 『スーパーマリオ』や『ドラクエ』を通じて国内外に巨大な共通体験を生み出すに至ったファミコンは、もはや一過性の社会現象の域を越えて、時代のリアリティそのものを代表する装置としての資格を帯びつつあった。その過程は、戦後昭和のリアリティを醸成し続けてきた家庭用テレビで空いていた「2チャンネル」が、かつてない規模でジャックされるというかたちで進行したわけだが、侵食された側のテレビのコンテンツに携わる有名人などからのゲームという新参者への応答も、様々に行われていた。

 最も直接的な形態としては、テレビタレントが企画に参加したりキャラクターとして登場したりするタイアップもののタイトルがこの時期に数多く発売されたことが挙げられる。中でも他を圧倒する史的インパクトをもたらしたのが、ビートたけし監修の『たけしの挑戦状』(タイトー 1986年)である。ビートたけしと言えば、第4章でも触れた日本の遊戯場文化のルーツでもある東京・浅草のストリップ劇場や演芸場での下積み経験を元に、強烈な毒吐きネタを持ち味とする漫才コンビ「ツービート」の片割れとして1980年代初頭のマンザイブームを牽引。さらにお笑い番組「オレたちひょうきん族」(フジテレビ 1981~89年)の看板コント「タケちゃんマン」などでテレビバラエティのタブーを次々と破って国民的な人気を確立していた、押しも押されぬ当時のトップ芸人であった。
 そんな日本のテレビ空間と笑いの変革者であったたけしの歩みにとっても、同じくテレビへの攪乱者としてあったファミコンとの遭遇は、小さからぬ意味を持つものだったようだ。『ポートピア連続殺人事件』の流行時、ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)で突如「犯人はヤスだ」のネタバレを広言してみせた逸話や、大がかりなセットでファミコンのアクションゲームさながらのアトラクションステージを現実空間に実現し、自身をラスボスとする視聴者参加ゲームをテレビショー化した「痛快なりゆき番組 風雲! たけし城」(TBS 1986~89年)など、この時期のたけしは放送メディアへの横紙破り的なファミコン体験の持ち込みを様々に試みていたからだ。

 そして反対に、ゲームの側への強烈な横紙破りとして、たけし本人が当時のタレントものとしては異例の徹底ぶりでアイディアを注入して送り出したのが、この『挑戦状』であった。所帯持ちの平凡なサラリーマンが一攫千金を夢見て南の島の財宝を探しにいくという筋立てのアクションアドベンチャーの体裁を採った本作は、情報なしにゲームを始めてもその目的自体を掴むことが困難で、ストーリーを進めるためにはサブコントローラーのマイクを限られたタイミングで使ったり、数々の不条理だったり反社会的だったりする行動を取ったりせねばならず、およそ常識的な攻略や謎解きが一切通用しない。まさに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」を地でいくテレビ芸人としてのたけしのスタンスと同様、既存ゲームにおける当たり前の体験を覆すことばかりが盛り込まれた怪作であった。
 あるいはルールやゴールといった合理的なゲームデザインの概念を徹底して嘲笑する『挑戦状』の暴力的な作風は、デビュー作『その男、凶暴につき』(1989年)を本名で撮って以来、不条理な暴力やコミュニケーションの断絶をめぐる主題を描き続けて国際的な評価を集めることになる映画監督・北野武の原点としても位置づけられる。ソフトの発売前日には、写真週刊誌のスキャンダル取材に激怒したたけし本人が「フライデー襲撃事件」を起こして逮捕されるという、笑いを踏み越えた暴力がらみのオチまで付いたあたり、当時のゲームの立ち位置と越境的な芸能者としてのたけしとのシンクロニシティは、尋常ならざる域に達していた。