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    • 2024/04/26
      十年目の『ぼくたちの女災社会』(その2)――『女災』は「これフェミ」を予言していた!(その2)

    テッド(再)

    2023-11-10 19:282
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     さて、再録です。 しばらく「オタク論」と言いますか、そうしたテーマの記事を再録していこうかと思います。
     前回採り挙げたサブカルからオタクへの加害、その原因を探る鍵になるようなものを拾いあげていこうかと思っております。
     今回のは初出が2014/1/18
     年始第一回目の更新なのでそれっぽい挨拶から始まりますが、一応本筋の枕になっているので、そちらも削らず再録することにしました。
     また、動画についても未見の方はどうぞチェックを。

     ================================


     皆さま、今更ですが新年明けましておめでとうございます。
     今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
     さて、随分と更新を怠けておりましたが、それも年末年始、兵頭のココロが大ピンチにあったからです。
     去年の年末はどういうわけか仕事が立て込み、ブログを書く間もなく延々とそちらにかかりきりでした。それ自体は大変にありがたいことなのですが、まあちょっと、与えられた仕事があまりぼく自身のスキルと方向性があわなかったと言いますか……。
     差し障りのない範囲でお話ししますと、要するにエロゲのシナリオを書いていたのです。こういうのは大体エラい人がプロットなどを組み、ぼくなど下っ端がその意向にあわせて具体的なシナリオを書いていくことになります。が……何と言いましょうか、その企画がぼくの好みとはちょっと違ったのです。
     ひと言で言うと感覚が八十年代の「エロコメ」そのままなのですな。
     とにかく主人公はサルのように女に飛びついては「やらせてよー」とせがみ、やりまくる。内省は一切ない。どうです、坊ちゃんたちの大好きな萌えキャラとのエッチでござい、さあ嬉しいでしょう、ってな案配。
     この「エロコメ」という言葉は『サルでも描けるまんが教室』で使われ出した言葉なのですが、ここではエロコメにおいては「主人公のおどけ顔」が重要だと指摘されています。つまり、相手にセクハラなどした時に「見ーちゃった」などと言って、おちゃらけて許してもらう場面などですが(『シティハンター』に出てくるああいう感じですね)、これもしっかり踏襲されています。
     どうにもこういうの、苦手なんですよね。
     いえ、お断りしておきますがこれは必ずしも「ぼくが、個人的に気に食わん」とばかり言っているのではありません。
     エロゲの世界はプレイヤーと主人公の一体感が強く、そして近年(というかこの十五年)はストーリー性も極めて強く、そのためユーザーは美少女キャラもさることながら、主人公キャラの性格設定にも非常に敏感です。中でもこうした「サルのように女を押し倒してるだけ」の主人公は嫌われる傾向にあります。
     またこれはエロゲだけの傾向ではありませんが、「物語世界で異常に評価が高く、周囲の人物に持ち上げられているにも関わらず、客観的に見てそうは思えない」キャラにも、ファンは非常に手厳しい。やはりそこで「主人公マンセーかよ」と醒めてしまうのでしょう(これはブスな女性がぶりっ子キャラに憎悪を抱くのに、非常に近いように思います)。
     要するにそうした主人公設定はどうにもDQN的、バブル的な、あまりはやらないモノなのですね。
     申し上げにくいけれども、まさに今回やらせていただいた作品の主人公は、見事にこの条件に当てはまってしまっているのです。そのくせ、思い出したようにヒロインはメイドコスプレを始め、取ってつけたようにツンデレキャラが登場するという。
     むろん、一般的な(ラノベなどにも輸入されている)「草食系な性格な主人公が自分からは動かないにもかかわらず、女が頼まずとも寄ってくる」というハーレム物も、こっちの欲望を充足させるという意味では似たようなモノであるとは言えましょう。しかし、そうしたハーレム物の本質は敢えて主人公を「受け」の性役割に回らせることで「責め」の重圧、そこで負わされる責任感、罪悪感めいた感情を回避する点にあるわけですね。
     しかしそれも、そこを「おどけて許してもらう」ことで回避する「エロコメ」と「ずるさ」という意味では大同小異とも言えるのですが、ハーレム物の側には「いや、嘘だけどね、こんなの」というオタクの「愛してもらえないことに対する諦念」がどこかにあるように、ぼくには思えます。『ちびまる子ちゃん』で「まる子が何かしでかしたが、おちゃらけて愛嬌でお母さんに許してもらうのを見て、お姉ちゃんが苛つく」といった場面がありますが、どうにもあれを連想してしまいます。
     そしてもう一つ言えば、時々書くようにこうした「ハーレム物」は個別ルートに入るやそのキャラとの一対一の関係が築かれる、という点において実は全くハーレムではないわけです。

     さて、そんな中、ちらっと見てしまったのが『テッド』です。
     ひと言で言うならば「リアルタイプドラえもん」。
     プロットをうろ覚えで書くなら、こうです。

     クリスマスの夜、奇跡が起きた。友だちのいない少年の仲よしのテディベアに生命が吹き込まれ、言葉を話し始めたのだ。少年はテディと親友になり、孤独から解放された――が、それから二十年。元少年とテディはいまだ腐れ縁でダラダラ冴えない日常を過ごしていた。

     そう、仮にのび太が何の努力もせず、ダメ人間のまま三十代を迎えていたら。
     ドラえもんも実はのび太の空想の遊びの相手をしてやっていただけで、四次元ポケットなど持っていなかったのだとしたら。
     そしてドラえもんも中年にさしかかり、下卑たオヤジとなっていたら――。
     そうした仮定の元に作られたのが、本作です。
     ファンタジーを斜に見た作風から、ぼくはこれが『ダンガンロンパ』に登場するモノクマの元ネタに違いない! と思い込み、見てみたのですが、よく調べると最近の作で、モノクマの方が先でした。
     ちなみにこのテディベア、テッドを吹き替えるのは有吉というお笑い芸人らしい人。名演であり、決して悪くはないのですが、やはりモノクマを大山のぶ代が演じたように、例えば八代駿とは言わずとも(もう亡くなってるよ!)何かそれっぽい声優さんを呼んでくるべきだったのでは。奇しくもナレーションは富田康生なのですが、彼は(まさに人生にくたびれたオヤジ、といった風の演技で)初代ドラえもんも演じていたのだから、むしろテッドをアテろ、という気もします。
     さて、いろいろ書きましたが申し訳ないけど本作を見て、ぼくは楽しむことができなかった。
     DVDとは言え一応借りてみたのだから、プロットを知った時には面白そうだと思ったわけだし、上のプロットを今ご覧になった方の中でも、「面白そう」と感じた方は多いのではないかと思うのですが、それがどうしてこうなった……その原因をちょっと、今回は並べ立てていこうかと思います。
     性質上、ネタバレは平気でしまくります。もしこれからご覧になりたいと思った方は、以下はお読みになりませんよう。

     ひと言で言えば、これは「ホモソーシャル()」と「ヘテロセクシャル」のバトルの話です。
     主人公はテッド、そしてその親友(つまりのび太役)ジョンなのですが、他に重要な役としてジョンの彼女(つまり、しずかちゃん)としてロリーが登場します。
     このロリーはバリキャリ(バリキャリが何なのかは知らないが、多分そう)として仕事をこなし、上司には色目を使われれつつ、それをウザがっている状況です。しかしロリーの声優さんってどうにも『セックスアンドザシティ』に出てそうな(調べたら実際出てました)声で、ぼくからすると「洋画の女ってみんな同じような声してるな」と。
     一方、ジョンとデートしても、コブのようにテッドがくっついてくる。ジョンとテッドがギャグを飛ばし笑いあっているのにロリーが乗っかると、いきなり冷める両者。女のギャグと男のギャグのジェンダーギャップが原因で、ホモソーシャルな二人に阻害される女性、といった図式です。
     こんな調子ですから、ジョンとロリーの関係は破局を迎えますが――クライマックスではテッドがストーカー的ファンに拉致られ、それを助けるべくジョンとロリーが奮戦する様が描かれます。ストーカーに引き裂かれたテッドはジョンに「ロリーを二度と手放すな」と言いながら死んでいき――そして、最後には特に理由もなく生き返り、ジョンはロリーと結婚。つまりテッドと別れることもなく、そのまま全てを手に入れてハッピーエンド。
     めでたしめでたし。

     このつまらならさは、何と言いますか、純粋にシナリオの稚拙さに多くの因があると思います。
     時々書くように、もはや「誰かとの別れ」などをきっかけにしたイニシエーションは今時、古い。例えばアニメでも「少年が、異界からきた友人と別れを告げ、大人になる」なんて話はもはや描かれず、大体、異界の友人は「一度帰ったと見せかけて」結局は主人公の家に居着いてしまう。しかしそれも仕方がない、責めるのもお門違いだな、というのがぼくのスタンスではあります。でも、本作はそこに持っていくまでのドラマ上のコストが足りておらず、「はあ?」な感じが否めない。近作でイニシエーションを回避したと言えば『リトルバスターズ!』が思い出されますが、あのお話で理樹がほとんど苦労もしないままに彼女も友人も手にしてハッピーエンド、というぬるいお話であったら、というのが本作のイメージに近いでしょうか。
     もう一つ、本作においてはジョンの「幼児性」は『フラッシュゴードン』に象徴されます。
     実はぼく自身、『フラッシュゴードン』について多くを知りません。知っているのは「三流スペースオペラ」ということだけ。物語冒頭、ジョンとテッドは『フラッシュゴードン』の映画を飽きもせずに眺めています。そこでフラッシュが悪の皇帝に「○○大学ラグビー部主将、フラッシュだ!」と名乗るのを見て、ジョンは「ダサ格好いい」「アメリカンドリームだ」と賞賛します。
     銀河皇帝に「地球防衛軍○○部隊」と名乗るならともかく、大学で何をやっているのかを名乗っても仕方がないと思うのですが、その「一介の市井のアメリカ人」が宇宙の平和を救うところがいかにも格好いいのでしょう。『映画秘宝』でもやはりこのシーンにおいて同じツッコミがなされていたことを思い出します。
     クライマックスの手前では、ジョンがロリーの上司との対決中、テッドから「『フラッシュゴードン』の役者がパーティに来ている」と連絡があり、矢も楯もたまらずパーティに出かけてしまいます。そこで年老いたフラッシュの役者(当然本物が登場します)と出会い、夢心地で「フラッシュと共に宇宙を飛ぶ」幻想に浸るジョン。そこにロリーが現れ、破局を迎える二人、という筋立てです。
     ここで、ジョンは子供っぽさの残る、言ってよければ「オタク」として執拗に描かれます。が、今まで見てきたように『フラッシュゴードン』は妙にDQN臭い。つまりアメリカのオタクは日本よりもやはりマッチョと考えればいいのでしょうか。或いは彼がトレッキーならまた違っていたのでしょうが(『ギャラクシークエスト』のファンがすれっからしのひねくれ者として描かれるのに比べ、ジョンの純朴さを見よ!)。
     このフラッシュの役者さんは最後にジョンとロリーの結婚を取り持つ牧師として登場するなど、ある種、本作の「価値観」を象徴するキャラクターとなっています。それはつまり「子供のまま変わらずにおいて、女もゲット」というものですね。
     そう、この映画は「女」に対するスタンスも、どうにもDQN的なのです。
     テッドは何もできない居候という厄介さに加え、女にもだらしない。デリヘル嬢的なおねーちゃんたちを何人も自宅に呼んでは王様ゲームをやる。中盤戦、ジョンに諭されてバイトを始めるも、レジ打ちのおねーちゃんに手を出してしまう。むろん、可愛いぬいぐるみがそうした挙動に出るからこそ笑えるわけで、まさにここはモノクマと同様の面白さではあるのですが。
     一方、ジョンは童貞で女にモテない……なら感情移入もできましょうが、先に書いたように彼女持ち。そしてそれこそ、ロリーに手を出してくる上司をやっつける、とでもいったエピソードが描かれるならまだしも、そこは『フラッシュゴードン』でうやむやにされたまま。破局しかけるも何とはなしに元の鞘に収まってしまう。繰り返すようにシナリオの甘さ、と取ることもできましょうが、その「甘さ」がぼくには「エロコメ」の「見ーちゃった」に見えてしまう。
     本作の日本語版の字幕監修を町山智浩さんがしていたこと(この仕事は大変に素晴らしい物だったのですが)、本作を岡田斗司夫さんが絶賛していたことは大変に象徴的です。
     本田透さんは「サブカル」を「モテるオタク」と断じましたが、もう少し言えばそれは「女に対してDQN的なオタク」と言える。
     岡田さんはむろん、オタク側の人間ではありますが、世代的にも本人のモテぶりも、やはりちょっとサブカル寄りのように思います。
     つまりこれは「アメリカのオタクはマッチョなのだ」とも言えるし、「いや、アメリカにはオタクなどいない、ヤツらはサブカルなのだ」とも言える(いわゆる「ナーズ」が「女にしつこい」とされていることを、ふと思い出します)。
     また、サブカル君が『俺妹』が売れていると知って、それを真似るとこうなるんじゃないか、とも思えます。
     オチがやや腰砕けの感のある本作ですが、クライマックスに倒すべき敵として現れる「ラスボス」がテッドのストーカー、つまり「ジョン以上にテッドに耽溺してしまった存在、即ちオタク」であるのも象徴的です。
     先のゲームが「オタクの中のちょっとサブカル寄りの人が作った、何か、ちょっと外したオタク作品」であるとするならば、本作は「サブカル君が、オタクを生け贄に差し出すことで自らの幼児性を延命させ、何ら変わることのないままに女をもゲットする」物語だったのです。
     つまり、要するに、結論としてはですね、仮に「オタクとサブカル」という対立構造が成り立つとするのであれば、それはやはり(経済的にも精神的にも世代的にも)持て/モテる者と持た/モテざる者の違い、ということが言え、これからいよいよ前者が増えていく、ということが言えるのですな。

  • 山田太郎と岡田斗司夫とぼくらのオタク主義

    2023-11-03 19:38

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    ・山田編

     文部科学政務官の山田太郎が辞任しました。
     きっかけとなったのは不倫騒動で、オタク――というか、表現の自由クラスタ界隈も大騒ぎです。
     ぼく自身、不倫などというプライベートを大げさに騒ぎ立てること自体が馬鹿馬鹿しいとは思うものの、ご時世でバレたら一発アウトとわかりきった案件に対し、ガードが甘かったことは愚かとしか言えず、残念な気持ちでおります。
     ただ一方、山田師匠自身はピースボートのスタッフであった経歴があるなど、極左と言っていい御仁。表現の自由クラスタそのものが最初から左派であり(だからこそフェミニストたちと徹底して親和的だったわけで)、それは不思議ではないんですが、左派であるということは同時に(サブカル君のオタクへの執拗な嫌がらせを見ればわかるように)名物の内ゲバをオタクを巻き込んでやらかしてくれるということでもあります。

     例えば、昼間たかし師匠。ずっと当ニコブロをご覧いただいている方ならばご記憶かもしれません。『マンガ論争勃発』といったオタク関連、表現の自由関連の著作があり、「オタクはパブリックエネミーじゃなきゃダメだ!」とわけのわからないことを宣っていたことでおなじみの方ですね。

    左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか(再)

     彼は本件に絡んで早速「“オタクを守る議員”は虚像だった…“不倫報道”の山田太郎政務官、取材を重ねた記者が明かす違和感」という奇妙な記事を書いておりました。

     とにかく昼間師匠は山田師匠がオタクを騙して取り入った極悪人であって欲しくてほしくてならないご様子なのですが、その根拠と言えるものが、同記事にはどこにもありません。せいぜいが事務所でも支持者であるオタクと会話がなかったとか、妻子がレイヤーで腐女子なのに政治活動にあまり参加してないとか、その程度。タイトルだけ先に決めて、それに敵う事実が見つからなかった系の記事、と言っていいでしょう。
     そもそも先の(ぼくが採り挙げた)記事を見れば、まさしく昼間師匠こそがオタクの味方を装って取り入ろうとしたが、うまくいかず逆ギレしている御仁であることは自明。まあ、ええ気なモンです。
     そもそもみなさんの方がよくご承知でしょうが、山田師匠、自民に移籍したとたん、とにもかくにもこの種の人たちに粘着されるようになっていたという経緯もあり、昼間師匠もまた、その一人なのでしょう。
     同記事は山田師匠に詳しい記者(という、週刊誌でありがちな実在の怪しい人物)の「オタクの味方だと思っていたのにパパ活をやっていたとは許せぬ(大意)」との声を挙げてもいますが、そもそも山田師匠が金銭の介在を否定していることに加え、それを知ってオタクが失意するという(昼間師匠の脳内には明確に結ばれた)ストーリーが、どうにもぼくには理解できません。
     これは岡田斗司夫氏の愛人問題を思い起こさせます。ぼくが「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と揶揄するような人たちはこの問題が発覚した当時、大はしゃぎで「おまいらオタクのボスだと思ってたヤツは非リアではなくリア充だった、重大なる裏切り行為だぞ」などと言っておりましたが、そもそも庵野秀明とか、オタクでも大物になればモテるのは当たり前のことだというのが、大方のオタクの最初からの認識だったでしょう。

     本件を、山田師匠は「こども家庭庁」の立役者なんだから、不倫は許されないだろう、といった論調で叩く人もおりました。
     確かにそれも理屈としてはわかります。不倫は家庭不和の原因になり得るわけで、規範たるべき人物がそれではどうなのだと。いやしかし、ではその意味で、最初から山田師匠は「こども家庭庁」にふさわしい人物だったのでしょうか。
     そもそもこの「こども家庭庁」、元は「こども庁」であったところが保守派という悪者の横やりで「家庭」のワードをねじ込まれたといった評され方をしてきました。そして山田師匠自身が運動家めいた人の口添えで「こども庁」という呼称にこだわっており、「家庭」を入れるのは不本意だったのです。

     ネーミングなどどうでもいい、と思う一方、ここには「家庭」そのものが「家父長制」を象徴する悪しきものだというフェミニズムのイデオロギーが、強烈に内包されているわけです。
     つまり山田師匠のイデオロギーからすれば不倫は家庭という牢獄を破壊する善きことであり、岡田氏の振る舞いもまた、というしかない。
     ところが左派というのは敵をつぶすためなら、信じてもいない規範を平然と持ち出すのですね。
     もう一つ、先の「山田師匠に詳しい記者」は「山田は『文春』に法的措置をちらつかせている、これまで表現の自由を訴えてきたくせに許せぬ(大意)」とも言っています。
     いや、山田師匠の言い分では『文春』の報道の不倫相手に金銭を与えたという部分は虚偽だというのですが。それともデマを流されても黙って耐えることが、表現の自由クラスタには求められるのでしょうか。表現の自由クラスタの女神は以前、児童レイプを擁護したこと(これはデマでも何でもない事実なのですが)を批判され、法的措置をちらつかせていましたが、アレはいいんでしょうか。単に仲間のやることは全部いいんですかね。

    ・岡田編

     ――さて、本稿の目的は山田太郎炎上と岡田斗司夫バッシングとを比較し、共通点を指摘しようというところにあります。
     こっから先は岡田氏メインなので、山田炎上に釣られてきた方は、ここで引き返していただいて結構ですが、できればついでに見ていっていただくと、大変嬉しいです。
     一応、ここで読むのを止めようかと思った方のために、結論だけ先に書いておきますと、要するに以下のような感じです。

    ・左派はオタクを自分たちの子分であると信じている(もちろん、それは妄想なのですが)。
    ・山田も岡田もやはりその意味で、左派にとって「自分たちの子分であったのに、裏切った存在」である(もちろん、それは妄想なのですが)。
    ・左派にとっては保守派などより、子分だと思っていたのに意に沿わない者への怨嗟が何よりも強い。
    ・それ故、理屈をつけて燃やされている。

     ――まあ、こんな感じでしょうか。
     岡田氏はオタキングを名乗る通り、オタク文化の黎明期から、常にその中心で活動してきた人物。ニコニコ動画、YouTubeでは圧倒的な登録者を誇る動画配信者であると共に、一体全体どういうわけかここ数十年の「オタク界」では「絶対悪」として忌み嫌われ続けています。
     それには岡田氏の若い頃の毒舌ぶりなど、故なしともしない部分もあるのですが、岡田アンチの言い分を見ていくと、あまり理があるとは思えない。
     以下は「オタク界」における「岡田憎し」の世論が実のところ、今回の山田師匠炎上と同じ構造で作られてきたものであるとご説明するものです。

     さて、いつも言っていることですが、SF、サブカルといったオタクの先代文化は左派的価値観を極めて濃厚に持っていました。しかし学生運動の終焉の後、八〇年代に生まれたオタク文化には、イデオロギーというものはありませんでした。ところがその一方、当時のオタク文化はエロ漫画誌を主なプラットフォームにしていたがため左派に強く影響されてしまった、といったことが言えるわけです。
     この当時、岡田氏を初めとするオタク第一世代によって世に放たれた作品群があります。SF大会DAICONⅣにおいてガイナックスの母体と言えるDAICON FILMが発表したOPアニメーション、『帰ってきたウルトラマン』、『快傑のーてんき』、そして『愛國戰隊大日本』です。
     OPアニメには美少女キャラとメカと怪獣が次から次へと登場します。
    『帰ってきたウルトラマン』は『シン・ゴジラ』の元ネタとも言えるシリアスストーリーが展開されるのですが、最後の最後に登場するウルトラマンを、どういうわけか庵野秀明がいつもの小汚いもじゃもじゃ頭の素顔で演じているという代物。
    『快傑のーてんき』は『快傑ズバット』のパロディ。これはマニアに圧倒的支持を持つヒーロー役者宮内洋が主役で、徹底的にキザでクールなヒーロー像を演じた作品なのですが、それを武田康廣氏というまあ、岡田氏とあまり変わらないようなデブチンが主役で、元ネタそのままのキザを演じるわけで、もうそれだけで地獄のようにおかしいものになってしまうわけです。
     これら作品群に共通するのは「パロディ」であり、元の作品の「相対化」をテーマとしていること、とでも言えましょうか。
     OPアニメにおいて、怪獣やメカは何の必然性も意味もなく現れ、暴れ回り、また女の子にやっつけられます。そこではただ、描きたいから描くというオタクの欲望こそが優先されているんですね。一方、『ウルトラ』も『のーてんき』も徹底的にヒーローというものを茶化して見せている。
     そしてそれがある意味、一番透徹されているのが最後の『大日本』なのです。この『大日本』、いまでもYouTubeなどで観れるので、よければ一度観てみていただきたいのですが、要するに「もし右翼が戦隊作品を作ったら」といった馬鹿話から生まれたもので、北の大地からやってきた、五ヶ年計画で日本侵略を企む悪の組織レッドベアー団の魔手から日本を守るヒーローの物語。
     言うまでもなく右も左も笑い飛ばしたものであり、しかし洒落というものを解さぬサブカル連中――具体的にはロートルSFファン――から叩かれた、といったことを岡田氏自身、よく語っていました。何しろ文句をつけてきたのはソ連SF愛好団体「イスカーチェリ」。もう、この存在そのものが面白すぎてギャグなのかと思ってしまいます。
     ただ、それも別に間違いではないのでしょうが、実のところ近年、岡田氏はかなり意図的に上の世代の連中、つまりロートルSFマニアと言ってもいいのですが、ぼくの言い方に直すのであればサブカル連中、彼らを挑発する意図を持って本作をSF大会にぶつけたのでは……と思われる節があることが、明らかになっています。
     事実、上の人間たちは本作をホンキで右翼を礼賛した作品だと信じ込み、激怒しました。喧嘩をふっかけられた岡田氏は彼らを徹底的に洒落のわからぬアホ扱いし、痛快ではあるけれども、さすがにお相手が少々気の毒な気もします。

     何しろ、上のブログの語るところによれば本作が最初に上映されたイベント、TOKON8は三十ヶ国のSF関係者から祝辞を贈られた国際的な大会であり、ナイーブになる気持ちもわからないでもありませんから。
     他にも岡田氏の著書『遺言』には(『大日本』とは直接関係がありませんが)鼻持ちならない上の世代の(そして東京の)SFファンに毒を吐く箇所が出てきます(上ののーてんきを演じた武田氏も同様の想いを吐露しています)。
     SF界でもっとも栄誉ある章で「星雲賞」というのがあるのですが、岡田氏たちはこの賞の候補作として『大日本』をぶつけ、『ブレードランナー』に大差をつけて得票数一位となりながら、無効になったと言います。
     岡田氏側も『大日本』に票集めをするために運動するなど、完全にフェアだったわけではないのですが、ともあれこの当時の岡田氏は上にいるSF連中に敵愾心を抱いており、要するにこれは世代間抗争といった側面が極めて濃厚でした。
     岡田氏は、サブカルという連邦に対して独立戦争を起こしたジオンだったのです。

     ついでなので「岡田アンチ」の言い分について、ここで少し検討しておきましょう。
     DAICON FILM時代は岡田氏側は金儲をしていてけしからぬという物言いが強くされておりました。これはまたコミケなどでも儲けを出す同人誌はけしからぬと言われていたことと全く根を一にしており、当時は(少なくともこの業界では)金儲けというものに対する拒否感がかなり強かったのです。それが、オタク文化が商売になったとたん、サブカル陣営は揉み手をして擦り寄ってきたのだから、全くもって恥知らずな話です。
     近年は例の愛人問題が騒がれることが多いのですが、山田師匠の件でも述べたようにリベラルがそれを言うのは、極めて滑稽です。ぼく自身は、これについては確かに誉められたことではないので、むしろ岡田氏には批判的なのですが。

     他にも、「クリエイターになれないコンプレックスがある」だの「オタク利権を独占している」だのといったことも、よく言われます。
     しかし前者は現実問題として、岡田氏がクリエイターとしての活動もしていることを思うと事実と反しているし、そもそもそのコンプレックスだって、あるに違いないとの思い込みの域を出ないでしょう。後者については商売敵に理不尽な言いがかりをつけているようにしか思えない(具体的にどのような形で排他的に独占しているのか、少なくともぼくはアンチが語っているところを観たことがありません)。
     サブカルがコンテンツを生み出せず、商業的にも成功できなかったことを考えるに、両者とも自分のコンプレックスを敵へとぶつけているだけにしか思えないんですね。
    (他にもいくつかあるのですが、それはすみませんが、課金コンテンツの方で……)

     ことほどさように、サブカル連中はオタクを「自分たちのマスターベーションを手伝ってくれないから」という理由で、酸鼻を極めるバッシングをしていたわけです。
     ところが九〇年代、宮崎事件から一転してオタクは被差別者、被害者となり(それ以前、サブカル自身がオタクをバッシングしていたことは、ヒミツです)、『エヴァ』以降、そのコンテンツには市場的、文化的価値が認められ始めた。そのとたんにサブカルはオタクにひっくり返した手のひらで手もみをしながら擦り寄りだした。これもまた、いつも言っている通りです。
     しかし、彼らにとっては目の上のタンコブがいました。
     丁度当時、岡田氏はオタクの市民権を獲得するため、例えば『オタク学入門』といった本を出すなど盛んに活動していたのです。
     しかしオタクを自分たちの子分であると信じるサブカル君にとって、「オタクを差別から解放した救世主」は自分たちでなくてはなりませんでした(それ以前、サブカル自身がオタクをバッシングしていたことは、ヒミツです)。
     さらに言うならば、サブカル君にとっては岡田氏は自分たちに反旗を翻そうとした十年来の怨敵だったのだから、なおのこと彼からオタク利権を奪わなくてはなりませんでした。
     岡田さえ倒せば、オタクたちは俺たちサブカルのお稚児さんになる――それが彼らの妄念であり、ある意味、彼らは既に半分くらいそれを実現してしまったと言えるでしょう。

     ――と、いよいよ話がアブない領域に入って参りました。
     九〇年代からゼロ年代に至るオタク界の秘史については、有料コンテンツにさせていただきます。
     まあ、実際にはほとんど、調べればわかるようなことでしかないのですが、以下をお読みになりたい方は、下の文字をクリックしてnoteに飛んでください。

    ・X編

  • 風流間唯人の女災対策的読書・第50回「橘玲のバカと無知で世界はなぜ地獄になるのか フェミと左派の“これから”」

    2023-10-27 19:332
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     とうとう第五十回目です!
     書店に行けば新書が山積みのベストセラー作家、橘玲。
     しかしその著作を読むと、「都合の悪い仲間の尻尾切りをして、生き残り戦略に懸ける隠れ左翼」といった印象。
     彼の「フェミ擁護」を見れば、これからの「敵」のどうこうが占えるのではないでしょうか……?

     動画中で採り挙げた小山田圭吾関連の記事は以下を!

     また、『WiLL Online』様の最新記事もチェックよろしく!