欲望に目覚めたほむらは幸せになれるか
劇場版『まどマギ』石岡良治×宇野常寛対談
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.2.18 vol.012

2011年の放映時に話題を巻き起こしたアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』通称『まどマギ』(MBS系)。その完全新作となる2013年の劇場版3作目について宇野常寛と石岡良治が「ネタバレ全開」で語り合います。

▼プロフィール
石岡良治(いしおか・よしはる)[批評家]
1972年生まれ。大妻女子大学ほかで非常勤講師。専門は表象文化論。論考に「クリスチャン・ラッセン、二つの世界のエッジで」(フイルムアート社『ラッセンとは何だったのか?』所収)など。
 
◎構成/新見 直 KAI-YOU 
 
(サイゾー14年1月号所収)
 
宇野 『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)テレビ版は良くも悪くも優等生的な作品だったところがあったと思うんですよ。モラトリアムの学園ユートピアとして描かれがちな「終わりなき日常」=同じ時間を永遠に繰り返す無限ループを、むしろ破滅に至る悪夢として逆転させ、そこからの脱出の可能性をアニメ、ゲーム、特撮など、ここ20〜30年のオタク的想像力を結集させて挑む。そして、なかなかユニークな着地点に落ちる。性的なファンタジーとしての「百合」的なものが脱出のカギになる、みたいなね。
 対して、今回の『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』(以下『叛逆』)は、ある種の「正しさ」が主題だったテレビ版とは角度を変えて、美や欲望の話になっているわけです。テレビ版のラストでまどかが犠牲になってつくられたシステムは「正しい」。しかし、その正しいシステム下で、ほむらのような人間は幸福になれるのか、という問いが浮上してくるわけですね。

石岡 僕は最初に予告編を観た時には、テレビ版からの悪い意味での引き伸ばしだと思っていたんですよね。でも実際に作品を観てみると、むしろいい意味での引き伸ばしだったという驚きがあった。
 テレビ版の最後で、まどかが神になった世界【1】を受け入れたように見える姿よりも、自分の欲望の発露に正直になった『叛逆』でのほむらは退化しているという感想もあります。けれど僕は、テレビ版のラスト、キュゥべえをあしらうほむらの姿に、綺麗にまとめようとする物語から逸脱する想像力を感じていたので、その極端な表れとしての『叛逆』の最後は好意的に見ている。ボロ雑巾のようなキュゥべえの姿は、テレビ版の延長として捉えることもできるんですね。シャフトと新房(昭之)監督【2】の表現や虚淵(玄)脚本【3】、蒼樹うめ絵【4】というさまざまな組み合わせがうまくマッチングした結果、単独では成し得ない成功を収めたのがテレビ版でした。こんなプロジェクトを手放すはずがないわけで、そういう思惑の範囲内で打ち出せるものとしてはかなり高いレベルにいったと思うし、単純に素晴らしいと思う。

宇野 新房監督・シャフトというタッグがこれまでの作品でやってきたのは、2種類の全く性質や文法の異なるものを組み合わせて遊ぶということ。そういった手法の集大成が『まどマギ』だとすると、蒼樹うめと劇団イヌカレー【5】という、本来は相容れないタッチを同居させることから来る豊穣なイメージ世界の展開などは、かなり成功していると言えるでしょうね。

石岡 『叛逆』は、イヌカレーが作り出す異質な世界を当たり前のように通用させ、かつ演出的にも必然的に取り込んでる。特に、テレビシリーズではイヌカレーの世界は、魔女の結界という限定的な空間でのみ登場した異質な表現でした。けれど『叛逆』では、冒頭からいきなりイヌカレー表現の熊型ミサイルが非現実的なまでに大都会と化した見滝原市街の中空を飛んでいく。あれは女の子的なおとぎ話世界のイメージであると同時に、超高層ビルが破壊された9・11のイメージでもある。『叛逆』の前半は、夢の世界というギミックはあるにしても、テレビでは異物でしかなかったイヌカレー表現を、現実を模倣しながら堂々と物語内の日常的な風景である大都市で展開させていて、それはひとつの昇華だと言っていいと思う。