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90年代インディーの話題になると必ずと言っていいほどその名前を聞く島田宏インタビュー。若松市政が操っていた
宇宙パワーや宇宙魔神の正体とも噂される彼はいったい何者なのか? 


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――
北関東方面のプロレスラーに話を聞くと、誰の口からも島田さんの名前が飛び出してきて。島田さんは北関東のキーパーソンというか、ラスボスという印象が強いんですね。

島田 いやいやいやいや、とんでもないですよ(苦笑)。

――
島田さんはレスリングでは知られざる存在だったんですよね?

島田
 レスリング方面ではいろいろと繋がりがありますね。谷津嘉章とは小学生の頃からの知り合いなんですよ。実家がすぐ近くで一緒の小学校に通ってたんですけど、途中で谷津が転校しちゃって。そのあと中学のときは柔道で一緒になって、谷津は柔道もメチャクチャ強くて。高校のときにレスリングを始めたら、谷津とは同じ70キロの階級で(笑)。

――
腐れ縁というか(笑)。2人ともプロレスもやることになりますね。

島田
 自分の場合は谷津と違ってだいぶあとにプロレスをやるんですけどね。もともとプロレスをやりたい気持ちはあったんですけど、親の家業を継がなきゃいけない理由があったので「プロレスをやることはないだろう」と。その前にレスリングで大東文化大学に進学して、練習先のひとつだった自衛隊体育学校にいつのまにかブチ込まれて。

――
ということは、レスリングで優秀だったということですよね。

島田
 まあ、いちおう(苦笑)。大学のレスリング部もキツイですけども、体育学校はもっと大変でしたねぇ(しみじみと)。体育学校っていうのは練習するのが仕事ですからね。練習についていけなくて一般の自衛隊員に戻る奴もいましたから。2年契約の満了後、親が「戻ってこい」ということで実家の仕事を手伝うことなったんですけどね。

――
そこまで体力があるのにレスリングから離れるのはストレスになりませんでした?

島田
 群馬で家業を手伝いながら母校でレスリングの練習をしてましたね。国体の合宿や海外遠征があれば、コーチとして帯同したりとか。あと東京三洋電機という会社が隣町にあったんですけど、先輩から「レスリング部を作りたいからコーチとして来てくれ」と頼まれて。でも、いったん会社に入らないとレスリング部のコーチとして指導できないので、1年間だけ東京三洋電機に勤めることになって。

――
ああ、それで東京三洋電機の経歴があるんですね。

島田
 実績を作るために社会人レスリングの大会に出て優勝したりしたんですよ。1年間働いたあとに会社はやめたんですが、そのままコーチとしてレスリング部の指導は続けたんです。

――
そのレスリング部で折原昌夫さんを指導したんですね。

島田
 あそこからプロレスラーになったのは折原と茂木(正淑)ですね。折原の場合は学校の先生から「プロレスラーになりたい奴がいるんだけど、なんとかならないか?」って相談されて。レスリング繋がりで谷津に紹介はできるけど、根性なかったら無理じゃないですか。とりあえず半年間だけ預かるということで三洋電機に入ってもらって。

――
三洋電機ってかなり懐が大きい会社ですね(笑)。

島田
 三洋電機ってラグビーが強いじゃないですか。人事課長がラグビー部の監督だったんですけど、ボクが入社したときに身体が大きいから「ラグビーをやらないか?」って誘われたんですよ。レスリング部のために入ったのに、3ヵ月間ラグビーの練習もさせられて(笑)。ラクビー部にタックルを教えたりしましたね。 

――
ラクビー日本代表チームが高阪剛や山本KID徳郁を特別コーチとして招聘してましたけど、島田さんが元祖でしたか!(笑)。

島田
 じつは教えてたんですよ(笑)。ラグビーのタックルって一直線だから、当たってくるときに下がればいいだけ。潜り込むようなレスリングのタックルと違ってかわしやすかったんですね。ラクビー部員に「両手を使わないから倒してみて」って全部潰したら、みんな不思議な顔をしてて。全日本の監督なんかも練習を見にくるようになって「タックルを教えてくれ」と。

――
レスリングだけじゃなくてラクビーのコーチもやっていたと(笑)。

島田
 そんなこともあったので人事に融通が効いて、レスリング部に折原を入れることができたってことですよね。折原とのスパーリングは殴る蹴るはあたりまえで。

――
そこは自衛隊体育学校仕込み……。

島田
 折原の顔に自分のシューズのヒモの跡がつくくらい蹴ったりしてましたから。そんな練習を半年間やっても折原は音を上げなかったので谷津に紹介したんですよ。後楽園ホールで会ったのかな。谷津からは「身体が小さいなあ」と言われて、渕(正信)さんも「島田、オマエが入れよ」なんて言われて(笑)。

――
島田さん、身体は大きいですもんね。

島田
 折原はそのとき入団できなくて、三洋に戻って練習は続けたんですけど、「どうしてもプロレスラーになりたい」と。プロレスがダメでも三洋があるという気持ちじゃダメだから、いったんやめさせて「もうあとがない」と全日本にまたお願いしたんです。そうしたらたまたま馬場さんがいらして「じゃあやってみろ」と。

――
当時のプロレスは本当に狭き門でしたよねぇ。

島田
 「たけしプロレス軍団(TPG)」ってあったじゃないですか。そこのテストを受ける茂木が履歴書を送る際に、勝手に俺の分も送ったんですよ。ひとりでテストに行くのが心細かったんですかね。一緒にテストを受けて俺もいちおう合格してるんです(笑)。

――
ハハハハハハ! 幻の「たけしプロレス」軍団員!

島田
 テストの場所は、ウォーリー山口さんのやってたお店の道場ですね。

――
「マニアックス」ですね。

島田
 邪道・外道もあそこの出身ですよね? テストのときに彼らもいたはずですね。俺もテストは合格しましたけど、仕事がありますからね。最初からやる気がなかったし、茂木もそのうちやめちゃったんですよね。TPGも興行があったわけじゃないですし、やっぱり生活がありますから。

――
でも、島田さんは数年後にW☆INGでプロレスデビューしますよね?

島田
 そのときの履歴書がウォーリーさん経由でFMWに流れたみたいで。
――ああ、FMWの事務所は「マニアックス」を間借りしてましたね。

島田
 FMWが旗揚げするときに連絡があったんですよ。「プロレスvsレスリングをやろう」と。

――
初期FMWは異種格闘技路線でしたけど、そんなプランがあったとは!(笑)。

島田
 「明後日から韓国遠征なので来てください」って言われて。仕事もあるし、そんなの無理に決まってるじゃないですか(笑)。それでFMW参戦はなしになったんですけど、FMWの営業をやってた大宝(拓治)さんがW☆INGをやると。働きながら試合ができるということで、W☆INGでデビューすることになったんです。

――
仕事優先でかまわないってことですね。 

島田
 W☆INGはそんなに興行が多くないし、時間が合わせられるときだけ試合に出るということですね。通える範囲だからW☆INGの巡業はあまり行けてないですね。

――
新人の特別扱いに周囲から何か嫌がらせはされませんでした?

島田
 なかったですねぇ。W☆INGには木村浩一郎がいたじゃないですか。浩一郎は高校の後輩ですからね。

――
そもそもレスリング繋がりでプロレス界でも顔が知られてたわけですし

島田
 2代目タイガーマスクの三沢(光晴)も一つ下の後輩で、高校時代に試合をやってボクが勝ってますからね(笑)。俺と谷津が合宿のコーチとして三沢と川田利明の面倒を見たりしてますからね。

――
新人らしからぬ経歴と人脈(笑)。

島田
 柔道とアマレスをやっていたから、ほかの子と比べても受け身は完璧にこなせましたしね。こう見えて当時は身体能力も高かったので(苦笑)。

――
なんてたって自衛隊体育学校ですし。ズバリ、ガチンコも強かったということですよね。

島田
 まあ、そうですね(苦笑)。W☆INGでも自分が外国人レスラーの吟味役なんですよ。

――
要はポリスマンですね。 

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