71EVAESTiLL._AA1413_.jpg

 皆さま、今更ですが新年明けましておめでとうございます。
 今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
 さて、随分と更新を怠けておりましたが、それも年末年始、兵頭のココロが大ピンチにあったからです。
 去年の年末はどういうわけか仕事が立て込み、ブログを書く間もなく延々とそちらにかかりきりでした。それ自体は大変にありがたいことなのですが、まあちょっと、与えられた仕事があまりぼく自身のスキルと方向性があわなかったと言いますか……。
 差し障りのない範囲でお話ししますと、要するにエロゲのシナリオを書いていたのです。こういうのは大体エラい人がプロットなどを組み、ぼくなど下っ端がその意向にあわせて具体的なシナリオを書いていくことになります。が……何と言いましょうか、その企画がぼくの好みとはちょっと違ったのです。
 ひと言で言うと感覚が八十年代の「エロコメ」そのままなのですな。
 とにかく主人公はサルのように女に飛びついては「やらせてよー」とせがみ、やりまくる。内省は一切ない。どうです、坊ちゃんたちの大好きな萌えキャラとのエッチでござい、さあ嬉しいでしょう、ってな案配。
 この「エロコメ」という言葉は『サルでも描けるまんが教室』で使われ出した言葉なのですが、ここではエロコメにおいては「主人公のおどけ顔」が重要だと指摘されています。つまり、相手にセクハラなどした時に「見ーちゃった」などと言って、おちゃらけて許してもらう場面などですが(『シティハンター』に出てくるああいう感じですね)、これもしっかり踏襲されています。
 どうにもこういうの、苦手なんですよね。
 いえ、お断りしておきますがこれは必ずしも「ぼくが、個人的に気に食わん」とばかり言っているのではありません。
 エロゲの世界はプレイヤーと主人公の一体感が強く、そして近年(というかこの十五年)はストーリー性も極めて強く、そのためユーザーは美少女キャラもさることながら、主人公キャラの性格設定にも非常に敏感です。中でもこうした「サルのように女を押し倒してるだけ」の主人公は嫌われる傾向にあります。
 またこれはエロゲだけの傾向ではありませんが、「物語世界で異常に評価が高く、周囲の人物に持ち上げられているにも関わらず、客観的に見てそうは思えない」キャラにも、ファンは非常に手厳しい。やはりそこで「主人公マンセーかよ」と醒めてしまうのでしょう(これはブスな女性がぶりっ子キャラに憎悪を抱くのに、非常に近いように思います)。
 要するにそうした主人公設定はどうにもDQN的、バブル的な、あまりはやらないモノなのですね。
 申し上げにくいけれども、まさに今回やらせていただいた作品の主人公は、見事にこの条件に当てはまってしまっているのです。そのくせ、思い出したようにヒロインはメイドコスプレを始め、取ってつけたようにツンデレキャラが登場するという。
 むろん、一般的な(ラノベなどにも輸入されている)「草食系な性格な主人公が自分からは動かないにもかかわらず、女が頼まずとも寄ってくる」というハーレム物も、こっちの欲望を充足させるという意味では似たようなモノであるとは言えましょう。しかし、そうしたハーレム物の本質は敢えて主人公を「受け」の性役割に回らせることで「責め」の重圧、そこで負わされる責任感、罪悪感めいた感情を回避する点にあるわけですね。
 しかしそれも、そこを「おどけて許してもらう」ことで回避する「エロコメ」と「ずるさ」という意味では大同小異とも言えるのですが、ハーレム物の側には「いや、嘘だけどね、こんなの」というオタクの「愛してもらえないことに対する諦念」がどこかにあるように、ぼくには思えます。『ちびまる子ちゃん』で「まる子が何かしでかしたが、おちゃらけて愛嬌でお母さんに許してもらうのを見て、お姉ちゃんが苛つく」といった場面がありますが、どうにもあれを連想してしまいます。
 そしてもう一つ言えば、時々書くようにこうした「ハーレム物」は個別ルートに入るやそのキャラとの一対一の関係が築かれる、という点において実は全くハーレムではないわけです。

 さて、そんな中、ちらっと見てしまったのが『テッド』です。
 ひと言で言うならば「リアルタイプドラえもん」。
 プロットをうろ覚えで書くなら、こうです。

 クリスマスの夜、奇跡が起きた。友だちのいない少年の仲よしのテディベアに生命が吹き込まれ、言葉を話し始めたのだ。少年はテディと親友になり、孤独から解放された――が、それから二十年。元少年とテディはいまだ腐れ縁でダラダラ冴えない日常を過ごしていた。

 そう、仮にのび太が何の努力もせず、ダメ人間のまま三十代を迎えていたら。
 ドラえもんも実はのび太の空想の遊びの相手をしてやっていただけで、四次元ポケットなど持っていなかったのだとしたら。
 そしてドラえもんも中年にさしかかり、下卑たオヤジとなっていたら――。
 そうした仮定の元に作られたのが、本作です。
 ファンタジーを斜に見た作風から、ぼくはこれが『ダンガンロンパ』に登場するモノクマの元ネタに違いない! と思い込み、見てみたのですが、よく調べると最近の作で、モノクマの方が先でした。
 ちなみにこのテディベア、テッドを吹き替えるのは有吉というお笑い芸人らしい人。名演であり、決して悪くはないのですが、やはりモノクマを大山のぶ代が演じたように、例えば八代駿とは言わずとも(もう亡くなってるよ!)何かそれっぽい声優さんを呼んでくるべきだったのでは。奇しくもナレーションは富田康生なのですが、彼は(まさに人生にくたびれたオヤジ、といった風の演技で)初代ドラえもんも演じていたのだから、むしろテッドをアテろ、という気もします。
 さて、いろいろ書きましたが申し訳ないけど本作を見て、ぼくは楽しむことができなかった。
 DVDとは言え一応借りてみたのだから、プロットを知った時には面白そうだと思ったわけだし、上のプロットを今ご覧になった方の中でも、「面白そう」と感じた方は多いのではないかと思うのですが、それがどうしてこうなった……その原因をちょっと、今回は並べ立てていこうかと思います。
 性質上、ネタバレは平気でしまくります。もしこれからご覧になりたいと思った方は、以下はお読みになりませんよう。

 ひと言で言えば、これは「ホモソーシャル()」と「ヘテロセクシャル」のバトルの話です。
 主人公はテッド、そしてその親友(つまりのび太役)ジョンなのですが、他に重要な役としてジョンの彼女(つまり、しずかちゃん)としてロリーが登場します。
 このロリーはバリキャリ(バリキャリが何なのかは知らないが、多分そう)として仕事をこなし、上司には色目を使われれつつ、それをウザがっている状況です。しかしロリーの声優さんってどうにも『セックスアンドザシティ』に出てそうな(調べたら実際出てました)声で、ぼくからすると「洋画の女ってみんな同じような声してるな」と。
 一方、ジョンとデートしても、コブのようにテッドがくっついてくる。ジョンとテッドがギャグを飛ばし笑いあっているのにロリーが乗っかると、いきなり冷める両者。女のギャグと男のギャグのジェンダーギャップが原因で、ホモソーシャルな二人に阻害される女性、といった図式です。
 こんな調子ですから、ジョンとロリーの関係は破局を迎えますが――クライマックスではテッドがストーカー的ファンに拉致られ、それを助けるべくジョンとロリーが奮戦する様が描かれます。ストーカーに引き裂かれたテッドはジョンに「ロリーを二度と手放すな」と言いながら死んでいき――そして、最後には特に理由もなく生き返り、ジョンはロリーと結婚。つまりテッドと別れることもなく、そのまま全てを手に入れてハッピーエンド。
 めでたしめでたし。

 このつまらならさは、何と言いますか、純粋にシナリオの稚拙さに多くの因があると思います。
 時々書くように、もはや「誰かとの別れ」などをきっかけにしたイニシエーションは今時、古い。例えばアニメでも「少年が、異界からきた友人と別れを告げ、大人になる」なんて話はもはや描かれず、大体、異界の友人は「一度帰ったと見せかけて」結局は主人公の家に居着いてしまう。しかしそれも仕方がない、責めるのもお門違いだな、というのがぼくのスタンスではあります。でも、本作はそこに持っていくまでのドラマ上のコストが足りておらず、「はあ?」な感じが否めない。近作でイニシエーションを回避したと言えば『リトルバスターズ!』が思い出されますが、あのお話で理樹がほとんど苦労もしないままに彼女も友人も手にしてハッピーエンド、というぬるいお話であったら、というのが本作のイメージに近いでしょうか。
 もう一つ、本作においてはジョンの「幼児性」は『フラッシュゴードン』に象徴されます。
 実はぼく自身、『フラッシュゴードン』について多くを知りません。知っているのは「三流スペースオペラ」ということだけ。物語冒頭、ジョンとテッドは『フラッシュゴードン』の映画を飽きもせずに眺めています。そこでフラッシュが悪の皇帝に「○○大学ラグビー部主将、フラッシュだ!」と名乗るのを見て、ジョンは「ダサ格好いい」「アメリカンドリームだ」と賞賛します。
 銀河皇帝に「地球防衛軍○○部隊」と名乗るならともかく、大学で何をやっているのかを名乗っても仕方がないと思うのですが、その「一介の市井のアメリカ人」が宇宙の平和を救うところがいかにも格好いいのでしょう。『映画秘宝』でもやはりこのシーンにおいて同じツッコミがなされていたことを思い出します。
 クライマックスの手前では、ジョンがロリーの上司との対決中、テッドから「『フラッシュゴードン』の役者がパーティに来ている」と連絡があり、矢も楯もたまらずパーティに出かけてしまいます。そこで年老いたフラッシュの役者(当然本物が登場します)と出会い、夢心地で「フラッシュと共に宇宙を飛ぶ」幻想に浸るジョン。そこにロリーが現れ、破局を迎える二人、という筋立てです。
 ここで、ジョンは子供っぽさの残る、言ってよければ「オタク」として執拗に描かれます。が、今まで見てきたように『フラッシュゴードン』は妙にDQN臭い。つまりアメリカのオタクは日本よりもやはりマッチョと考えればいいのでしょうか。或いは彼がトレッキーならまた違っていたのでしょうが(『ギャラクシークエスト』のファンがすれっからしのひねくれ者として描かれるのに比べ、ジョンの純朴さを見よ!)。
 このフラッシュの役者さんは最後にジョンとロリーの結婚を取り持つ牧師として登場するなど、ある種、本作の「価値観」を象徴するキャラクターとなっています。それはつまり「子供のまま変わらずにおいて、女もゲット」というものですね。
 そう、この映画は「女」に対するスタンスも、どうにもDQN的なのです。
 テッドは何もできない居候という厄介さに加え、女にもだらしない。デリヘル嬢的なおねーちゃんたちを何人も自宅に呼んでは王様ゲームをやる。中盤戦、ジョンに諭されてバイトを始めるも、レジ打ちのおねーちゃんに手を出してしまう。むろん、可愛いぬいぐるみがそうした挙動に出るからこそ笑えるわけで、まさにここはモノクマと同様の面白さではあるのですが。
 一方、ジョンは童貞で女にモテない……なら感情移入もできましょうが、先に書いたように彼女持ち。そしてそれこそ、ロリーに手を出してくる上司をやっつける、とでもいったエピソードが描かれるならまだしも、そこは『フラッシュゴードン』でうやむやにされたまま。破局しかけるも何とはなしに元の鞘に収まってしまう。繰り返すようにシナリオの甘さ、と取ることもできましょうが、その「甘さ」がぼくには「エロコメ」の「見ーちゃった」に見えてしまう。
 本作の日本語版の字幕監修を町山智浩さんがしていたこと(この仕事は大変に素晴らしい物だったのですが)、本作を岡田斗司夫さんが絶賛していたことは大変に象徴的です。
 本田透さんは「サブカル」を「モテるオタク」と断じましたが、もう少し言えばそれは「女に対してDQN的なオタク」と言える。
 岡田さんはむろん、オタク側の人間ではありますが、世代的にも本人のモテぶりも、やはりちょっとサブカル寄りのように思います。
 つまりこれは「アメリカのオタクはマッチョなのだ」とも言えるし、「いや、アメリカにはオタクなどいない、ヤツらはサブカルなのだ」とも言える(いわゆる「ナーズ」が「女にしつこい」とされていることを、ふと思い出します)。
 また、サブカル君が『俺妹』が売れていると知って、それを真似るとこうなるんじゃないか、とも思えます。
 オチがやや腰砕けの感のある本作ですが、クライマックスに倒すべき敵として現れる「ラスボス」がテッドのストーカー、つまり「ジョン以上にテッドに耽溺してしまった存在、即ちオタク」であるのも象徴的です。
 先のゲームが「オタクの中のちょっとサブカル寄りの人が作った、何か、ちょっと外したオタク作品」であるとするならば、本作は「サブカル君が、オタクを生け贄に差し出すことで自らの幼児性を延命させ、何ら変わることのないままに女をもゲットする」物語だったのです。
 つまり、要するに、結論としてはですね、仮に「オタクとサブカル」という対立構造が成り立つとするのであれば、それはやはり(経済的にも精神的にも世代的にも)持て/モテる者と持た/モテざる者の違い、ということが言え、これからいよいよ前者が増えていく、ということが言えるのですな。