某所からこんな相談を頂きました。
「もっと組織の皆にリスクを恐れず挑戦してほしい。許容可能な損失[を計算して動く]という考え方を定着させたい」。

許容可能な損失、というのはエフェクチュエーションという新しめの経営理論の中で使われる概念で、成功する起業家は許容可能な損失を計算し、その中で致命傷を負わないように行動している、ということを多数のサンプルからの観察から結果として導き出した法則性です。

これは企業家理論における大変強烈なカウンターパンチでして、学会における論争の種、未解決の問題です。
従来、企業家はリスクを冒して挑戦する人だと考えられていた。それはもはや企業家的であるかどうかを測る尺度にまで落とし込まれていた。
だが、エフェクチュエーションの研究で明らかになったのは、
【企業家は相当程度、リスク管理している。絶対に致命傷は負わないようにしている。】
だったわけです。

これはよくよく成功する企業家の特徴を捉えています。世界を変えようというチャレンジをしている人ならば、つまらないミスで転ぶのは避けるはずなのです。大きい挑戦を可能たらしめるのは、十分にリスクをコントロールすること。本来それがエフェクチュエーションの研究から明らかになった「許容可能な損失」論であり、あるいは同理論が示唆する「飛行機のパイロット」(パイロットは幸運を祈らない)の原則であるはずなのです。

ところが。エフェを学んだ人、本を読んだ人の一部はどうもこれらの理論を「許容可能な損失を計算すれば、その範囲内で思いっきり動けるようになる」とか(飛行機のパイロットであるべきはずなのに)「出会いをテコにして思いもかけない方向に飛び出していく」といった、”新しい一歩を踏み出そうよ理論”に読めてしまう様子なのです。

その背後にあるのは、何なのか。

***

私は、エフェクチュエーションについては、「そうなっていることを目標とする」理論であり、それ自体をそのまま教育してもエフェ的にはならないと考えています。エフェというのは成功した人の様子を観察して出てきた、結果論。観察された結果それ自体は正しいとしても、そこに至るまでの労苦へとイマジネーションが至らないと―水面下での足掻きとか、上述したリスクコントロールへの細心の注意、あるいは、パイロットとしての押しつぶされそうな重圧といった側面が見えないと―、それをやっていれば成功するのだという実にイージーな人生成功哲学になる。

エフェ的になるためには、精神論じゃなくて、方法論をこそ学ぶ必要がある。アメリカや中国のほうがイノベーションに積極的であるのは、国民性や精神性の違いではなくて、事業を起こす方法を習得する機会が、ジュニア世代からしてそこかしこに用意されているから。事業構想の方法、マーケの方法、ファイナンス、ステークホルダー関係の構築―それらをしっかり身に着け、そして実践した先には、当たり前のようにそうした各種活動で起こりうるリスクを最小限にコントロールし、自分がすべての計器を司り、操縦桿を握っているというパイロットになれる。
そういう人だから、支援が、投資が、集まる。

***

本来、それが許容可能な損失の原則という概念の意味なのです。大きな挑戦をするなら、致命傷を負わないようにせよ。そのためにはどういう労苦が必要か。学ぶこと、よくよく根回しすること、交渉すること、準備を怠らないこと。

大きな挑戦をリスクにしないために、新規事業構想の方法を学ぶのです。マーケティングを学ばずにエフェだけで顧客が集まるはずがないでしょう。集客が求められる場面で「エフェ的にいく」なら、許容可能な損失、パイロットの原則からして、リスクを潰すためにマーケを学ぶ、が正解じゃないですか。だのになぜ、マーケを学ばないのか。財務に不安がある場面を「エフェ的に」乗り越えるとはつまり、自分がその問題をコントロール可能になるためにこそ、管理会計を学ぶことではないのですか。なぜ、学ばない。それで本当にエフェを学んだと言えるのか。

方法が分かれば、怖くはないのです。結果、大胆不敵な行動が生まれてくる。それは一見すると、その挑戦の労苦を知らない人からすれば「あの人はなんてリスクを冒した挑戦をするんだろう」みたいに見える。だけれども、本人からすればそんな評価は勘弁してもらいたいわけです。これだけ大胆不敵な行動をするために、いったいこれまでどれだけ「リスクをちゃんとコントロールしてきたか」が捨象されている。その挑戦のために、当人はあらゆる知識をかき集め、使える伝手を必死に使い、最善の準備をして、動き出している。
そんな意味で、私はエフェはあくまで「そうなっていることを目指す」結果であって、そこに至るための過程は違うと考えています。足掻き、這いずり回り、知にどん欲になり、荒れ狂う乱気流の中で必死に操縦桿を握る。エフェの理論から、なんか幸運が転がり込んでくる人物像ではなくて、必死の形相で駆け回る企業家の姿が透けて見えてくるように、なってほしいな。