『花子とアン』の炭鉱王・伝助について語るときに、
「男尊女卑」を根拠に非難したってしょうがないよ。
時代が違うし、男の器の大きさが違い過ぎる。
都議会の「男尊女卑」議員たちと、炭鉱王の魅力を
比較できるはずがない。
性別が男であるというだけで、
女は俺より下の身分と思い込んでる馬鹿に対して、
わしは「男尊女卑」のサイテー野郎と言ってるのだが、
戦後民主主義的な感覚で「男女平等」こそ
最高と思ってるわけじゃない。
性別が男なんて、何の自慢にもならん。
何の魅力にもならん。
今どきの男たちは「男女平等」の枠内に収監されて
当然だろうし、男も収監されたがっている。
今どきの女だって、その程度の男の方が
安心できるはずだし。
時代が小物しか作り出さないという問題もあるんだよな。
『大東亜論』は、男を去勢する戦後民主主義的なるものを
批判する物語にしたい。
花子にしろ、蓮子にしろ、芸術家だから自我の爆発は
しょうがないとも思ってる。
ああいう女たちは、亭主は凡人の方がいいんだな。