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『リトル・ピープルの時代』その後
――「ヒーローと公共性」のゆくえ(宇野常寛)
――「ヒーローと公共性」のゆくえ(宇野常寛)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.11.27 vol.210
本日のほぼ惑は、宇野常寛の単著『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)電子版399円セール記念! 「ユリイカ」2012年9月特別増刊号(平成仮面ライダー特集)に掲載されたインタビュー記事「『リトル・ピープルの時代』その後――「ヒーローと公共性」のゆくえ」のお蔵出しです。『仮面ライダーW(ダブル)』『オーズ/OOO』『フォーゼ』の近作3本を宇野が批評的に読み解いています。『リトピ―』と併せて読み直せば、平成仮面ライダーシリーズへの理解が深まること間違いなし!
定価 2,376円のところ、11月限定で電子版のみ399円(83%OFF)で発売中! 紙書籍版を持っている方も、持っていない方もこの機会にぜひどうぞ。セールは11月30日まで!
◎聞き手:ユリイカ編集部
■『リトル・ピープルの時代』その後――「ヒーローと公共性」のゆくえ
――宇野さんが昨年刊行された『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)は平成仮面ライダーシリーズにほとんど特権的とも言える位置を与えて、執筆時点までに放映されていた『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダーW』までの歴代作品を非常に細やかに論じられています。しかしやはり、その後の作品についてのお考えも気になるところですので、今回は同書では取り上げられていない『仮面ライダーオーズ/OOO』と現在放送中の『仮面ライダーフォーゼ』を中心に「続・リトル・ピープルの時代」といったようなかたちでお話をうかがえればと思います。
宇野 では、『リトル・ピープルの時代』での議論を前提にお話ししますね。
奇しくも仮面ライダーが誕生してからの四〇年間は世界中で「こんな時代だからこそ(勧善懲悪の)物語を」と考えている人たちがうまくその気持ちを社会にぶつけられなくて暴走してしまうことが、社会を脅かす最大の暴力のひとつとしてずっと問題視されてきた時代だったんですよね。実際、連合赤軍やオウム真理教や「新しい歴史教科書を作る会」やアルカイダに走ってしまった人たちは主観的にはそう考えていたはずです。
こうなったときに、「こんな時代だからこそ勧善懲悪を描く」のが正しい現実批判としてのファンタジーだ、というような単純なロジックは成り立たないと思うんです。むしろ「正義」というものが基本的には成立しない世界について考えることのほうがフィクションのなかでしかできないことであり、ファンタジーの役目になるのかもしれない。『リトル・ピープルの時代』での整理では前者が『クウガ』や『仮面ライダー響鬼』や『W』で、後者が『仮面ライダーアギト』や『仮面ライダー龍騎』や『仮面ライダー555』になる。もちろん、表現を生む方法論として考えたとき、このふたつの考え方はどちらかが正しくて、どちらかが間違っているというわけじゃなくて、どっちもあっていいと思うんですよ。ただ、僕は個人的には後者のほうに圧倒的に刺激を受けて、一〇年くらい考え続けて、その結果長々と評論を書いてしまったんですけどね。
そして『リトル・ピープルの時代』の結論というのは、どちらも難しいところに乗り上げてしまっている、ということなんですよ。前者については、端的に縮小再生産になっていっていると思うんです。世界の平和を守るヒーローが胡散臭くても、街の平和を守るヒーローならまだ成立する、というのが『W』です。でもある街の正義と別の街の正義は違うかもしれない、というのが現代におけるヒーローが直面している問題だと思うので、そこを回避しちゃったら何か肉が入っていないカレーを食べさせられているような気になっちゃう。
『仮面ライダーディケイド』のほうはあそこまでやってしまうともう物語が維持できなくなることを露悪的に証明してしまった。下手に小賢しいメタ物語を紡ごうとするよりも、徹底して考えれば考えるほど物語を語れなくなる現実を、創作物ならではの切り口で表現している。
だから僕は単純に「仮面ライダーは平成初期の白倉路線に戻るべき」だなんて絶対に思わない。『W』は現にそういう視点から作られていると思う。じゃないとわざわざ『仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦 2010』であんな嫌味な『ディケイド』の茶化し方はしない。ダミー・ドーパントをヒロインが「マネっ子なんてカッコ悪い」と罵倒するシーンのことですね、念のために付け加えると。
ちなみに『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』のときに白倉(伸一郎)さんが「昭和まで戻らないと仮面ライダーは正義の味方だとは言えなかった」ってコメントを出していたでしょう? 僕もまったくそう思うんですよ。だからあの映画はむしろ『ディケイド』では「~ではない」という言い方で表現していたものを「~である」という言い方に変えているだけ、いやその逆なんですよね。
――『ディケイド』まである種の構図を突き詰めることによってなにか極端な境界線に触れてしまった。そこからの展開(転回?)としての『W』になるわけですね。
宇野 『W』のキーマンって(左)翔太郎だと思うんです。ハードボイルドというのは社会の承認なんか要らない、自分だけの正義というか信念を貫けばそれでいい、という態度ですよね。でも翔太郎はハードボイルドじゃなくてハーフボイルドでいいじゃないか、というキャラクターじゃないですか。世界の平和を守る大文字の正義は成立しない、かといって自己完結してハードボイルドにもならない。じゃあどうするのかっていうときに自分の街とか、仲間内とかの狭い世界に限定すれば「正義」は成立するというのはとても正しいと思うのだけれど、わざわざフィクションで描かなきゃいけないことだとも思えなかったんです。だって、むしろみんなそういう前提で生きているでしょう? だからこそ翔太郎にはもっと嘘くさくてもいいから積極的なハーフボイルドのビジョンを示してほしかったと思うんですよね。もちろん、なにもかもに目をつぶって大文字の正義のもとに世界の平和を守ります、って見栄を切る方向じゃなくてね。でも『W』ってそれくらいのポテンシャルのあるモチーフを内包していたと思うんです。
これはもう、半分は批評でもなんでもない個人的なキャラクターへの願望なんですけれど、翔太郎は最終回でフィリップと再会しないほうがよかったのかもしれない、とも思うんですよね。もちろん、これはハッピーエンドを見せられてホッとした後だからこそ出てくる注文というか、二次創作的な妄想(笑)なんですが翔太郎はひとりになったほうが「正義」という問題と向き合えたのかもしれないし、もっと魅力的なハーフボイルドのビジョンを示すことができたんじゃないかなって思うんですよね。
―― たしかにフィリップの復活はどうしても翔太郎を「居場所」に回収してしまう。自らをハードボイルドのハーフとしての存在に留めてしまうような側面があったかもしれません。
宇野 いま、「財団X」というすべてを影であやつる秘密結社の存在が『W』以降の第二期平成仮面ライダーシリーズの共通の黒幕として設定されていますよね。僕はあれ、あんまり興味がもてないんですよ。たとえば昔かわぐちかいじが『沈黙の艦隊』という漫画を連載していましたけど、あれって要するに小沢一郎が当時提唱していた手段としての国連主義を実践したらどうなるかというシミュレーションだったと思うんですよ。でも、終盤で物語をまとめられずに、「アメリカの軍需産業こそが黒幕だ」という展開になって一気に白けてしまった。あの作品が面白かったのは、そんな「世界を裏で操る秘密結社」みたいな陰謀論で説明できない世界、明確な「悪」が設定できない世界で、どう平和を実現するかという難題に向き合っていたからだと思うんですよね。その緊張感があってはじめて成立していた。僕は「財団X」設定はうまく使わないと、『沈黙の艦隊』と同じような落とし穴にはまってしまうような気がするんです。「大ショッカー」はパロディだからこそ機能したわけですからね。
――なるほど。新しく黒幕(財団X)を創出しなければならなくなったことの意味というのはやはり重要なものだと思います。その財団Xをいわば劇場版における縦軸とする『W』『オーズ/OOO』『フォーゼ』の第二期のなかではどの作品に惹かれるものを感じられますか。
宇野 第二期の三部作でいちばん「好き」なのは『オーズ/OOO』ですね。人間の欲望がメダル=貨幣に変化して、その集積からグリード=キャラクターが生まれるという設定にはゾクゾクしましたよね。終盤のアンクの死をめぐるエピソードは、実にキャラクターという、言ってみれば僕らが愛さないと存在しない半透明の存在だからこそ描ける展開で、素晴らしかったと思います。資本主義の中から生まれた幽霊、貨幣の交換が生む余剰の結晶としてのキャラクターという存在を突き詰めたエピソードですよ。あれは2・5次元で描くからこそ活きた物語だったはずです。
ただ、『オーズ/OOO』は放送コードの関係なのか個々のエピソードや表現にこの作品のヤバいところがきれいに隠蔽されていたのが惜しいんですよね。
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最終更新日:2024-11-13 07:00
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