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【第161回 芥川賞 受賞作】今村夏子「むらさきのスカートの女」
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【第161回 芥川賞 受賞作】今村夏子「むらさきのスカートの女」

2019-07-12 11:09
     うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているのでそう呼ばれているのだ。
     わたしは最初、むらさきのスカートの女のことを若い女の子だと思っていた。小柄な体型と肩まで垂れ下がった黒髪のせいかもしれない。遠くからだと中学生くらいに見えなくもない。でも、近くでよく見てみると、決して若くはないことがわかる。頬のあたりにシミがぽつぽつと浮き出ているし、肩まで伸びた黒髪はツヤがなくてパサパサしている。むらさきのスカートの女は、一週間に一度くらいの割合で、商店街のパン屋にクリームパンを買いに行く。わたしはいつも、パンを選ぶふりをしてむらさきのスカートの女の容姿を観察している。観察するたびに誰かに似ているなと思う。誰だろう。
     うちの近所の公園には、「むらさきのスカートの女専用シート」と名付けられたベンチまである。南側に三つ並んでいるうちの、一番奥のベンチがそれだ。
     ある日のむらさきのスカートの女はパン屋でクリームパンを一個買い、商店街を抜けて公園へと歩いて行った。時刻は午後三時を回ったばかり。公園に植えられたアラカシの葉が「むらさきのスカートの女専用シート」に木陰を作っていた。むらさきのスカートの女はシートの真ん中に腰を下ろし、買ったばかりのパンを食べた。なかのクリームがこぼれ落ちないように、左手を受け皿のようにして食べていた。アーモンドの飾りが付いた部分は少しの間眺めてから口に入れ、最後のひと口は名残惜しそうに、特に時間をかけて噛んでいた。
     その姿を見ていて思った。むらさきのスカートの女はわたしの姉に似ている気がする。もちろんまったくの別人だということはわかっている。顔が全然違うから。
     姉も、むらさきのスカートの女みたいに最後のひと口に時間をかけるタイプだったのだ。妹のわたしに口喧嘩で負けるようなおとなしい姉だったが、食べものに対する執着だけは人一倍強かった。一番好きな食べものはプリンで、容器の底に残ったカラメルをスプーンですくい取り、それを十分でも二十分でも、飽きることなく眺めていた。食べないならちょうだい、と、わたしが横からパクッと食べてしまった日には、家中が引っくり返るほどの大喧嘩へと発展したものだ。あの時、姉に引っかかれてできた傷跡は、今もわたしの左の二の腕に残っている。おそらく姉の右手の親指にも、あの時わたしが噛みついてできた歯形の跡が残っているはずだ。親の離婚をきっかけに一家が離れ離れになって二十年。姉は今頃どこで何をしているのだろう。一番好きな食べものはプリンだとわたしは思っているが、それも今は変わっているかもしれない。
     むらさきのスカートの女がわたしの姉に似ている気がするということは、むらさきのスカートの女は、妹のわたしにも似ているということになるだろうか。ならないか。共通点なら、無いこともないのだ。あちらが「むらさきのスカートの女」なら、こちらはさしずめ「黄色いカーディガンの女」といったところだ。
     残念ながら「黄色いカーディガンの女」は、「むらさきのスカートの女」と違って、その存在を知られてはいない。
    「黄色いカーディガンの女」が商店街を歩いたところで、誰も気にも留めないが、これが「むらさきのスカートの女」となると、そうはいかない。
     例えば、アーケードの向こう側からむらさきのスカートの女の姿が見えただけで、人々の反応はわかりやすく四つに分かれる。一、知らんふりをする者。二、サッと道を空ける者。三、良いことあるかも、とガッツポーズする者。四、反対に嘆き悲しむ者(むらさきのスカートの女を一日に二回見ると良いことがあり、三回見ると不幸になるというジンクスがある)。
     むらさきのスカートの女がすごいと思うのは、周りの人間がどんな反応を示そうと、決して自分の歩みのペースを変えないことだ。一定の速度で、スイスイスイと人混みをすり抜けて行く。不思議なことに、週末のどんなに人通りの多い時間帯でも、決して物や人にぶつからないのだ。あれはよほど優れた運動神経の持ち主か、もしくはおでこにもう一つ目が付いているかのどちらかだと思う。周りに気づかれないよう前髪で隠してはいるが、じつは第三の目でぐるり三百六十度を見渡せているに違いない。いずれにせよ、黄色いカーディガンの女には真似のできない芸当だ。
     あまりにも見事によけて歩くので、こちらからわざとぶつかりに行ってみる、なんていうおかしな人間が出てくるのもわかる気がする。じつはわたしが、そのおかしな人間のうちの一人だったりする。みんなが失敗しているように、わたしも失敗した。あれは今年の春先だったか、普通に歩いていると見せかけて、数メートルほど手前から突如スピードを上げ、むらさきのスカートの女めがけて突っ込んだのだ。
     馬鹿なことをしたと今はそう思う。すんでのところで、むらさきのスカートの女はするりんと身をかわし、わたしは勢いあまって肉屋のショーケースに体ごと激突、幸いにも無傷で済んだが、店側から多額の修理代金を請求されるはめになったのだから。
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